お金がありすぎて困っています。 ――その言い方、嫌な女にしか聞こえませんわ』

ふわふわ

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第4話 試される婚約

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第4話 試される婚約

 ベルフラワー公爵邸の書斎は、夕暮れの光に包まれていた。
 高い天井、重厚な本棚、磨き上げられた机。すべてが「富」と「格」を主張する空間である。

 その中央で、プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、書簡を手に黙り込んでいた。

 差出人は、顔なじみの貴族。
 内容は、ここ数日で何通目になるか分からない――同じ話題だった。

「……フレッジリン侯爵家の件、耳にしているか?」

 遠回しで、しかし確実に噂を伝える文面。
 心配している体裁を装いながら、行間には同じ意味が滲んでいる。

 ――あの女は、金に困っている。

 プロフィットは、書簡を机に置いた。

(皆が、同じことを言う)

 偶然ではない。
 社交界全体が、同じ方向を向いている証拠だ。

 彼は椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。

 婚約者、シグネット・フレッジリン侯爵。
 会えばいつも穏やかで、感情を荒立てることもなく、金の話題にも深入りしない。

(……それが、逆に不自然だったのかもしれない)

 金に困っていない者なら、もっと余裕を見せる。
 困っているからこそ、話を逸らし、触れられないようにしている――。

 そう考えると、すべてが繋がる気がした。

 彼の脳裏に、リス・クライム伯爵令嬢の言葉が蘇る。

『公爵家のご負担になるようなことがあれば……』

 あの時、彼女ははっきりとは言わなかった。
 だが、言わなかったからこそ、真実味があった。

(もし、だ)

 思考が、最悪の可能性へと滑り落ちていく。

(婚約後に、侯爵家の負債が明るみに出たら?
 公爵家が肩代わりするのが当然、という空気になったら?)

 ぞっとする。

 それは“愛”でも“情”でもない。
 ただの損失だ。

「……いや、冷静になれ」

 プロフィットは、低く呟いた。

 婚約は契約。
 感情で判断するものではない。

 だからこそ、今、判断しなければならないのだ。

 その夜、彼はシグネット宛の書簡を用意した。
 形式的な文言。丁寧で、礼儀正しい文章。

 だが、その内容は――
 “婚約について、改めて話し合いたい”というものだった。

 翌日。

 フレッジリン侯爵邸の応接間は、静まり返っていた。
 プロフィットは、約束の時間ぴったりに訪れた。

「お久しぶりです、殿下」

 迎えたのは、いつもと変わらぬシグネットだった。
 落ち着いた微笑み。隙のない所作。

(……やはり、分からない女だ)

 プロフィットは、内心でそう思う。

「突然のお呼び立て、失礼いたしました」
「いいえ。お話があると伺っておりますわ」

 向かい合って座る二人の間に、沈黙が落ちる。

 切り出したのは、プロフィットだった。

「最近……あなたに関する噂を、よく耳にする」

「存じております」

 即答だった。

 動揺も、弁解もない。

「フレッジリン侯爵家は、資金繰りが厳しいのではないか、と」

 あえて、遠回しな言い方を選ぶ。

 シグネットは、少し首を傾げた。

「そのように、聞こえるのでしょうね」

 否定しない。
 肯定もしない。

 その曖昧さが、プロフィットの不安をさらに煽った。

「……もし、それが事実なら」

 声が、わずかに強くなる。

「この婚約は、公爵家にとって大きな負担になる」

 彼は、理性を装って続ける。

「私は、家を守らねばならない立場だ。
 感情で決めるわけにはいかない」

 それは、正論の形をしていた。
 だが、その奥にあるのは、恐怖と保身だ。

 シグネットは、静かに彼を見つめていた。

 その視線に、責める色はない。
 ただ、観察するような、澄んだ眼差し。

「殿下」

 穏やかな声。

「ひとつ、お伺いしてもよろしいかしら」

「……何だ」

「噂の裏を、確かめようとはなさいませんでしたの?」

 プロフィットは、言葉に詰まった。

 確かめる――?
 帳簿を見たわけでもない。
 直接、問うたわけでもない。

 だが。

(皆が同じことを言っている)

 それで、十分だと思っていた。

「……必要ない」

 彼は、そう答えた。

「噂がこれほど広がるということは、それなりの理由がある」

 シグネットは、ゆっくりと頷いた。

「そう。では……」

 彼女は、微笑んだ。

「殿下のお考えは、よく分かりましたわ」

 その表情に、怒りも悲しみもない。
 ただ、納得があった。

(……なぜだ)

 プロフィットは、違和感を覚える。

 普通なら、ここで焦る。
 否定する。
 取り繕う。

 だが、シグネットはしない。

「ですので」

 彼女は、静かに告げた。

「ご判断は、殿下にお任せいたします」

 その言葉は、突き放すでもなく、縋るでもない。
 選択を、完全に委ねる響きだった。

 プロフィットは、思わず拳を握る。

(……逃げ道を与えられている?)

 いや、違う。

(これは……試されている)

 金に困っていると噂される女を切るか。
 それとも、信じるか。

 彼は、答えをすでに持っていた。

「……近いうちに、結論を出そう」

「ええ。お待ちしておりますわ」

 シグネットは、最後まで穏やかだった。

 その夜、彼は決意を固める。

 婚約は、解消すべきだ。
 それが、公爵家にとって最善の選択だと。

 だが彼は、まだ知らない。

 この婚約が――
 誰にとっての“試練”であり、
 誰にとっての“報酬”になるのかを。

 その答えは、すでに動き始めていた。
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