お金がありすぎて困っています。 ――その言い方、嫌な女にしか聞こえませんわ』

ふわふわ

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第15話 噂が揺らぐ音

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第15話 噂が揺らぐ音

 ベルフラワー公爵邸に、思いがけない来客の報せが届いたのは、午前の執務がひと段落した頃だった。

「フレッジリン侯爵家より、使者が参っております」

 執事の言葉に、プロフィット・ベルフラワー公爵令息は一瞬だけ手を止めた。

「……フレッジリン?」

 反射的に、その名を口にする。

 脳裏に浮かんだのは、当然のように一人の女――
 シグネット・フレッジリン侯爵。

(今さら、何の用だ)

 彼女とは、すでに縁は切れている。
 婚約も破棄した。
 互いに干渉する理由など、残っていないはずだ。

「用件は?」

「市場の動向について、形式的な確認をとのことです」

 執事は、あくまで事務的に答える。

「……形式的?」

 プロフィットは、鼻で笑った。

(白々しい)

 市場の動向などという建前は、どうでもいい。
 本当の目的は、想像がつく。

(困っているのだろう)

 資金繰りが苦しくなり、
 頼れる相手を探している。

 そう考えると、胸の奥に、歪んだ優越感が湧き上がった。

「通せ」

 短く告げる。

「話くらいは、聞いてやる」

 やがて、応接用の小広間に案内され、プロフィットは椅子に腰掛けた。
 ほどなくして現れたのは、若い書記官だった。

 丁寧な所作で一礼し、名乗る。

「フレッジリン侯爵家書記官、代理として参りました」

 シグネット本人ではない。

(……逃げたか)

 その事実に、プロフィットは内心で笑う。

 本人が来られないほど、切羽詰まっている――
 そう解釈したかった。

「それで?」

 腕を組み、上から目線で促す。

「市場の確認とは?」

「現在の小麦相場について、事実関係を整理しておきたく」

 書記官は、淡々と答えた。

「外国産小麦の流入量、国内在庫の推移、
 そして、各家が抱える倉庫状況について」

 その口調には、焦りも媚びもない。
 ただ、冷静な確認だけがあった。

(……妙だな)

 プロフィットは、わずかに眉をひそめる。

 困窮している家の使者であれば、
 もっと遠回しに助けを求めるものだ。

「そんなことを、なぜ我が家に?」

「ベルフラワー公爵家は、市場で最も大きな取引をされております」

「……だから?」

「ですから、動向を把握する上で、無視できない存在です」

 書記官の言葉には、事実以上の含みがなかった。

 その態度が、逆に、プロフィットの神経を逆撫でする。

(借金があるはずの家の使者が、この余裕?)

「貴家は、余裕なのか」

 思わず、口に出していた。

「市場を確認する余裕があるとは、意外だ」

 書記官は、一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げる。

「余裕があるかどうかは、私の判断ではございません」

「では、侯爵は?」

 プロフィットは、薄く笑った。

「シグネット侯爵は、どうしている」

「通常通り、公務にあたっておられます」

「……通常通り?」

 拍子抜けするほど、あっさりとした答えだった。

 困窮している様子も、切迫した気配もない。

(おかしい)

 頭の中で、警鐘が鳴る。

 噂では、金に困っているはずだ。
 借金があり、いずれ破綻すると。

 だが、目の前の書記官からは、
 その“前提”が一切感じられない。

「確認は、それだけか」

 少し苛立ちを含んだ声で尋ねる。

「はい。本日は情報の整理のみです」

 それだけ言うと、書記官は深く一礼した。

「ご協力、感謝いたします」

 そして、何事もなかったかのように、部屋を後にした。

 扉が閉まる。

 応接室に残されたプロフィットは、しばらく動けずにいた。

(……何だ、今のは)

 助けを求めるでもなく、
 条件を探るでもなく、
 ただ“確認”をしただけ。

 それなのに、胸の奥がざわつく。

(なぜ、あんなに落ち着いている)

 借金がある家の使者が、
 市場を“俯瞰”するような態度を取れるはずがない。

「……噂が、間違っているとでも?」

 口に出した瞬間、
 強く首を振る。

(いや、そんなはずはない)

 あれほど流れている話だ。
 今さら、根も葉もない噂というわけがない。

(きっと、虚勢だ)

 そう自分に言い聞かせる。

 追い詰められているからこそ、
 平然を装っているのだ。

 だが――
 心のどこかで、確実に“揺らぎ”が生まれていた。

 自分が信じてきた前提。
 シグネットは金に困っているという確信。

 それが、わずかに、音を立てて軋み始めている。

 その日の夕方、再び帳簿に向かいながらも、
 プロフィットの視線は、数字に集中できなかった。

(もし、噂が違っていたら)

 考えたくない思考が、頭をもたげる。

(もし、あいつが――)

 そこまで考えて、彼は思考を切り捨てた。

「……あり得ない」

 小さく呟く。

 自分が信じてきたものが、
 すべて間違っていたなど、認められるはずがない。

 だが、その夜。

 ベルフラワー公爵邸の廊下で、
 使用人たちが交わす小さな噂話が、
 彼の耳に入ることになる。

「フレッジリン侯爵家、最近も寄付を続けているそうですよ」
「ええ、孤児院や学校に……」

 その言葉は、
 プロフィットの中で、
 決定的な違和感として残った。

 噂が、
 ゆっくりと、しかし確実に――
 崩れ始めている音だった。
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