19 / 40
第19話 逃げた者、残された者
しおりを挟む
第19話 逃げた者、残された者
ベルフラワー公爵邸の空気は、以前とはまるで違っていた。
小麦の引き取りが完了してから数日。
屋敷の中は、奇妙な静けさに包まれている。
破産の危機は回避された。
帳簿の上では、確かにそうだ。
だが――
誰一人として、安堵の表情を浮かべていなかった。
使用人たちは淡々と仕事をこなしている。
だが、その視線はどこか冷めている。
(……助かった、はずだろう)
廊下を歩きながら、プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、胸の奥に広がる違和感を拭えずにいた。
破滅は免れた。
家名も、形式上は保たれている。
それなのに――
何かを、決定的に失った感覚だけが残っている。
「プロフィット様」
控えめな声に振り返ると、執事が立っていた。
「来客です」
「……誰だ」
一瞬、フレッジリン侯爵家の名が頭をよぎり、
思わず身構える。
「クライム伯爵家より、使者が」
その名に、ぴくりと眉が動いた。
リス・クライム伯爵令嬢。
かつて、頻繁にこの屋敷を訪れていた女。
そして――
シグネットに関する噂を、誰よりも熱心に広めていた存在。
「通せ」
短く告げたが、
執事は、気まずそうに視線を逸らした。
「……いえ」
「使者は、いません」
「は?」
「クライム伯爵家より、
“リス令嬢は行方不明になった”との通達が届いております」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……行方不明?」
「はい」
執事は、淡々と続ける。
「小麦相場の件が明らかになった翌日、
屋敷を出たまま戻られていないとのことです」
プロフィットは、無意識のうちに、拳を握りしめていた。
(逃げた……のか)
あれほど、熱心に耳元で囁いていた女。
――シグネットは金に困っている。
――婚約を破棄すれば、あなたが正しいと証明される。
そう吹き込み、
自分の決断を後押ししていた存在。
だが、形勢が逆転した瞬間、
彼女は姿を消した。
「……卑怯な」
吐き捨てるように呟く。
だが同時に、
胸の奥で、別の声が囁いた。
(私は、あの女の言葉を信じた)
信じたのは、自分だ。
都合のいい噂を、疑いもせず受け入れた。
執事が、続ける。
「社交界でも、噂になっております」
「どんな、だ」
「……」
一瞬の沈黙の後、
執事は言葉を選びながら口を開いた。
「“ベルフラワー公爵家は、
虚偽の噂に踊らされ、
本当に価値あるものを手放した”と」
胸を、鈍い痛みが貫いた。
「……誰が、そんなことを」
「多くの方が」
執事は、はっきりとは名を挙げなかった。
だが、想像はつく。
小麦を引き取ったフレッジリン侯爵家。
市場を安定させ、
孤児院や学校への供給を即座に始めたシグネット。
その行動は、
否応なく注目を集めている。
(……称賛、か)
かつて、自分が浴びるはずだったもの。
「プロフィット様」
執事が、静かに告げる。
「今後、婚姻に関する打診は……
しばらく、途絶えるかと」
当然の結果だった。
婚約を破棄し、
その理由が“金目当ての女だった”という前提に基づいていた以上、
その前提が崩れた今、
彼の評価もまた、崩れている。
「……そうか」
それ以上、言葉は出なかった。
夜。
執務室に一人残り、
プロフィットは、机の引き出しから一通の書簡を取り出した。
婚約が決まった頃、
シグネットから届いたものだ。
丁寧な文字で、
淡々とした言葉が綴られている。
――家の都合ではありますが、
誠実な関係を築ければと存じます。
感情を押し付けることもなく、
見返りを求めることもない。
今になって思えば、
あれは最初から、
「対等な立場」の文面だった。
(……なぜ、あの時)
噂よりも、
本人の言葉を信じなかったのか。
プロフィットは、書簡をそっと閉じた。
窓の外では、
街の灯りが穏やかに揺れている。
フレッジリン侯爵家の名は、
今、称賛とともに語られている。
対して――
ベルフラワー公爵家の名は、
“愚かな判断の象徴”として、
静かに囁かれていた。
逃げた者は、姿を消した。
責任を負うこともなく。
残された者だけが、
結果と向き合わされる。
それが、
貴族社会の、
そして――
人生の、現実だった。
プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、
その夜、初めてはっきりと理解した。
自分が失ったのは、
金でも、地位でもない。
信頼と、未来を選ぶ資格だったのだと。
ベルフラワー公爵邸の空気は、以前とはまるで違っていた。
小麦の引き取りが完了してから数日。
屋敷の中は、奇妙な静けさに包まれている。
破産の危機は回避された。
帳簿の上では、確かにそうだ。
だが――
誰一人として、安堵の表情を浮かべていなかった。
使用人たちは淡々と仕事をこなしている。
だが、その視線はどこか冷めている。
(……助かった、はずだろう)
廊下を歩きながら、プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、胸の奥に広がる違和感を拭えずにいた。
破滅は免れた。
家名も、形式上は保たれている。
それなのに――
何かを、決定的に失った感覚だけが残っている。
「プロフィット様」
控えめな声に振り返ると、執事が立っていた。
「来客です」
「……誰だ」
一瞬、フレッジリン侯爵家の名が頭をよぎり、
思わず身構える。
「クライム伯爵家より、使者が」
その名に、ぴくりと眉が動いた。
リス・クライム伯爵令嬢。
かつて、頻繁にこの屋敷を訪れていた女。
そして――
シグネットに関する噂を、誰よりも熱心に広めていた存在。
「通せ」
短く告げたが、
執事は、気まずそうに視線を逸らした。
「……いえ」
「使者は、いません」
「は?」
「クライム伯爵家より、
“リス令嬢は行方不明になった”との通達が届いております」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……行方不明?」
「はい」
執事は、淡々と続ける。
「小麦相場の件が明らかになった翌日、
屋敷を出たまま戻られていないとのことです」
プロフィットは、無意識のうちに、拳を握りしめていた。
(逃げた……のか)
あれほど、熱心に耳元で囁いていた女。
――シグネットは金に困っている。
――婚約を破棄すれば、あなたが正しいと証明される。
そう吹き込み、
自分の決断を後押ししていた存在。
だが、形勢が逆転した瞬間、
彼女は姿を消した。
「……卑怯な」
吐き捨てるように呟く。
だが同時に、
胸の奥で、別の声が囁いた。
(私は、あの女の言葉を信じた)
信じたのは、自分だ。
都合のいい噂を、疑いもせず受け入れた。
執事が、続ける。
「社交界でも、噂になっております」
「どんな、だ」
「……」
一瞬の沈黙の後、
執事は言葉を選びながら口を開いた。
「“ベルフラワー公爵家は、
虚偽の噂に踊らされ、
本当に価値あるものを手放した”と」
胸を、鈍い痛みが貫いた。
「……誰が、そんなことを」
「多くの方が」
執事は、はっきりとは名を挙げなかった。
だが、想像はつく。
小麦を引き取ったフレッジリン侯爵家。
市場を安定させ、
孤児院や学校への供給を即座に始めたシグネット。
その行動は、
否応なく注目を集めている。
(……称賛、か)
かつて、自分が浴びるはずだったもの。
「プロフィット様」
執事が、静かに告げる。
「今後、婚姻に関する打診は……
しばらく、途絶えるかと」
当然の結果だった。
婚約を破棄し、
その理由が“金目当ての女だった”という前提に基づいていた以上、
その前提が崩れた今、
彼の評価もまた、崩れている。
「……そうか」
それ以上、言葉は出なかった。
夜。
執務室に一人残り、
プロフィットは、机の引き出しから一通の書簡を取り出した。
婚約が決まった頃、
シグネットから届いたものだ。
丁寧な文字で、
淡々とした言葉が綴られている。
――家の都合ではありますが、
誠実な関係を築ければと存じます。
感情を押し付けることもなく、
見返りを求めることもない。
今になって思えば、
あれは最初から、
「対等な立場」の文面だった。
(……なぜ、あの時)
噂よりも、
本人の言葉を信じなかったのか。
プロフィットは、書簡をそっと閉じた。
窓の外では、
街の灯りが穏やかに揺れている。
フレッジリン侯爵家の名は、
今、称賛とともに語られている。
対して――
ベルフラワー公爵家の名は、
“愚かな判断の象徴”として、
静かに囁かれていた。
逃げた者は、姿を消した。
責任を負うこともなく。
残された者だけが、
結果と向き合わされる。
それが、
貴族社会の、
そして――
人生の、現実だった。
プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、
その夜、初めてはっきりと理解した。
自分が失ったのは、
金でも、地位でもない。
信頼と、未来を選ぶ資格だったのだと。
0
あなたにおすすめの小説
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない
miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。
断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。
家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。
いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。
「僕の心は君だけの物だ」
あれ? どうしてこうなった!?
※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。
※ご都合主義の展開があるかもです。
※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。
とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜
入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】
社交界を賑わせた婚約披露の茶会。
令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。
「真実の愛を見つけたんだ」
それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。
愛よりも冷たく、そして美しく。
笑顔で地獄へお送りいたします――
死にかけ令嬢の逆転
ぽんぽこ狸
恋愛
難しい顔をしたお医者様に今年も余命一年と宣告され、私はその言葉にも慣れてしまい何も思わずに、彼を見送る。
部屋に戻ってきた侍女には、昨年も、一昨年も余命一年と判断されて死にかけているのにどうしてまだ生きているのかと問われて返す言葉も見つからない。
しかしそれでも、私は必死に生きていて将来を誓っている婚約者のアレクシスもいるし、仕事もしている。
だからこそ生きられるだけ生きなければと気持ちを切り替えた。
けれどもそんな矢先、アレクシスから呼び出され、私の体を理由に婚約破棄を言い渡される。すでに新しい相手は決まっているらしく、それは美しく健康な王女リオノーラだった。
彼女に勝てる要素が一つもない私はそのまま追い出され、実家からも見捨てられ、どうしようもない状況に心が折れかけていると、見覚えのある男性が現れ「私を手助けしたい」と言ったのだった。
こちらの作品は第18回恋愛小説大賞にエントリーさせていただいております。よろしければ投票ボタンをぽちっと押していただけますと、大変うれしいです。
【完結】見えてますよ!
ユユ
恋愛
“何故”
私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。
美少女でもなければ醜くもなく。
優秀でもなければ出来損ないでもなく。
高貴でも無ければ下位貴族でもない。
富豪でなければ貧乏でもない。
中の中。
自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。
唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。
そしてあの言葉が聞こえてくる。
見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。
私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。
ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。
★注意★
・閑話にはR18要素を含みます。
読まなくても大丈夫です。
・作り話です。
・合わない方はご退出願います。
・完結しています。
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
お妃候補に興味はないのですが…なぜか辞退する事が出来ません
Karamimi
恋愛
13歳の侯爵令嬢、ヴィクトリアは体が弱く、空気の綺麗な領地で静かに暮らしていた…というのは表向きの顔。実は彼女、領地の自由な生活がすっかり気に入り、両親を騙してずっと体の弱いふりをしていたのだ。
乗馬や剣の腕は一流、体も鍛えている為今では風邪一つひかない。その上非常に頭の回転が速くずる賢いヴィクトリア。
そんな彼女の元に、両親がお妃候補内定の話を持ってきたのだ。聞けば今年13歳になられたディーノ王太子殿下のお妃候補者として、ヴィクトリアが選ばれたとの事。どのお妃候補者が最も殿下の妃にふさわしいかを見極めるため、半年間王宮で生活をしなければいけないことが告げられた。
最初は抵抗していたヴィクトリアだったが、来年入学予定の面倒な貴族学院に通わなくてもいいという条件で、お妃候補者の話を受け入れたのだった。
“既にお妃には公爵令嬢のマーリン様が決まっているし、王宮では好き勝手しよう”
そう決め、軽い気持ちで王宮へと向かったのだが、なぜかディーノ殿下に気に入られてしまい…
何でもありのご都合主義の、ラブコメディです。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる