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第一話 婚約破棄と市場の現実
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第一話 婚約破棄と市場の現実
「――よって、我が婚約は本日をもって解消とする」
王都の大広間に、王太子の声が高らかに響いた。
楽団の音は止まり、ざわめきが波のように広がる。貴族たちの視線が一斉にこちらへ向けられる。その中には同情もあれば、嘲笑も、安堵も混じっていた。
わたくしは、ゆっくりと瞬きを一つ。
「承知いたしましたわ」
それだけを返す。
涙も、抗議も、取り乱しもない。期待していた者たちは、きっと拍子抜けしたことでしょう。
王太子殿下は一瞬だけ眉をひそめた。あの方は、わたくしが縋ると思っていたのだろう。あるいは泣き崩れ、許しを請う姿を想像していたのかもしれない。
けれど、わたくしの胸にあったのは悲嘆ではなく――妙な解放感だった。
婚約とは、王妃教育とは、常に「王家に相応しい振る舞い」を求められる日々だった。言葉を選び、笑みを整え、己を削る生活。あの席は、確かに名誉ではあったけれど、同時に檻でもあった。
檻の扉が開いたのだ。
ならば、出るだけのこと。
その夜、屋敷に戻ると父は静かに言った。
「……残念だったな」
「いいえ」
わたくしは首を振る。
「むしろ、自由を得ましたわ」
父は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。わたくしが泣いていないことに安堵したのか、それとも何かを察したのか。
自室へ戻り、窓から王都の灯りを眺める。
あの無数の明かりは、それぞれが商いの火だ。パン屋、宝石商、魔導具店、仕立て屋。王都は常に動き、常に金が巡っている。
王妃の座よりも――あの流れのほうが、ずっと面白そうではないかしら。
「執事」
呼べば、扉の外で控えていた老執事が静かに入室する。
「はい、お嬢様」
「王都で新規事業を始める場合、最も厄介なのは何かしら」
彼は一瞬だけ目を細めた。
「……ギルドでございます」
やはり。
王都の産業はすべて、各種ギルドによって管理されている。原材料の供給、技術認証、価格統制、営業登録。いずれか一つでも拒まれれば、商いは立ち行かない。
「登録なき商売は違法」と言われれば終わりだ。
「名門貴族であっても、例外ではございません」
「ええ、存じておりますわ」
爵位は流通を動かさない。王族でさえ、物を作るには職人が、運ぶには物流が、売るには市場が必要だ。
つまり――
王都で何かを始めるなら、ギルドを通さねばならない。
「もし、ギルドが首を縦に振らなければ?」
「原料は止まり、職人は協力せず、販売網は閉ざされます」
「なるほど」
わたくしは窓辺から振り返る。
「では、わたくしが事業を始めると宣言した場合、どうなりますの?」
「……妨害が入るでしょう」
老執事の声は落ち着いている。
「婚約を破棄されたばかりのお嬢様が商売を? と嘲られるやもしれません。ギルド長は保守的でございます」
笑みがこぼれる。
面白い。
「正攻法で申請し、頭を下げ、許可を待つ。そうすれば、わたくしは永遠に“元婚約者”の肩書きでしか見られないでしょうね」
「お嬢様は、それをお望みではない」
「ええ」
わたくしはゆっくりと椅子に腰掛ける。
「わたくしが欲しいのは、許可ではありません」
一拍。
「主導権ですわ」
執事の眉がわずかに動く。
「ギルドに従わなければ商売ができない? それは結構」
紅茶を注がせる。
香りが立ちのぼる。
「ならば、ギルドを従わせればよろしいのですわ」
静寂。
外では夜風が木々を揺らしている。
「王都の産業は、誰が回している?」
「形式上は各ギルドでございます」
「形式上、ね」
わたくしは微笑む。
「では実際は?」
執事はゆっくり答える。
「金融、物流、原料調達。それらを横断して握る者がいれば、実質的な支配者となり得ます」
「そうでしょう?」
王妃になれば王城に縛られる。
だが経済を握れば――王都そのものが動く。
「まずは調査を。各ギルドの財務状況、融資元、取引先、内部対立。すべて洗い出しなさい」
「畏まりました」
「そして、最も脆いところから手を入れる」
わたくしはカップを持ち上げる。
「わたくしを拒んだ代償を、市場で払っていただきましょう」
婚約破棄は、終わりではない。
始まりだ。
王太子殿下は王冠を選んだ。
ならばわたくしは――
王都を選ぶ。
窓の外に広がる灯りを見つめながら、わたくしは静かに宣言する。
「わたくしは、王妃にはなりません」
微笑。
「代わりに、王都の持ち主になりますわ」
「――よって、我が婚約は本日をもって解消とする」
王都の大広間に、王太子の声が高らかに響いた。
楽団の音は止まり、ざわめきが波のように広がる。貴族たちの視線が一斉にこちらへ向けられる。その中には同情もあれば、嘲笑も、安堵も混じっていた。
わたくしは、ゆっくりと瞬きを一つ。
「承知いたしましたわ」
それだけを返す。
涙も、抗議も、取り乱しもない。期待していた者たちは、きっと拍子抜けしたことでしょう。
王太子殿下は一瞬だけ眉をひそめた。あの方は、わたくしが縋ると思っていたのだろう。あるいは泣き崩れ、許しを請う姿を想像していたのかもしれない。
けれど、わたくしの胸にあったのは悲嘆ではなく――妙な解放感だった。
婚約とは、王妃教育とは、常に「王家に相応しい振る舞い」を求められる日々だった。言葉を選び、笑みを整え、己を削る生活。あの席は、確かに名誉ではあったけれど、同時に檻でもあった。
檻の扉が開いたのだ。
ならば、出るだけのこと。
その夜、屋敷に戻ると父は静かに言った。
「……残念だったな」
「いいえ」
わたくしは首を振る。
「むしろ、自由を得ましたわ」
父は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。わたくしが泣いていないことに安堵したのか、それとも何かを察したのか。
自室へ戻り、窓から王都の灯りを眺める。
あの無数の明かりは、それぞれが商いの火だ。パン屋、宝石商、魔導具店、仕立て屋。王都は常に動き、常に金が巡っている。
王妃の座よりも――あの流れのほうが、ずっと面白そうではないかしら。
「執事」
呼べば、扉の外で控えていた老執事が静かに入室する。
「はい、お嬢様」
「王都で新規事業を始める場合、最も厄介なのは何かしら」
彼は一瞬だけ目を細めた。
「……ギルドでございます」
やはり。
王都の産業はすべて、各種ギルドによって管理されている。原材料の供給、技術認証、価格統制、営業登録。いずれか一つでも拒まれれば、商いは立ち行かない。
「登録なき商売は違法」と言われれば終わりだ。
「名門貴族であっても、例外ではございません」
「ええ、存じておりますわ」
爵位は流通を動かさない。王族でさえ、物を作るには職人が、運ぶには物流が、売るには市場が必要だ。
つまり――
王都で何かを始めるなら、ギルドを通さねばならない。
「もし、ギルドが首を縦に振らなければ?」
「原料は止まり、職人は協力せず、販売網は閉ざされます」
「なるほど」
わたくしは窓辺から振り返る。
「では、わたくしが事業を始めると宣言した場合、どうなりますの?」
「……妨害が入るでしょう」
老執事の声は落ち着いている。
「婚約を破棄されたばかりのお嬢様が商売を? と嘲られるやもしれません。ギルド長は保守的でございます」
笑みがこぼれる。
面白い。
「正攻法で申請し、頭を下げ、許可を待つ。そうすれば、わたくしは永遠に“元婚約者”の肩書きでしか見られないでしょうね」
「お嬢様は、それをお望みではない」
「ええ」
わたくしはゆっくりと椅子に腰掛ける。
「わたくしが欲しいのは、許可ではありません」
一拍。
「主導権ですわ」
執事の眉がわずかに動く。
「ギルドに従わなければ商売ができない? それは結構」
紅茶を注がせる。
香りが立ちのぼる。
「ならば、ギルドを従わせればよろしいのですわ」
静寂。
外では夜風が木々を揺らしている。
「王都の産業は、誰が回している?」
「形式上は各ギルドでございます」
「形式上、ね」
わたくしは微笑む。
「では実際は?」
執事はゆっくり答える。
「金融、物流、原料調達。それらを横断して握る者がいれば、実質的な支配者となり得ます」
「そうでしょう?」
王妃になれば王城に縛られる。
だが経済を握れば――王都そのものが動く。
「まずは調査を。各ギルドの財務状況、融資元、取引先、内部対立。すべて洗い出しなさい」
「畏まりました」
「そして、最も脆いところから手を入れる」
わたくしはカップを持ち上げる。
「わたくしを拒んだ代償を、市場で払っていただきましょう」
婚約破棄は、終わりではない。
始まりだ。
王太子殿下は王冠を選んだ。
ならばわたくしは――
王都を選ぶ。
窓の外に広がる灯りを見つめながら、わたくしは静かに宣言する。
「わたくしは、王妃にはなりません」
微笑。
「代わりに、王都の持ち主になりますわ」
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