婚約破棄? めんどくさいのでちょうどよかった ――聖女もやめて、温泉でごくらくしてます

ふわふわ

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第1話 何もしていない聖女

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第1話 何もしていない聖女

 聖女リヴォルタ・レーレは、今日も王都の一角で静かに過ごしていた。

 祈りの時間はない。
 詠唱も、儀式もない。
 白い法衣に身を包んではいるが、聖女らしい行動は何一つしていない。

 それでも、王都は今日も平和だった。

 窓の外では、石畳の通りを人々が行き交い、荷車が軋む音を立てながら進んでいく。市場では商人たちの呼び声が重なり、子どもたちが走り回っていた。喧騒はあるが、不穏な気配はない。怪我人の悲鳴も、魔物襲来を告げる鐘の音も、聞こえてこない。

 ――いつも通りだ。

 リヴォルタは机に置かれた湯飲みに手を伸ばし、ぬるくなった茶を一口含んだ。

「……特に、何もありませんね」

 それは独り言だった。
 誰に聞かせるでもない、ただの事実確認。

 聖女になってから、彼女はずっとこうだった。
 国を覆う祝福を祈った覚えもなければ、奇跡を願った記憶もない。必要とされれば立ち会いはしたが、結局「何もしない」まま終わることがほとんどだった。

 それでも、事故は起きなかった。

 数日前、王城近くの通りで大きな荷車が転倒した。木箱が散乱し、通行人が巻き込まれてもおかしくない状況だったという。しかし結果は、驚くほど軽微だった。転んだ者はいたが、骨折どころか擦り傷ひとつなかった。

「運が良かったな」 「奇跡みたいな話だ」

 人々はそう言って笑い、片付けを終えるとすぐ日常に戻った。誰も聖女を呼ばなかったし、誰も感謝の言葉を口にしなかった。

 リヴォルタも、その報告を後から書面で読んだだけだ。

「……よかったですね」

 それ以上の感想はなかった。

 彼女にとって、それは珍しいことではなかったからだ。
 事故は起きるが、大事には至らない。
 建物は崩れかけるが、人は下敷きにならない。
 魔物の目撃情報はあるが、被害報告は出ない。

 ずっと、そうだった。

 だが最近、王城の空気が少しずつ変わり始めていることに、リヴォルタは気づいていた。

 廊下ですれ違う官吏たちが、彼女を見る目を変えた。以前のような畏敬や遠慮ではない。困惑と、わずかな苛立ちが混じっている。

「聖女様は……本日も、お変わりなく?」

 そう尋ねられるたび、リヴォルタは同じ答えを返す。

「はい。特に何も」

 それが、よくなかったのだろう。

 最近、王都ではもう一人の少女が注目を集めていた。
 マーレン・エルバ。
 祈りと詠唱を欠かさず、治癒の奇跡を行う新進気鋭の聖女候補。

 怪我人が出れば駆けつけ、長い詠唱の末に傷を塞ぐ。その姿は、誰の目にも分かりやすかった。

「よく働いている」
「前より頼りになる」

 そんな声が、次第に大きくなっていく。

 それに比べて、リヴォルタはどうだろう。

 祈らない。
 詠唱しない。
 奇跡も起こさない。

 ただ、そこにいるだけ。

「……何か、する必要があるんでしょうか」

 ふと、そう思う。だがすぐに首を振った。

 怪我人は少ない。
 事故も、大事には至らない。
 ならば、彼女が出る幕はないはずだ。

 素人が手を出して、傷口を広げるより。
 必要なときに、必要な人が動けばいい。

 それが、彼女の考えだった。

 窓の外では、今日も穏やかな風が吹いている。
 雲は薄く、空は高い。

 この平和が、どれほど特異なものなのか。
 そして、それが誰によって支えられているのか。

 まだ誰も、気づいていなかった。

 ――もちろん、リヴォルタ自身も。
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