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第2話 当たり前だった平和
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第2話 当たり前だった平和
王都の日常は、今日も何事もなく始まった。
朝の鐘が鳴り、人々が家々から通りへと出ていく。商人は露店を開き、職人は工房の扉を押し開け、衛兵たちは定位置についた。空は晴れ、風は穏やかで、雲の流れも緩やかだ。
――いつも通り。
それが、この国の人々の共通認識だった。
だがその「いつも通り」が、どれほど異常な状態なのかを理解している者は、誰もいない。
「聞いたか? 北門の外で、馬車が派手にひっくり返ったらしいぞ」
市場の一角で、そんな噂話が飛び交っていた。
「えっ、怪我人は?」 「それが、いないんだとさ」 「またか……運がいいな」
男たちは肩をすくめ、野菜の値段の話に戻っていく。
そこに驚きや恐怖はない。
馬車の横転は、十分に大事故と呼べる出来事だ。荷台に積まれた木箱が崩れ、通行人が巻き込まれてもおかしくない。下手をすれば、死者が出る。
それでも――誰も怪我をしなかった。
それを人々は「奇跡」とは呼ばない。
ただの幸運として処理する。
王城の執務室では、官吏たちが報告書をまとめていた。
「今月の負傷者数ですが……」 「少ないな」 「例年より、かなり」
紙の上に並ぶ数字は、異様なほど穏やかだった。
事故件数はある。だが、重傷者の欄はほとんど空白だ。
「医療費も抑えられています」 「治癒の祈祷要請も、ほとんど出ていない」
それを聞いた王太子ザガート・ビジョン・グランツは、腕を組んだまま頷いた。
「平和ということだろう」
その言葉で、この話題は終わる。
平和である理由を、わざわざ掘り下げる必要はない。
安定している状態は、維持するものではなく、前提なのだと彼は考えていた。
そして、その「前提」の中に――
聖女リヴォルタ・レーレの存在が含まれていることを、誰も意識していなかった。
リヴォルタ自身もまた、同じだった。
午後の柔らかな光が差し込む部屋で、彼女は椅子に腰掛け、静かに本を読んでいた。外から聞こえるのは、遠くの話し声と馬の蹄の音だけ。
争いの気配はない。
悲鳴も、祈りを求める声も、届かない。
「……今日も、呼ばれませんね」
それは、少し前から続いている状況だった。
以前は、何かあるたびに聖女として呼び出された。
だが最近は、そうした機会すら減っている。
代わりに名を聞くのは、あの少女だ。
マーレン・エルバ。
祈りと詠唱によって怪我を癒やす、新しい聖女。
彼女が現場に立ち会い、光に包まれて人を救う姿は、確かに分かりやすい。
「……すごいですよね」
侍女がぽつりと呟いたことがある。
「何がですか?」 「マーレン様です。あんなふうに、はっきりと奇跡を見せてくださるなんて」
リヴォルタは、少し考えてから答えた。
「必要な方が、必要な場面で動いているのだと思います」
それ以上の言葉は出てこなかった。
自分が何もしていないという自覚は、ある。
だが、問題が起きていない以上、出しゃばる理由もない。
――怪我人がいないのなら、治す必要はない。
それは、ごく自然な考えだった。
夕刻、城下を見下ろす塔の上で、衛兵が空を見上げて呟く。
「今日も静かだな」 「最近、嵐も来ないしな」 「ありがたいことだ」
誰も疑問に思わない。
誰も、違和感を覚えない。
この国では、
事故が起きても人は傷つかず、
災いは未然に避けられ、
不幸は形になる前に消えていく。
それを「当たり前」と呼ぶ世界。
そして、その当たり前が、もし失われたとき――
どれほどの地獄が待っているのかを。
この時点では、まだ誰も知らなかった。
王都の日常は、今日も何事もなく始まった。
朝の鐘が鳴り、人々が家々から通りへと出ていく。商人は露店を開き、職人は工房の扉を押し開け、衛兵たちは定位置についた。空は晴れ、風は穏やかで、雲の流れも緩やかだ。
――いつも通り。
それが、この国の人々の共通認識だった。
だがその「いつも通り」が、どれほど異常な状態なのかを理解している者は、誰もいない。
「聞いたか? 北門の外で、馬車が派手にひっくり返ったらしいぞ」
市場の一角で、そんな噂話が飛び交っていた。
「えっ、怪我人は?」 「それが、いないんだとさ」 「またか……運がいいな」
男たちは肩をすくめ、野菜の値段の話に戻っていく。
そこに驚きや恐怖はない。
馬車の横転は、十分に大事故と呼べる出来事だ。荷台に積まれた木箱が崩れ、通行人が巻き込まれてもおかしくない。下手をすれば、死者が出る。
それでも――誰も怪我をしなかった。
それを人々は「奇跡」とは呼ばない。
ただの幸運として処理する。
王城の執務室では、官吏たちが報告書をまとめていた。
「今月の負傷者数ですが……」 「少ないな」 「例年より、かなり」
紙の上に並ぶ数字は、異様なほど穏やかだった。
事故件数はある。だが、重傷者の欄はほとんど空白だ。
「医療費も抑えられています」 「治癒の祈祷要請も、ほとんど出ていない」
それを聞いた王太子ザガート・ビジョン・グランツは、腕を組んだまま頷いた。
「平和ということだろう」
その言葉で、この話題は終わる。
平和である理由を、わざわざ掘り下げる必要はない。
安定している状態は、維持するものではなく、前提なのだと彼は考えていた。
そして、その「前提」の中に――
聖女リヴォルタ・レーレの存在が含まれていることを、誰も意識していなかった。
リヴォルタ自身もまた、同じだった。
午後の柔らかな光が差し込む部屋で、彼女は椅子に腰掛け、静かに本を読んでいた。外から聞こえるのは、遠くの話し声と馬の蹄の音だけ。
争いの気配はない。
悲鳴も、祈りを求める声も、届かない。
「……今日も、呼ばれませんね」
それは、少し前から続いている状況だった。
以前は、何かあるたびに聖女として呼び出された。
だが最近は、そうした機会すら減っている。
代わりに名を聞くのは、あの少女だ。
マーレン・エルバ。
祈りと詠唱によって怪我を癒やす、新しい聖女。
彼女が現場に立ち会い、光に包まれて人を救う姿は、確かに分かりやすい。
「……すごいですよね」
侍女がぽつりと呟いたことがある。
「何がですか?」 「マーレン様です。あんなふうに、はっきりと奇跡を見せてくださるなんて」
リヴォルタは、少し考えてから答えた。
「必要な方が、必要な場面で動いているのだと思います」
それ以上の言葉は出てこなかった。
自分が何もしていないという自覚は、ある。
だが、問題が起きていない以上、出しゃばる理由もない。
――怪我人がいないのなら、治す必要はない。
それは、ごく自然な考えだった。
夕刻、城下を見下ろす塔の上で、衛兵が空を見上げて呟く。
「今日も静かだな」 「最近、嵐も来ないしな」 「ありがたいことだ」
誰も疑問に思わない。
誰も、違和感を覚えない。
この国では、
事故が起きても人は傷つかず、
災いは未然に避けられ、
不幸は形になる前に消えていく。
それを「当たり前」と呼ぶ世界。
そして、その当たり前が、もし失われたとき――
どれほどの地獄が待っているのかを。
この時点では、まだ誰も知らなかった。
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