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第33話 名前を呼ばない慣習
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第33話 名前を呼ばない慣習
温泉郷では、いつの間にか一つの慣習が根付いていた。
彼女の名前を、大きな声で呼ばない。
決まりがあったわけではない。
張り紙も、通達もない。
ただ、そうしたほうがいい――
皆が、自然と感じるようになっただけだ。
「……あの方、もうお戻り?」 「ええ、先ほど」
それで通じる。
名前は、必要ない。
名前を呼べば、
役割が生まれる。
期待が生まれる。
意味が生まれる。
この町では、
意味を生まないことが、
最も大切になっていた。
一方、その本人。
「……今日は、少し暑いですね」
リヴォルタ・レーレは、縁側で団扇を仰いでいた。
名を呼ばれなくても、困らない。
肩書きがなくても、息はできる。
むしろ――
静かだ。
昼、町外れに新しい宿ができた。
看板は控えめ。
宣伝もしていない。
「ここ、繁盛しますかね」 「どうでしょう」 「まあ、静かなのが売りですから」
“静かなのが売り”という言葉が、
この土地では最大の価値になっている。
午後、隣国からの使節が、町の手前で引き返した。
「……名を告げる必要は、ないな」 「ええ」
使節は、視察団のような顔ぶれだったが、
正式な名乗りはしなかった。
名乗れば、
“立場”が生まれるからだ。
そして、立場は、
距離を壊す。
夕方。
リヴォルタは、川辺の石に腰を下ろしていた。
「……最近、静かすぎる気もします」
独り言のような声。
だが、不安ではない。
ただの感想だ。
そのとき、近くで子どもが転びかけた。
「あっ」
――転ばない。
「……あぶない」
彼女は、思わずそう言った。
それだけ。
誰も、奇跡とは言わない。
誰も、意味づけない。
夜。
露天風呂で、彼女は月を見上げる。
「……名前って、不思議ですね」
自分の名を、
今日は一度も聞いていない。
それが、心地いい。
「呼ばれないほうが、楽です」
その瞬間、
本国の文書庫で、
「元聖女リヴォルタ・レーレ」に関する資料が、
一般閲覧から外された。
消されたわけではない。
封じられたわけでもない。
ただ、目立たなくなった。
世界は、また一つ学ぶ。
――名前を呼ばないことは、
忘却ではない。
尊重だ。
中心にいる彼女は、
名前を呼ばれないまま、
今日も何も失わず、
何も背負わず、
湯気の中で目を閉じる。
それが、
この世界で最も穏やかな呼び方だった。
温泉郷では、いつの間にか一つの慣習が根付いていた。
彼女の名前を、大きな声で呼ばない。
決まりがあったわけではない。
張り紙も、通達もない。
ただ、そうしたほうがいい――
皆が、自然と感じるようになっただけだ。
「……あの方、もうお戻り?」 「ええ、先ほど」
それで通じる。
名前は、必要ない。
名前を呼べば、
役割が生まれる。
期待が生まれる。
意味が生まれる。
この町では、
意味を生まないことが、
最も大切になっていた。
一方、その本人。
「……今日は、少し暑いですね」
リヴォルタ・レーレは、縁側で団扇を仰いでいた。
名を呼ばれなくても、困らない。
肩書きがなくても、息はできる。
むしろ――
静かだ。
昼、町外れに新しい宿ができた。
看板は控えめ。
宣伝もしていない。
「ここ、繁盛しますかね」 「どうでしょう」 「まあ、静かなのが売りですから」
“静かなのが売り”という言葉が、
この土地では最大の価値になっている。
午後、隣国からの使節が、町の手前で引き返した。
「……名を告げる必要は、ないな」 「ええ」
使節は、視察団のような顔ぶれだったが、
正式な名乗りはしなかった。
名乗れば、
“立場”が生まれるからだ。
そして、立場は、
距離を壊す。
夕方。
リヴォルタは、川辺の石に腰を下ろしていた。
「……最近、静かすぎる気もします」
独り言のような声。
だが、不安ではない。
ただの感想だ。
そのとき、近くで子どもが転びかけた。
「あっ」
――転ばない。
「……あぶない」
彼女は、思わずそう言った。
それだけ。
誰も、奇跡とは言わない。
誰も、意味づけない。
夜。
露天風呂で、彼女は月を見上げる。
「……名前って、不思議ですね」
自分の名を、
今日は一度も聞いていない。
それが、心地いい。
「呼ばれないほうが、楽です」
その瞬間、
本国の文書庫で、
「元聖女リヴォルタ・レーレ」に関する資料が、
一般閲覧から外された。
消されたわけではない。
封じられたわけでもない。
ただ、目立たなくなった。
世界は、また一つ学ぶ。
――名前を呼ばないことは、
忘却ではない。
尊重だ。
中心にいる彼女は、
名前を呼ばれないまま、
今日も何も失わず、
何も背負わず、
湯気の中で目を閉じる。
それが、
この世界で最も穏やかな呼び方だった。
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