婚約破棄されましたが、私はもう必要ありませんので

ふわふわ

文字の大きさ
32 / 40

第三十二話 前に出ない存在

しおりを挟む
第三十二話 前に出ない存在

 辺境公爵領の一日は、驚くほど静かに始まった。

 それは、何も起きていないからではない。
 むしろ、あらゆることが“滞りなく進んでいる”からだ。

 自治組織の合同会議は、定刻どおりに始まり、予定より少し早く終わった。
 議題は三つ。
 判断は三つ。
 いずれも、議論は短く、結論は明確だった。

「……以上で、本日の案件は終了です」

 議長役を務める責任者がそう告げると、誰も異を唱えない。

 マルグリット・フォン・ルーヴェンは、その場にいなかった。

 それが、今の“通常”だった。

 彼女は、城の別棟で書類に目を通している。
 だが、決裁印を押す書類は、ほとんどない。

「……本当に、呼ばれませんね」

 フェリクス・フォン・グランツが、半ば感心したように言う。

「ええ」

 マルグリットは、視線を紙から離さず答えた。

「それで、いいのです」

 前に出ない存在。
 指示しない判断者。
 名前が挙がらない中心。

 それは、かつての彼女からは想像できない立ち位置だった。

 午後、ひとつだけ連絡が入る。

 小規模な予算調整について、確認を求めるものだ。

「この金額なら、現場判断で構いません」

 返答は、それだけ。

 数分後、
 ――了解しました。
 という返事が戻る。

 それ以上のやり取りは、ない。

「……寂しくはないのか」

 フェリクスが、ふと尋ねる。

「いいえ」

 マルグリットは、即答した。

「前に出ていた頃より、
 ずっと“ここにいる”と感じます」

 不思議な感覚だった。

 常に判断を求められ、
 常に答えを出していた頃は、
 自分がどこにいるのか、分からなかった。

 今は違う。

 必要なときにだけ、存在する。
 それ以外の時間は、流れを見守る。

 夕方、城下を歩くと、誰も彼女に気づかない。
 それでいい。

「最近、領内が落ち着いていますね」

 通りすがりの会話が、耳に入る。

「特別なことは、何もしてないだろ?」

「……そうだな」

 その“特別なことをしていない状態”を作るために、
 どれほどの判断が積み重ねられたか。

 それを知る必要は、ない。

 夜、王宮。

 ロイド・ヴァルシュタインは、辺境公爵領からの報告を読み、首を傾げていた。

「……名前が、ほとんど出てこない」

 マルグリットの名は、報告書の末尾に、形式的に記されているだけだ。

「彼女は、前に出ていない」

 それは、退いたのではない。
 “役割を変えた”のだ。

 彼女が前に立たなくても、
 判断が止まらない。

 それは、王宮が最も欲しくて、
 最も手に入れられなかった形だった。

 辺境公爵領の夜は、今日も静かだ。

 マルグリットは、窓辺に立ち、遠くの灯りを見る。

「……前に出ない存在」

 小さく呟く。

 それは、
 責任を放棄することでも、
 影に隠れることでもない。

 “もう、出なくていい”と判断できる立場だ。

 そして、その判断こそが、
 これまでで、最も難しく、
 最も正しかった。

 彼女は、灯りを消す。

 名前を呼ばれなくても、
 世界は、確かに回っている。

 それが、
 マルグリット・フォン・ルーヴェンが辿り着いた、
 次の完成形だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

処理中です...