侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第十話 焦燥の王子

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第十話 焦燥の王子

王城の執務室に、重い沈黙が落ちていた。

窓の外は晴れている。雲ひとつない青空。だが机の上に積まれた報告書は、その明るさとは対照的だった。

「また橋だと?」

王太子アシュレイの声は低く、苛立ちを抑えている。

「はい。北東街道の小橋が一部沈下。通行止めは半日で解除されましたが……」

「被害は軽微だろう」

「ええ。死者は出ておりません」

「ならば問題ない」

吐き捨てるような言い方。

だが側近は視線を落としたまま、言葉を選ぶ。

「問題は規模ではなく、頻度でございます」

机に置かれた一覧表。

崩落、火災、再発する熱病、輸送遅延、馬の転倒、局地的雷雨。

すべて軽微。

すべて対処済み。

だが、十日間、途切れない。

「偶然が重なっているだけだ」

アシュレイは強く言い切る。

「民に不安を植え付けるな」

「……承知しております」

そのとき、扉が叩かれた。

「聖女様が」

セシリアが、顔色をやや青くしながら入室する。

それでも微笑みは崩さない。

「殿下。熱病は一旦落ち着きました」

「ほら見ろ」

アシュレイは振り返る。

「彼女がいる限り、問題はない」

セシリアは小さく息を整える。

「ですが……」

「何だ?」

「祈りの効き目が、短くなっています」

室内の空気がわずかに変わる。

「どういう意味だ」

「以前は一度の祈祷で数日は安定していたのですが、今は一日、いえ半日ほどで……」

彼女は言葉を濁す。

「魔力の消耗が激しいのです」

アシュレイの眉が寄る。

「休めばいい」

「ですが民が」

「民は君を信じている」

彼は彼女の手を取る。

「揺らぐな」

セシリアは頷くが、その瞳の奥には疲労が滲んでいる。

同刻、辺境伯領。

訓練場では兵士たちの笑い声が響いていた。

「今日も怪我なしだ!」

「滑りやすいはずの斜面が、妙に安定してるな」

家令が報告書を持って駆け寄る。

「今月の事故件数、過去最低です」

ディルクは静かに頷く。

「敵の動きは」

「停滞しております。補給線に問題が出ているようで」

私はその報告を横で聞きながら、紅茶を口にする。

香りが深く、苦みも柔らかい。

胸の奥の灯は、今日も穏やかだ。

私は何もしていない。

ただ、ここにいる。

「王都はどうだ」

ディルクが問う。

家令は一瞬ためらう。

「……些細な不具合が続いているとのこと」

「些細、か」

「はい。致命的ではありませんが」

ディルクは視線を窓の外へ向ける。

「積み重なると、重い」

私はそっと言う。

「不安は、数字より速く広がりますわ」

彼は私を見た。

「君は、不安か」

少し考え、首を振る。

「いいえ」

本当に、不思議なほど不安がない。

王都で続く小さな不具合を聞いても、胸がざわつかない。

代わりに、ここでは穏やかさが広がっている。

夜。

王都の市場では、ささやきが増えていた。

「聖女様がいても止まらないって、本当か?」 「いや、大事には至っていない」 「でも、前はこんなに続かなかった」

不安はまだ形を持たない。

だが、確実に蓄積している。

王城の高塔で、アシュレイは一人、夜景を見下ろす。

灯りは多い。

人もいる。

国は動いている。

それなのに。

「なぜ、落ち着かない」

胸の奥に、言葉にできない焦燥が広がる。

婚約破棄は正しかった。

真実の愛を選んだ。

国は慈愛で満ちるはずだった。

それなのに、静かに崩れる音がする。

遠く北の空は、澄んでいる。

王都の上には、薄い雲がかかり始めていた。

焦燥は、まだ自覚にならない。

だが王子の心は、初めて揺れた。

そしてその揺れは、やがて決断を呼ぶことになる。
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