侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第十一話 豊穣の気配

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第十一話 豊穣の気配

辺境伯領に、朝霧がゆるやかに降りていた。

本来ならば、山から吹き下ろす冷たい風が霧を散らす時間だ。だが今日は違う。霧は柔らかく地面を包み、陽が昇るにつれて静かに溶けていく。

私は城下の畑へ向かっていた。

家令が横で帳簿を抱えながら、何度も首を傾げている。

「例年、この時期は半分ほどが枯れ込みます」

「今年は違うのですね」

「ええ。発芽率が九割を超えております」

畑に立つ農夫たちの顔は明るい。

「見てくだせえ、エレノア様!」

一人が麦の穂を掲げる。

太く、しっかりと実が入り始めている。

「春先は冷え込みが強かったのに、持ち直しました」

別の農夫が笑う。

「夜露がちょうど良い塩梅でな。土が締まりすぎず、根が守られたんだ」

私は穂に触れる。

温かい。

生きている。

「良い兆しですわ」

そう告げると、周囲の表情がさらに明るくなる。

私は視線を遠くへ向ける。

空は高く、青い。

この地は、厳しいと聞いていた。

凶作と戦に揺れる北方。

だが今は、穏やかだ。

城へ戻ると、ディルクが地図を前に立っていた。

「南部の商隊が予定より早く到着した」

「遅延がなかったのですか」

「ああ。道中の崩落も、馬の怪我もない」

彼は小さく息を吐く。

「都合が良すぎる」

私は微笑む。

「流れが良いのではありませんか」

「流れ、か」

彼はその言葉を反芻する。

「王都の流れは悪いらしい」

家令が書簡を差し出す。

王都近郊で、再び穀物病が拡大。

聖女の祈祷で一時的に抑えられたが、別の地区で再発。

「被害は?」

「軽微ですが、範囲が広がっております」

ディルクは私を見た。

「同じ病が、こちらに来る可能性は」

「自然であれば、ございます」

私は穏やかに答える。

だが胸の奥で、灯が揺れる。

温かく、安定した感覚。

不思議と、恐れが湧かない。

午後。

城下の子供たちが走り回る。

転びそうになった少年の足元で、石が転がる方向がわずかに逸れた。

怪我はない。

「ついてるな!」

笑い声。

私はその光景を見つめる。

ついている。

その言葉が、耳に残る。

夜。

塔の上。

辺境の灯りは温かく、揺らぎがない。

遠く王都の方角に、薄い雲が広がっている。

風は静かだ。

私は胸に手を当てる。

あの日から続く灯。

強くもなく、弱くもない。

ただ、一定。

「……私は何もしていない」

呟く。

祈っていない。

願っていない。

だが、ここでは流れが整う。

そのころ王都では、商人たちが顔を曇らせていた。

「倉庫火災がまた起きた」 「軽いけど、続きすぎだ」

「流れが悪い」

その言葉が、今度ははっきりと口に出された。

流れ。

王都では、流れが乱れる。

辺境では、流れが整う。

私はまだ、知らない。

この豊穣の兆しが、やがて王都との決定的な差になることを。

そしてその差が、国を二つに分けるほどの力になることを。

ただ一つ確かなのは。

辺境の畑は、今年、豊かに実る。
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