『偽聖女と断罪された公爵令嬢ですが、三度追放されたのは王太子でした』

ふわふわ

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22 縄張り

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22 縄張り

 落ちたパンを、ヴェインは反射的に拾おうとした。

 だがその瞬間、靴底が彼の手を踏みつけた。

「……っ」

 鈍い痛みが走る。

 顔を上げると、先ほどの浮浪者が見下ろしていた。

 濁った目。

 骨ばった頬。

 その視線に、遠慮はない。

「ここは、おれの縄張りだ」

 低い声。

 怒鳴りではない。

 事実の確認。

 ヴェインは言葉を失う。

 縄張り。

 王宮では聞いたことのない単語。

 だがここでは、それが絶対だ。

「離せ」

 かすれた声で言う。

 かつて命令一つで人を動かした声。

 だが今は、空気を震わせるだけ。

 浮浪者は鼻で笑う。

「何様だ」

 問いに、ヴェインは答えられない。

 王太子だ、と言いかけて、飲み込む。

 その言葉はもう通じない。

「……離せと言っている」

 もう一度言う。

 だが声に力がない。

 次の瞬間、腹に衝撃が走った。

 蹴られる。

 息が詰まる。

 体が後ろに倒れ、泥の上に転がる。

 空気が入らない。

 肺が焼けるように痛む。

「ここはおれの場所だ」

 浮浪者は繰り返す。

 足でヴェインの肩を踏みつける。

「残飯も、橋の下も、ここら一帯は全部な」

 理屈は単純。

 強い者が支配する。

 それがこの場所の秩序。

 ヴェインはもがく。

 だが体力はない。

 腹は空き、雨に打たれ、眠れていない。

 拳を振り上げる。

 しかしそれは空を切る。

 浮浪者の拳が頬を打つ。

 視界が白く弾ける。

 鉄の味が口に広がる。

 泥と血が混ざる。

「……やめろ」

 情けない声が漏れる。

 命令ではない。

 懇願でもない。

 ただの音。

 浮浪者は笑わない。

 ただ淡々と、もう一度蹴る。

「身なりが違うからって、入っていいと思うな」

 蹴り。

「腹が減ったからって、奪っていいと思うな」

 殴打。

「ここは、おれの縄張りだ」

 最後に強く踏みつけられ、ヴェインの体は転がる。

 泥が顔にかかる。

 視界が歪む。

 浮浪者は落ちたパンを拾い、何もなかったかのように去っていく。

 ヴェインは地面に伏したまま動けない。

 胸が上下するたびに痛む。

 腕も脚も、力が入らない。

 王太子だった男が、路地裏で殴られ、蹴られ、残飯を奪われた。

 誰も止めない。

 誰も見向きもしない。

 これが街の現実。

 ここには血筋も、過去も、意味を持たない。

 立ち上がろうとする。

 だが膝が笑う。

 壁に手をつき、ようやく体を起こす。

 路地の奥で、別の浮浪者がこちらを見ている。

 目が合う。

 だが近づかない。

 弱った獲物を値踏みする視線。

 ここに留まれば、さらに奪われる。

 ヴェインはよろめきながら路地を出る。

 背中に痛みが走る。

 頬が腫れている。

 唇が切れている。

 泥に塗れた姿は、もはや元王太子の面影を残さない。

 街は何事もないかのように動いている。

 人々は働き、笑い、買い物をする。

 その中を、殴られた男が歩く。

 誰も声をかけない。

 それが最も重い。

 ヴェインは初めて理解する。

 ここでは、自分は何者でもない。

 強くもなく、守られもせず、尊ばれもせず。

 ただの、弱い男だ。

 そしてこの現実は、まだ序章に過ぎなかった。
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