千五百万分の一の三毛猫喫茶

いっき

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第三章 お母さんの肉じゃが

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 次の日、僕のクラスはざわついていた。
 転入生が入ってくる。そんなことが、目標もない受験勉強に疲れ果てているクラスメイト達にとっては一大ニュースだった。
「俺、転入生が職員室入っていくん、見たぞ!」
「うそ! 女の子?」
「女の子、女の子。しかも、めっちゃ可愛いの」
「マジで! よっしゃー!」
「何が『よっしゃー』だよ。お前になんか見向きもしないっつーの」
 不快だ。美沙が、こんな男子達の話題にされていることが。
 そんな想いが雪のように滔々と降り積もって、僕の心を冷たくする。
 でも、僕はこんな男子達に、何も言う資格がない。だって、昨日、彼女を傷つけてしまったのだから……。
 始業のチャイムが鳴り、先生が美沙を連れて教壇に立つ。
「はじめまして、今野 美沙です。小学四年生の頃までこの町に住んでて、一旦東京へ引っ越しましたが、また戻って来ました。私はこの町が大好きなので、戻って来れて嬉しいです。よろしくお願いします!」
 先生に促され、自己紹介した。両頬にえくぼをつくってはいるが、綺麗な瞳はやや左上に向かって泳いでいる。緊張している時の癖も、昔から変わらない。
「やばい、めっちゃ可愛い!」
「だろ? 俺、狙うわ」
 男子達がひそひそ声で話すのが聞こえる。
 やはり、不快だ。
 僕の心に積もった雪が、雪崩れ込みそうになるのを抑える。
「席は……中井の横、空いてるだろ。そこに座れ」
 先生が、僕の隣の席を指差した。
 すると、
「一眞、おはよ!」
 緊張が解けた彼女は、いつもの笑みで手を振った。
「え、何?」
「中井の知り合い?」
 周囲はひそひそと話す。
 しかし、僕は嬉しかった。美沙の笑顔が煌々と僕を照らし、心に積もった雪を一気に解かしてくれた。



 昨日の『三毛猫喫茶 MISA』。
「一眞も、私との『約束』、覚えてる?」
 少し上目遣いの綺麗な瞳が、真っ直ぐ、探るように僕を見つめる。
「うん。獣医になるために、僕も今、がむしゃらに勉強をしてる」
 僕達の視線は、一直線に繋がる。
「嬉しい。一眞、頑張り屋さんだもんね。絶対に、なれるよ」
 瞳が柔らかく横長になり、浮き出るえくぼとともに僕を癒してくれる。
「一眞って、小さい時、言葉を覚えるのは人より遅かったけど、その分、他の人の十倍くらい努力してたもんね。私、そんな一眞を尊敬してた」
 思えば、人より知能が劣るのも『クラインフェルター症候群』の特徴だ。
 誰にも負けたくない。生まれながらの負けず嫌いな僕は、それを埋めて……さらに、他人を追い抜きたかった。だから、必死で勉強したんだ。
 幼い頃からそんな僕を見てくれていた言葉が、心の柔らかい場所をそっと包み込む。
「そんで、その続きも……覚えてる?」
 微笑む頬が、うっすらと桃になる。
 覚えてる。あの時、嬉しくて、すごく嬉しくて、だからその『約束』を心の支えに、美沙のいない毎日も僕はがむしゃらに頑張れたんだ。でも……今の僕にはその『約束』を果たすことはできない。
「ごめん……」
 その言葉が口から出て、行き場をなくし宙に浮く。
「獣医になれても……僕は美沙と結婚することはできない」
「えっ……」
 彼女の微笑は消え、暫し固まる。
 しかし、今度は綺麗な瞳にうっすらと涙を浮かべた、寂しげな微笑を浮かべた。
「そっか……そうよね。七年間も、ずっと私のことを好きでいてくれなんて、虫が良すぎるよね。一眞も……他に好きなコができるよね」
 違う……僕には、美沙だけなんだ!
 その言葉が僕の心の扉を叩き、今にも口から出そうになる。
 僕が自分の『問題』を知ってもなお、今までこんなに頑張ってこれたのは、美沙との『約束』があったから。美沙と離れてから……今までずっと、そして今でも、僕の目には美沙しか映っていない。
 でも、僕なんかと結婚しても、美沙は幸せになんかなれない。僕の体の問題は僕だけの問題で、美沙に背負わせるわけにはいかないんだ。
「ごめん……」
 僕の口は、その一言しか言うことを許さなかった。



 期末テストが終わったばかりの今は、テスト返し。数学IIBの答案を返す前に、先生が言った。
「期末テスト、満点取った奴が一人だけいる」
 僕のクラスはざわつく。
「中井だ」
 隣の席の美沙は目を丸くし、綺麗な瞳をさらに輝かして僕を見る。
「やっぱりな」
「よ、優等生。クラスのエース」
 クラスのみんなは僕をもてはやす。でも、やっぱり僕はどんなに満点を取っても、どんなにA判定を取っても満たされなかった。

「一眞って、やっぱりすごいのね」
 一緒に歩く帰り道。夏の海からは、生徒達のキラキラとした笑い声が聞こえてくる。
 そんな笑い声のようにキラキラと瞳を輝かせる美沙の纏う白のセーラー服とショートカットの爽やかな髪が、僕達に降り注ぐ金色の陽射しと調和して眩しい。
「すごくなんかないよ」
 傷つけてしまってもなお昔のように明るく接してくれる美沙に対し、素っ気ない返事しかできない自分が嫌になる。
「一眞の好きなコって、梨華ちゃん? あのコ、すごく可愛いもんね。アイドルみたい」
 違う……クラスにどんなに可愛いコがいたって、美沙には敵わない。その言葉が、またしても心の扉をドンドン叩く。しかし、僕の口は、それを言うことを許さない。
 それでも、やはり眩しい笑顔は僕に言う。
「ねぇ、帰りに私の店、寄ってかない?一眞に、食べて欲しいものがあるんだ」
 美沙に連れられ、『三毛猫喫茶 MISA』へ入った。

 小洒落た食器やグラス類が並ぶ店内。カウンターテーブルも、椅子も、時計も、全て木製でアンティークだ。今日は、丸々と太った三毛猫が起き出して僕の膝の上へ歩み寄った。
「このコ、あの時のミケ?」
 ゴロゴロと鳴る三毛猫の喉を掻いてやりながら尋ねる。
「そうよ。大きくなったでしょ」
 エプロン姿の美沙は、何やら調理をしながら笑顔で言う。制服姿も可愛いかったけど、エプロン姿も本当によく似合う。僕は、暫し彼女に見とれた。

「はい!」
 カウンターテーブルに小鉢が置かれる。
 昔からよく知っている……そんな気がする、いい匂い。匂いにつられて小鉢を見ると、肉じゃがが入っていた。
「食べてみて」
 美沙の悪戯っ子な笑みが、八重歯を見せる。
 一口食べてみる。
 美味しい……。舌にとろけるような肉の風味とジャガイモの甘み。味つけも甘めではあるが、クドくはない。
 しかし、この味……知っている。いつも、一人で必死に僕を育ててくれている母が作ってくれている味。
「お母さんの肉じゃが……」
 思わず口に出した。
「そう」
 悪戯っ子な笑みは、柔らかな微笑に変わった。
「あの日……小学四年生で私が引っ越すまで、一眞のお母さんに教えてもらってた料理よ」 
 微笑が、柔らかく僕を包み込む。
「私、昨日からずっと考えてたんだけど、やっぱり私の気持ちを変えることなんてできない。私の気持ちは、今一眞が食べている肉じゃがの味と同じ。お母さんの味がいつまでも変わらないように、私の気持ちも小学生の時から変わらない。だから……やっぱり私、夢が叶ったら一眞と結婚したい」
 心地よい……。美沙の言葉は、母の温もりのように僕の心を温める。感涙が心の底から込み上げて、肉じゃががしょっぱくなる。
 そんな僕に美沙は言う。
「私、一眞が昔のように振り向いてくれるように、頑張ることにしたの。たとえ梨華ちゃんがライバルだとしても、一眞の中であのコを超えてみせる。一眞が獣医になれるように頑張っているように、私も一眞が振り向いてくれるように頑張る!」
 温かい。
 この温もりにずっと身を委ねていたい。
 でも、僕の心に『現実』という冷たい波が押し寄せる。
「やめてくれ」
 涙を必死に堪えながら言った。
「えっ?」
 柔らかな微笑が硬直する。
「僕には、美沙を幸せにすることはできないんだ。これからも、どんなに美沙が頑張っても、ダメなんだ。もう、眼中にないんだ。迷惑なんだよ」
 硬直した表情の眉が歪む。瞳がみるみる潤んでいき、テーブルの上へポタポタと涙がこぼれ落ちた。
「僕なんか見ず、別の人を探してくれ」
 両手で顔を覆って泣く美沙をこれ以上見ることは耐えられず、『三毛猫喫茶』を後にした。僕の目からもとめどなく涙が溢れて、冷たくなった心を濡らした。
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