千五百万分の一の三毛猫喫茶

いっき

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第四章 千五百万分の一

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 次の日から、学校で会っても美沙は笑顔を見せてくれなくなった。僕と目が合うと、逃げるように、できたばかりの女友達のもとへ行く。自分の所為とはいえ、切なかった。
 でも、これでよかったんだ。美沙は、高校卒業後、普通の男と結婚して普通に子供をつくり、普通に幸せに暮らしていくんだ。
 だけど……本当にそれでいいのか?
 未練がましくも自問している自分がいた。
 そんな夏休み前の体育の授業。クラス内の他のチームがバスケットボールの試合をするのを、一旦休憩の僕達は見学していた。美沙も混ざって試合をしている。
 運動神経抜群の美沙は汗をキラキラと輝かせて、立ちはだかる生徒をドリブルでスイスイ抜く。
 最後のディフェンスは、長身の強敵。美沙が『ダンッ、ダンッ』とドリブルして向かう先の壁になる。しかし、美沙はディフェンスのいる地点を軸にしてクルリと体を回転させ、回転扉を通過する。
 次の瞬間!
『スパッ!』
 鮮やかにシュートを決めた。
 美沙のチームから湧き上がる歓声。その歓声を三角座りで聞く僕に、ひたすら空虚さが押し寄せる。
「おぅ、優等生」
 そんな僕のもとへ、嫌な奴が来た。川上だ。
 僕とは正反対のタイプ、いわゆる不良ってやつで、休み時間はいつも下ネタ話ばかりして女子達から白い目で見られている。
「今野って、スタイルいいよな。胸はあんまないけど、そこが逆に唆るっていうか」
 口にいやらしく薄ら笑いを浮かべ、濁った目で体操着姿の美沙を見る。
 やめろ……美沙を汚い目で見るな!そんな言葉が沸沸と僕の喉を熱くする。
「なぁ、お前、こないだあいつと一緒に帰って喫茶店入ったんだってなぁ。あいつとヤッたん?」
 何を言っているんだ……このアホは!
 熱い血流が高鳴る鼓動とともに脈々と僕の頭へ流れ込み、僕の全てはかつて感じたことのないほどの感情に支配される。頭から理性が消失し、僕は真っ白になる。
「その日からお前、あいつと喋ってないし、ヤリ捨てしたんだろ? あいつ、シマリ良さそうだよなぁ。イク時、どんな顔でどんな喘ぎ声してたんだ? なぁ、教えろよ」
『ドゴッ!』
 先刻の感情に『憎悪』という名をつけたのは、川上の胸ぐらを掴んで思い切り殴り飛ばした後だった。
 生まれて初めて人を殴った。僕の拳はジンジン痛んだ。
 転んだ川上は、殴られた頬を押さえた。
「てめぇ!」
 顔がみるみる赤くなり、突き刺すように僕を睨む。それと同時に起き上がり、僕の胸ぐらを掴んで力いっぱい殴った。
 僕も自分の憎悪を込めた拳を浴びせた。
 不良と優等生の殴り合いに、クラスのみんなが大騒ぎした。
「お前ら、何してるんだ!」
 体育教師が僕達の喧嘩を止めた。

 顔に青あざをつくり、蝉の鳴き声の響くいつもの通学路を帰る。
 いつもと変わらぬ道を通る視線の先に、いつもと違う様子の美沙がいた。涙で滲ませた綺麗な瞳の目尻を精一杯つり上げ、僕をキッと睨んでいる。
「待って」
 僕の腕を掴んだ。
「放せよ」
 ふりほどこうとした。
 しかし、
「ちょっと、話があるの」
 奥に力を秘めた、潤んだ瞳で僕を見つめる。僕は彼女に逆らえず、『三毛猫喫茶』へ連れて行かれた。

「……はい」
 僕にカルピスを出した。しかし、口をつけない。
「聞いたわよ。川上のアホが私のことエロい目で見たから殴りかかったって」
 瞳の奥の光を真っ直ぐに、僕の目に向ける。僕はいたたまれなくなり、目を逸らす。
「ねぇ、どうしてそんなことしたの?」
 何も答えられない。
「だって、私のことなんか眼中にないんでしょ? だったら、私が誰にどんな目で見られようが関係ないじゃない」
 関係なくなんてない。だって、僕にとっては美沙は誰よりも大事で、綺麗で、純粋で……だからあんな奴の目で汚されるなんて耐えられない。
 そんな言葉は胸でつかえ、口から出る術を知らない。
 無言の時間が流れる。暫しの後、美沙はため息をついて言った。
「一眞ってさぁ、何かおかしいわよ」
「おかしい?」
「普通、男だったらその歳になるとちょっとは女の子をエロい目で見るのに、全然そんなことないもん。何か、『本当の自分』をどっかに落としてしまってるみたい」
 僕の右手を両手で掴む。
「私達、もう高校生なんだよ。私なんか眼中にないとしても……こういうことには興味あるわよね」
 掴んだ僕の右手を自分の胸へゆっくりと近づけていく。僕の右手が、美沙のほのかな膨らみに触れそうになる……。
 鼓動が加速する。
 何をしようとしているんだ?
 この手で彼女を汚す……そんなこと、あってはいけない!
「やめろよ!」
 右手を掴む手を振りほどく。
『バァン!』
 弾みで、カウンターテーブルがぐらついた。

 ……。
 しばし、沈黙が流れる。
「ごめんなさい」
 自分の行動の大胆さにじわじわと気付き始めたのか、美沙はだんだんと頬を赤く染める。
 しかし、僕は一つの違和感を覚えた。カウンターテーブルの上で丸くなっていたミケが、テーブルがぐらついたのに動かない。
「ミケ!」
 僕が呼んでも動かない。
「ミケ! しっかりしてよ!」
 美沙も異変に気付き、うずくまるミケを揺さぶる。
「ミケ! ミケ!」

 祈る思いで近所の動物病院へ連れて行った。
 ミケの病名は猫下部尿路疾患。尿道に結石が形成されてつまっていて膀胱は破裂しそうなほどに膨らみ、膀胱炎を併発していた。
 獣医師達は膀胱穿刺により尿を排除し、ミケを手術室へ運び込み、手術している。会陰尿道瘻設置術で、広い尿道から排尿できるように尿路を作り替える。二時間半の手術時間が、僕達には永久に感じられた。
「大丈夫。ミケは、絶対大丈夫だから」
 今の僕には、震えながら両手で顔を押さえている美沙に声をかけることしかできない。それでも、必死で声をかけた。

 手術室から獣医師が出てきた。
「手術は成功です」
 顔を見合わせ、視線を繋ぐ。美沙の綺麗な瞳から、今度は安堵の涙が溢れ出した。
 ミケは、麻酔から醒めていない眠そうな顔で僕達と対面した。
「この抗生物質を飲ませてあげて下さい。それと、これからはエサは結石のできにくいエサをあげて、水もたっぷり飲ませるようにして下さいね」
 僕達は説明を受ける。そして、獣医師は説明の最後にこう付け加えた。
「それにしても、ミケ君は、『幸福を呼ぶ猫』だね。オスの三毛猫なんて、本当に珍しいよ」
 はっとした。
 今でも動物の病気に関し、多少の予備知識はある。猫下部尿路疾患は雄猫に頻発する病気。ミケは、オスだったんだ。
 美沙は、獣医師の言葉と僕の反応に不思議な顔をしていた。

「ねぇ、オスの三毛猫ってそんなに珍しいの?」
 三毛猫喫茶への帰り道。ミケの入ったケージを持ちながら歩く僕に聞く。
「うん。オスの三毛猫が産まれる確率は、三万分の一」
「三万分の一!?」
「そう。三毛猫のオスって、『本来は産まれない猫』なんだ。毛色を決める遺伝子の関係で。だから、遺伝学的には異常な猫なんだ」
「でも、三万分の一なんて、すごい! 本当に、『幸福を呼ぶ猫』みたい」
「すごくなんてないよ」
 立ち止まり、下を向く。
「実は、僕も『本来は産まれない人間』なんだ」
 そして、美沙に話した。
 自分がミケと同じ『クラインフェルター症候群』であること、人間では五百分の一で産まれる遺伝子異常であること、女性と結婚しても子供のできる可能性は果てしなく低いこと、だから……美沙と結婚できないこと。
 しかし、美沙は瞳をキラキラさせた。
「すごぉい!」
「すごいって、何で?」
 予想に反する彼女の反応を不思議に思い聞いた。
「だって、そうじゃない。三万分の一の確率で産まれたミケと五百分の一の確率で産まれた一眞が出会う確率って、物凄く低くない? えっと……」
「千五百万分の一……」
 算数の苦手だった美沙の代わりに言った。単純に掛けると、千五百万分の一だ。
「すごいじゃん! そんなの、奇跡よ。いいえ、奇跡を通り越して、『運命』だわ!」
「『運命』?」
 美沙は、頷く。
「私、確信したわ。やっぱり、私とミケ、そして一眞は『運命』の糸で繋がってるの。私の『三毛猫喫茶』には、絶対一眞が必要なの。 私達、ずっと一緒にいようよ。だって、『千五百万分の一の三毛猫喫茶』なんて、すごくない?」
 キラキラした目を、さらに輝かす。
「ずっと一緒って、僕達に子供はできないんだよ。美沙はそれでいいの?」
 言えなくて……再会してからずっと行き場がなく、胸につかえて心の奥底を冷やしていたことを聞いた。
「私は、一眞と一緒にいられればそれでいいの。それに、子供のできる可能性もゼロではないでしょ? これほどの運命で結ばれている私達だもの。きっとまた、運命的な奇跡も起こせるわよ」
 その言葉と満面の笑みが、心の奥底を明るく照らし、じんわり温っためてくれる。
 愛しい……。美沙は、いつも僕の太陽だ。いつまでたっても心地よい光を僕に浴びせ、冷えきった心の氷を融かしてくれる。
 そんな気持ちが心をくすぐり、彼女を抱き寄せずにいられなくなる。
 猫のような瞳を丸くする美沙の可愛い唇に、自分の唇を重ねる。僕達は、暫し目を瞑る……。
「あの日…私が引っ越す前の日以来だね」
 美沙が恥ずかしそうに笑って言うと、心はさらにポカポカと温ったかくなる。
 千五百万分の一……いや、あの日、ミケがダストボックスの中にいた確率や僕達が再会した確率、そんな全てを掛けると、何億、何兆、何京分の一という天文学的な確率になるだろう。天文学的な確率を『運命』と言い替えるのは、多少、安易な考えなのかもしれない。でも、この底抜けに明るい考えに自分の全てを託そう。そう思った。
「ねぇ、美沙」
 『三毛猫喫茶』への道も残り僅かになった時に言った。
「これからも、ずっと『三毛猫喫茶 MISA』に来て、そんで……受験勉強していい?」
「ええ、もちろん!」
 満面の笑みで僕を包み込む。
 次の瞬間、思い出したようにその笑みは悪戯っ子に変わった。
「その代わりと言ったら何だけど……私に数学教えてくれない? もう本当に、ヤバいの。微分積分とか、意味不明」
 やっぱり、小学生の時から算数が苦手だったので、数学も苦手らしい。
「微分積分の楽しさが分からないなんて、どうかしてるよ。座標平面に描かれる曲線の神秘と芸術。明日からみっちり教えてあげるよ」
 小狡く笑って言った。
「うわ、嫌な感じ。勉強のことになると嫌味になるトコ、昔から全然変わってない」
 悪戯っ子はふくれる。
「はは、ごめん、ごめん。人に教えることも勉強のうちだし、明日から教えてあげる」
「やっぱ嫌味ー」
 七年前と同じように戯れあう。
 そんな僕達をオレンジ色の夕陽が眩しく照らし、青い海の波の音と白い砂浜を踏む僕達の足音が美しいハーモニーを奏でていた。
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