スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

八話

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 翌朝、職場に瞬だけを先に降ろしてどこかへ消えた忍の行動に、瞬が首を傾げて槙野を振り返った。いつも通りタスクの整理から始めて、メールの返信をしていく。多くのメールは取引先からのアポイントメントや部下からの資料確認の依頼メールだ。忍でしか返事ができないものはフォルダ分けをして、当たり障りのない返答や、瞬たちでも案内のできるものは手早く返信をしていく。槙野に叩き込まれたメールマナーはすっかり身につき、並行して進めていた学業も今は高校二年生の履修範囲まで進んでおり、一般の漢字や英語は苦労もしない。既に先取りとして教えられている経済学の知識も併せて、瞬が働いていく上で必要な教養はほぼ揃っていた。たった4ヶ月でここまで吸収した瞬に対する槙野の評価は高く、忍もそれに見合う報酬額へと少しずつ給料を上げていた。槙野の予想通り半年は彼とコンビを組むことにはなりそうだが、その先はおそらく学業の補助だけで実務はほぼ任せても良さそうだと忍は考えていた。

 メールの仕分けをしていた瞬の指がふと止まる。忍しか読めないようにパスワードロックをかけられたものがある。
「槙野さん、これって」
 顔をあげた瞬に、槙野がモニターを覗く。そして即座にそのメールをゴミ箱に移動させた。
「? やっぱ俺では返信できないやつですか?」
 何の疑いも持っていない瞬の表情に、苦い思いを胸中で押し殺す。
 そのメールアドレスは槙野には馴染みのものだ。数ヶ月に一度、忍に送られてくる脅迫じみたメールである。疑問に思った槙野に忍が渋い顔でこう説明をしたのを思い出す。
「僕の学生時代の知り合いだ。弱みを握っていると勘違いしているのか、定期的にこうしてメールを寄越すんだよ。残念ながら相手をする気はないから、削除で構わない」
 忍の過去は会社立ち上げ当初から共にいた槙野ですらよく分からない部分が多い。出身校も大学からは聞かされているが、彼は高校以前の話をほとんどしないのだ。一人で暮らしていた、という独白を耳に入れた程度である。もともと自らのことを多くは語らない忍ではあるが、こうして実際に脅迫メールが届いても口を閉ざしている以上、想像されるのはあまり楽しい過去ではなく……敢えて追求はしていなかった。
「……黒宮さん、今のアドレスのメールは全て削除です。覚えておいてください。万が一パスワード設定のないまま送られてきても、ファイルは絶対に開かないように」
「……はい……あの……」
「黒宮さん、私たちの立ち位置を忘れてはいけません。我々は社長のサポートをするのが仕事です。社長が不要と判断したものに興味本位で首を突っ込むのは違います。そうでしょう?」
「…………」
 腑に落ちない顔をしたまま、瞬が忘れないようにとそのアドレスを仕事用のミニノートに書き込んで、不要、と書き添えスーツの内ポケットにしまう。
「ところであの……今日の社長のスケジュールに外出ってありましたっけ?」
 槙野が首を振る。
「いいえ。何も連絡がないのは珍しいことですね。ですがお忙しい方ですからたまにはそんなこともあります。お戻りになられるまでにできる限り片付けておきましょう」
 槙野の言葉には端々から忍への信頼が見て取れる。忍の行動や判断に疑いは持つのかもしれないが、最終的にどうするかということには口を挟まず忍の考えを尊重しているのだ。忍という人間をそばで見ているからこそ、瞬にはそれが真似できなかった。心配するあまり余計なことばかり口をつきそうになってしまう。それは多分、忍への愛情というよりはもっと幼く手前勝手な感情なのだろうとぼんやりと考えながら、ファイリングした資料を棚に戻した。







「佑、出てきてくれないか。僕だからいいだろう」
 声をかけた忍に、暗がりでしかない狭い仮眠室の奥の布団がモゾモゾと動く。仕事中とはとても思えないスウェット姿で、寝癖のついた明るい栗色のマッシュヘアが布団から出てくる。野暮ったいとしか言えない服装のままそばにあったメガネを手に取り、掛ける。そのメガネだけが妙に洒落ているためミスマッチも甚だしかった。アイスブルーのハーフリムはテンプルとリムのみ黄色味の強い鼈甲で、レンズの形も横長の五角形。個性的にすぎる。ビジネスシーンに用いるにはかなりの度胸が必要だろう。なんとも形容し難い青年の姿にも忍は動じない。山岸佑は元からそういう人物だ。腕を見込んで採用した際、本人から「外に出たくないので部屋を一つ欲しい、何でも情報は掴むがそれ以外は何一つしたくない」とはっきりとした要望を出されたのだ。つまり、山岸の住まいはこの仮眠室である。
 ベッドのすぐ隣に設置されたメモリ24GBの超高速PC。天候の悪い時のみ電源を落としているようだ。モニターは五つ。レンジとティファールのケトル、小型の冷蔵庫。スマホの充電器は実に7台ものスマートフォンを繋いでいる。そのほかにもタブレットやオーディオなど、生活に必要なものはすべてこの狭い空間に詰め込まれている。
「忍。昨日俺にメールよこしたの何時か知ってる?」
「2時かな。どうせ起きてただろ?」
「うん。でも俺あんな時間にあんな面白い案件持ってこられたら覚醒しちゃって眠れないよ。だから今まで寝てたの」
悪びれもしない言い訳にため息をつく。山岸に関しては、まともな生活態度を求めて叱責をするだけ無駄である。暖簾に腕押しなのだ。
「分かってるよ、責めるつもりはないから安心して。そんなに長いこと熱中したなら、メールには記載しなかった情報も山ほど揃っているんじゃないの?」
「正解。ね、何から聞きたい? なかなか面白いよ」
 俄かに瞳を輝かせて山岸がむくりと起き上がる。ベッドから這い出て、すぐ脇のゲーミングチェアにずるずると移動する。冷蔵庫からコーラを引っ張り出して、忍を呼んだ。
「早く。前に聞いてきた黒宮ナントカとの関わりでしょ。やばいことやってたやつも多いよ。売春の斡旋とか」
 忍が渋面になる。あまり聞きたくもない報告ばかりだろうことは明らかで、もう一つため息を絞り出してごちゃごちゃと物の溢れた仮眠室に足を踏み入れる。申し訳程度に布団を退けた山岸のベッドに腰を下ろし、モニターを覗き込みながら付け加える。
「僕としては重点的に知りたい人物もいる。彼の12歳当時の飼い主……秋平と、君がやっと見つけてきた10歳までの同居人──」
「ミュリアル・ハマジマね。こっちは国籍からの洗い出しだから苦労したよ。俺が突き止めたのは出身国と出身大学、所属研究所と渡航歴。国内での住所を追うのだって大変だったんだからね? とりあえずアメリカ人だよね、日系二世だ」
 明らかになればなるほど問題ばかりが浮き彫りになるのが、瞬の生い立ちだ。思わず眉間を揉む。その先に続く言葉に覚悟をしながら、暗い仮眠室の青く光るモニターを見据えた。

 そのメールアドレスに届いた一通のメールに添付された悪質なファイルはまだ気づいていなかった。問題ばかりが山積しているのは瞬ばかりではないのだということを失念していた。
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