スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

九話

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 忍と共に訪れた、いかにも高級なテイラーの店内を落ち着かない視線でちらりと眺める。

 並んでいるトルソーに着せつけられたスーツはどれも一目で高価なものだと伺えるものばかりだ。首にメジャーのかかったトルソーの前で思わず内側を覗くが、値札などついているはずもない。奥の棚に目をやれば、恐ろしい数の生地バンチが積まれている。どれがどれやらさっぱり分からない。目の前で忍と打ち合わせを続けるテイラーのオーナーは、柔らかな物腰でいかにも紳士と言わんばかり、当然素晴らしくシルエットのいいスーツを着ている。
(場違いすぎる……)
 あまりにも付いていけない状況に助けを求めてテーブルの下でそっと忍のスーツをなぞった。




 つい昨日、週末の休みでスーツを仕立てると突然忍が言い出した。
「なんで? 俺、今ので全然……」
 
 ただでさえそのスーツも忍に買ってもらったものなのだ。畏れ多くてこれ以上は要らないとしか言いようがない。そんな瞬を振り返って、ジャケットをクローゼットに掛けながら忍は飛んだ爆弾発言をしてくれた。
「来月の初めに仕事が終わった後、会社の設立十周年の記念パーティーがある。君も参加してほしい。僕と並ぶのに吊るしのスーツじゃ見劣りがしてしまうし、ただでさえ君ほどの高身長に合わせたスーツは日本じゃあまり置いていないからね……せっかくだからシルエットにこだわった方がいい。フルオーダーするよ」
「え?! ちょ……待て待て……!! 心の準備が無さすぎるだろ、なんでもっと早く教えてくれないんだよ?!」
 慌てる瞬に忍が首を傾げた。
「……早く言おうと遅くなろうと、君が欠席するのは難しいし……」
 頭が真っ白になってしまう。そんな場にでたことなど一度もない。そもそも現代日本でパーティーとは。今まで華やかな世界とは全く無縁に生きてきただけに、どう振舞っていいのかさっぱり分からない。一瞬で表情の曇る瞬に忍が笑って見せた。
「大丈夫。何度も言ったろう? 君は僕の飼い犬として全く遜色がないって。もう僕は君を飼い犬だなんて言い方をするつもりは全くないしね。わかる? 僕の恋人として君は最高の相手なんだ。自信を持って。僕もできる限りはそばにいるし」
 しょげた顔をしていた瞬が僅かに視線を上げる。すぐに上目遣いになるのは無意識なのだろうか、目の毒だと忍がその瞼を指でなぞる。
「明日、テイラーに予約をしてある。最高の一着を仕立てに行こう。君は体型的にもイギリススーツだろうな。僕は何故かいつもイタリアスーツばかり勧められてしまうんだけどね」
イギリスとイタリアの違いすらわからない瞬には、不安しかなかった。だが一度こうと決めた忍の意見は実はなかなか覆せるものではないのだった。






 バンチの一つを手に取って、オーナーが思案顔をする。
「彼はやはりイギリスでしょう。サヴィルクリフォードなど如何でしょうか」
「今回のはパーティーに合わせて仕立てるからね……サヴィルはすこし落ち着きすぎているかな。光沢が欲しい。キャベンディシュかキングスミルか……」
「東條様はまたイタリアをお召しでしょう? 並ぶのであればキャベンディッシュは良いかもしれませんね」
「またも何も、君がいつもイタリアスーツばかり仕立てるんじゃないか」
「東條様の細身の体にはイタリアスーツの方がお似合いです。しなやかさも出ますから、女性も喜ばれるでしょう」
「敵わないな」
 忍とオーナーの会話も珍紛漢紛なまま、物珍しさでバンチの生地に指を触れる。驚くほどしなやかな手触りだ。
「どっちがいい? 君の気に入った方にしよう」
突然話を振られて、焦りのあまりぱっと手を離してしまう。
「いや……あの、全然分からないから、任せる……」
もごもごと言葉を濁す。オーナーが微笑んだ。
「初めてのお仕立てですから、分からないのは当然です。多くのお客様は生地の違いもよく分からないと仰られますよ。何度目でも。東條様はスーツへのこだわりがお強いのでこんな会話もなさいますが、普通は黒宮様の反応で当然なんです。なんでもお聞きください、気に入った一着はかけがえのないものですよ」
穏やかな話口調はどこか忍に通じるものがある。僅かに警戒心と気後れが薄れ、そっと疑問を口にする。
「あの、基本的すぎて恐縮ですけど……イタリアとイギリス? って何が違うんでしょうか……」
ああ、と声を上げた忍が説明をしてくれる。
「スーツの生地や仕立てが基本的に違うんだ。ほら、イタリア男の軽薄さ、なんてよく言うだろう? ファッション性が高くて動きやすい、尚且つ細身の体に似合うようなセクシーなものが多いのがイタリアスーツ。どうしてそれを僕に勧めてくるのか僕はすこし悩んでいるけど」
「東條様は元より女性のお相手は多いでしょう。まさにイタリアではないですか?」
「勘弁して欲しいよ。僕は最初から適当にあしらっているだけで相手をしたことなんてないんだよ?」
辟易した顔をする忍に吹き出してしまう。予想外に砕けた雰囲気になった室内に笑い声が響く。
「で、イギリスはその真逆だ。伝統、格式、重厚感。イメージで言うならばシャーロックホームズかな。体格的にもイギリス人は大柄な傾向があって、君にはまさにと言ったものだね」
ふーん、と瞬が唸る。改めて忍のスーツを思い返すと、たしかに忍のボディラインを引き立てるようなシルエットが多い。
 もう一度生地に触れてみる。忍が提案した2本はどちらも適度な光沢のあるダークネイビーだ。どちらも最高の手触りだが、片方はやや滑らかさが目立つ。しばらく思案して、キャベンディッシュを選んだ。
「ずっと触ってたくなる。艶も綺麗だし……何となくだけど、忍のスーツの生地に似てる気がする……」
 瞬の漏らした感想にオーナーが感心したようにバンチを手に取って教えてくれる。
「まさにその通りです。キャベンディッシュはイタリアの高級生地に近い手触りとツヤが特徴です。東條様と並ぶのであれば、私も文句なしにこちらを勧めますよ」
続いてシャツの生地も選定し、驚いたことに靴まで見立ててくれる。ネクタイに悩む瞬に、忍が悪戯っぽい顔でオーナーを見る。
「イギリススーツであまり遊ぶなとはいつも君に言われるけどね。せっかくだから僕は色ですこし個性を出したい。シルバーと臙脂のレジメンタル、生地はシルクでお願いしたい」
「東條様がそう言う方なのは存じておりますよ。黒宮様は髪色にもすこし赤みが見られますからよくお似合いでしょう。承りました。次は東條様です」
 呆れ混じりではあるが、冒険的な忍のセレクトはオーナーにとっても楽しそうではある。バンチを並べて忍を見る。
「ロロ・ピアーナのザ・ウェーブ。カノニコと悩むけれどね。発色はカノニコは格別だからな……瞬のスーツと同じ色で。シャツはどうせ何を言ったところで僕には白を勧めてくるだろう?」
「そうですね。黒もお似合いですが、東條様の体型ではあまりにも締め色ばかりですと……」
 忍がため息をつく。本人なりにその華奢さを気にしているのだなと微笑ましくなってしまう。瞬が笑いを噛み殺しているのを小さく忍の指先がつねった。
「まぁ、瞬の黒と対照的でいい。ネクタイは嫌になる程持っているから今回はいいよ。靴はディオールのストレートチップを合わせるから取り寄せてもらってもいいかな」
「最短で取り寄せます。では、お二人とも採寸室へどうぞ」




 テイラーから一歩外に出た途端、気が抜けて座り込みそうになってしまう。非日常とはこう言うことを言うのだろうか。
「お疲れ様。仕上がってくるのが楽しみだね」
 どっと息を吐く瞬に忍が労いの声をかけてくれる。肩幅やウエストだけかと思いきや、採寸は手首や足首にまで及んだ。テイラーのオーナーが忍のボディデータに笑ったのを思い返す。
「いいでしょう、毎回細くおなりでしたので心配でしたが、今回は1mmも変わっておりません」
 その言葉に達成感を覚えてしまう。瞬が食事を作るようになって忍の体重もサイズも全く変動をさせていないことは確信していたが、データとして認められるとなかなか嬉しいものがある。
 同じくデータをとりながら瞬のバランスにも感嘆符を浮かべていたのだが、それは意識に残っていなかった。仮縫いをした際に並んで立った忍とのシミラーコーデに妙に照れてしまって、それどころではなかったのだ。
「あの……ありがと」
 小さく呟く。忍が柔らかく微笑んだ。
「実は僕のためでもあるんだ。当日を楽しみにしていて欲しい」
 
 首を傾げた瞬を手招いて車のドアを開ける。当日、忍は瞬との関係を公表することを考えていたのだった。


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