スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

二十一話

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 夕食時も言葉少な目だった忍は、シャワーを浴びると早々に仕事を少し片づけてくるから、と自室へ消えた。リビングでソファにごろりと寝そべって、ようやく使い方を覚えてきたスマートフォンをいじる。元々忍はプライベートの時間にTVをつけることがあまりない。夕食や朝食の間に必要なニュースを頭にいれるくらいで、エンターテインメントとしては本や音楽を好んだ。ともに暮らした一年半の時間の中で、瞬にもその生活スタイルは馴染んでいる。スマート家電に声をかけて音楽を流す。

 常日頃、忍の魅惑的な声が刻む英語ばかりを耳にするせいか、洋楽も難なく聞き取れる。知識もついた今では歌詞の意味もすぐに溶けるように理解の範疇へ入ってくる。初めて歌ってくれた“Everything‘s  gonna be alright”は今もよく聴いており、その歌詞はそれほど意識しないほどになっていたのに。




“一人座って思い出すんだ、お前が恋しくなる時に
お前の感触
お前のキス
お前の笑顔を――“

 まるでもう一人の自分が語り掛けてくるように、ふいに心臓が跳ねる。苦心して身が凍るほどの心許なさを心の奥にしまい直す。忍は話してくれるはずだと、彼がそうできないほどの何かであるのなら……なおさら、瞬がしつこく聞きだしてはならないのだと強く心を戒める。忍が何かを隠していることにも、本人も知らないうちにその瞳をよぎる不安定な光にも気づいているから……余計なことは言わずに耐える。
「Stay」と忍が今、コマンドを落としているのだ。口にしないだけだ。前髪を掴んで手のひらに瞼を押し付ける。飼い主への忠義があるのならば耐えてみせろと自分を強く拘束する。強いストレスを覚えて、内服を一錠追加した。今は瞬が無駄な問題を持ち込むべき時ではないのだと、ぐっと不安を飲み込む。忍を想うのであれば、今はもたれかかってはいけない。
 扉の向こうで、忍は今どんな顔をしているのだろう。苦しんでいやしないか。独りにしていいのだろうか。
何度もソファから立ち上がろうと逡巡しては座り直す。そんな瞬の気配に気づいた忍が部屋の中で苦笑を零した。
(僕が話すのを待ってくれているのか……黙っている訳にはいかない、瞬にだって僕がいなくなることへの心の準備が必要だ……)
 認めたくなくとも、誤魔化せない。部屋のゴミ箱を一瞥すれば、血痰の付着したティッシュが嫌でも目に入る。病というのは不思議なもので、意識をしなければそれほどでもないことも知ってしまうと急に体も心も弱ってしまう。だが、忍にとっては残り少ない命よりも何よりも、置いていかれる瞬が心配でならない。これほど忍のためだけにすべてを捧げてしまっている瞬が忍を失った時どうなってしまうか分からない。泣いてしまうだろうか。絶望してしまうだろうか。きっと立ち上がれなくなってしまう。命が消えてしまうその時までに、瞬に生きる力をつけてやらなくてはならない。彼の周りに山積する問題を片付けてやって、瞬自身が一人で立って生きていけるように輝く言葉をたくさん伝えてやらなくてはいけない……。

 小さくため息を吐く。引きこもっている場合ではない。二年という短い時間の中で、瞬のためにしてやらなくてはならないことは山ほどあるのだ。絶望をしている場合ではない。
 押し開けたドアの先、広いリビングの中央で今にも泣きそうな瞳で待っていた瞬に、「話があるんだ」と告げた忍の喉からまた小さく咳が漏れた。






「肺、がん…………」
 小さく呻いた瞬の瞳から涙が次々とソファに落ちた。
「余命は二年だそうだ。僕は君とそんなに長く一緒にはいてあげられなくなっちゃったね。ごめんね……」
「なんでお前が謝るんだよ……馬鹿っ……」
 苦しそうに嗚咽を堪えながら、瞬が膝を抱えてしまう。忍が哀しさをにじませた微笑を向ける。
「君の傍にずっといるって僕は約束してしまったから……守れない約束だったね。ねぇ、瞬。絶望している時間なんてないよ。たくさん、たくさん思い出を遺そう。君と僕だけの特別な記憶をたくさん君に刻んでおかなくちゃ。僕が消えてしまうその時までに、君にあげられるすべてをあげる。自由も、思い出も、僕の言葉の全ても……君が自分で走っていけるように、僕のすべてを君にあげる。泣かないで、いい子だから。楽しく過ごそうよ。せっかくの時間を光だけで埋め尽くしていこう」
 励ます忍の瞳はこんな時でさえ涙を浮かべることもなく、優しい光を宿している。くじけてしまいそうな瞬に、持てる全てで光を落とす。
「君にはできないことなんてないんだよ。大丈夫だからね……」
 繰り返してくれる言葉を噛み締めながら瞬は反論を飲み込む。
(お前を助けてやることが……俺にはできないことじゃないか……)
 頭が、胸が、ここへ遺されてしまうすべてが痛い。俺よりもつらいのは忍なんだからと叱咤をしても、震えてしまう体を止められない。全ての感情がごちゃごちゃに交差をして、見えるはずの光を遠ざけてしまう。
「大丈夫だよ」
 撫でてくれる忍の手首を掴んで、腕に中に抱きしめる。
 あと、二年。
 思わず運命を呪いそうになる瞬にそっと忍が囁いた。
「良かった。君に出会う事が出来て。僕の命が間に合ってくれて」
 もう殺しようもない泣き聲と涙が止めどもなく溢れては消える。

 光を遺そう。暗闇に置いていかなければならないからこそ。忍が瞬の頬を唇でなぞりながら優しくその躰を抱き寄せた。
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