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六 : 田辺城攻防戦
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忠興は長岡家の威信を懸けた大軍勢で東国へ出征。丹後の留守を預かるのは幽斎以下約五百名。また、これとは別に木付領にも松井康之を大将とした押さえの将兵を置いている。
六月中旬。丹後に到着した幽斎は、留守を預かっていた三男へ単刀直入に告げた。
「結論から言う。宮津は捨て、田辺へ向かう」
「それはまた、どうしてですか?」
幽斎の発言に疑問を投げ掛ける三男・幸隆《ゆきたか》。
長岡“刑部少輔”幸隆、元亀二年〈一五七一年〉生まれで三十歳。十二歳の時に一度仏門に入るも、翌年に父の意向で還俗し長岡家へ復帰している。これまでの戦では留守を預かる事が多かった為、実戦経験に乏しかった。
宮津城は藤孝が天正八年に完成させた城で、石垣が組まれ鉄砲対策に濠の幅を広げるなど考慮され守りが手薄な城では決してなかった。
「理由は簡単だ。宮津は政を行う為の城であり、その点では田辺の方が守るに適している」
幸隆の疑問にも幽斎は明確な理由を述べる。
居城の宮津城は長岡家が丹後を拝領してから築いた城。多少守りの工夫が施されていたとしても本格的な外敵の侵攻は想定されていない。その点、幽斎の隠居所として建てられた田辺城は造りが小さく少ない手勢で効率よく守れる。そして、最悪一色家が有事の際に用いた山城の建部山城に籠もれる利点がある。
「分かったな。時が惜しい、急がせるぞ」
幽斎は宮津城に火を放つと、田辺城へ移動。全ての将兵達に領内全ての城砦を放棄させると共に、戦力・兵糧弾薬を田辺城へ集約するよう命じた。この際、幽斎は将兵の移動を最優先とし、最悪物資は残して構わないとした。物資を空の城砦に残しておけばそれを収容する為に敵の足止めが狙え、時間を稼げる為だ。
家康率いる上杉征伐勢は東海道を進み、七月二日に江戸へ到着。七日には出羽の大名へ指示を出すなど、暫く江戸に留まった。七月二十一日に家康は会津へ向けて出発した。
片や、畿内では反家康へ始動していた。七月十二日、三奉行の連署で広島の毛利輝元に上坂を要請。十五日に輝元は大坂へ出発する。
そして――慶長五年七月十七日、三奉行が家康の犯した数々の専横を糾弾する十三ヶ条の『内府ちがひの条々』を発布。そして奉行達はさらに踏み込んだ対応に出るのだが――。
「玉が、亡くなった、だと……?」
七月十八日、その一報に幽斎は耳を疑った。
「仔細を申せ」
「はっ、然れば……」
十七日、反家康の姿勢を鮮明にした三奉行は上杉征伐に従軍する諸大名の妻子達を大坂城へ収容すべく、兵を出し屋敷を囲むなど圧力を掛けた。忠興は出征に際し、留守居の小笠原少斎へ『妻(玉)の身に危機が迫った場合、自害させ屋敷に火を放て』と厳命した。
玉(玉子とも)、永禄六年生まれで三十八歳。明智光秀の三女に生まれ、天正六年に信長の薦めもあり忠興と結婚。夫婦仲は極めて良好だったが……天正十年六月、本能寺の変を受け“明智方と思われたくない”忠興の意向で味土野へ隔離。離縁しなかったのは忠興が玉をそれだけ溺愛していた事が大きい。二年後に隔離は解かれ、この頃に耶蘇教に興味を持ち始める。天正十五年に島津征伐で夫が不在でだった事から秘かに教会へ通い、耶蘇教の教えをさらに深めた。同年には侍女を介して洗礼を受け、“ガラシャ”の洗礼名で吉利支丹となった。ただ、盲目的に愛する忠興は玉を他人の目に触れさせたくなく、屋敷の外どころか部屋の外に出る事さえ許さなかった。
主君が玉を耽溺していたのを知っていた少斎は、大坂城へ移る要求など呑める筈がなかった。このままでは屋敷に踏み込まれると観念した少斎は、襖越しに玉へ説明。玉は侍女達を秘かに逃がすと、少斎を部屋に招き入れ『吉利支丹は自害が禁じられている』と伝え胸を突かせ介錯。主命を完遂させた少斎は用意した火薬に火を点け、屋敷は爆発炎上した。
この事態を重く見た奉行達は“逆に東征した者達の怒りを煽《あお》る恐れがある”として計画を中止。屋敷を厳重に囲み監視する方針に切り替えたが、一部大名家で脱出を許している。
「……そうか」
全てを聞かされた幽斎は、大坂の方に向かい手を合わせた。玉とそれに殉じた家臣達の冥福を祈った幽斎は、幸隆を呼ぶよう命じた。大坂の顛末を聞いた幸隆は、顔を蒼くする。
「状況は分かっているな?」
「はい……」
消え入りそうな声で応える幸隆。蒼白な顔の幸隆を気にしている余裕など幽斎にはない。
「内府様追討の兵が挙がった以上、こちらへも直に兵が押し寄せて来ると見ていいだろう」
「お言葉ながら、丹後は内府様が向かわれた東と真逆。そんなに急がれる事は――」
「甘い」
幸隆の予想をバッサリと斬って捨てる幽斎。険しい表情のまま続ける。
「彼奴等の第一目標は“畿内及びその近隣の制圧”だ。内府様と無二の戦に臨むべく大軍を率いて畿内から離れている間に攻め込まれては元も子もないからな。……細作の報告だと丹波や但馬で出撃の準備が進んでいるらしい。狙いは、内府様と行動を共にする長岡家」
その言葉に、ゴクリと唾を飲む幸隆。間近に迫る戦の恐怖から、今にも震えだしそうだ。
「心配するな。儂が居る限り、死ぬ事はない」
「……どうしてですか?」
「敵には、儂を絶対に死なせない理由がある」
理由を聞いても、よく分かっていない幸隆。幽斎は“何れ分かるさ”と余裕綽々の顔だ。
正直、幽斎は今回の戦で勝つ気は更々無かった。自分にしか出来ない戦い方で、敵を引っ掻き回す。その為に闘志を燃やしていた。
(以降、分かりやすくする為に家康方を“東軍”・反家康方を“西軍”と表記します)
慶長五年七月十九日、西軍方が丹後へ侵攻。先遣隊は空の城砦を接収しつつ進軍。二十一日、長岡勢が籠もる田辺城攻防戦が始まった。
寄せ手は小野木重勝を始めとする丹波・但馬の諸将。これに大坂から豊後勢が送られ最終的に約一万五千。守る側の長岡勢は約五百。
戦は数で劣る長岡勢は大苦戦、二十六日には本丸のみと絶体絶命の窮地に追い込まれた。
「如何致しましょうか……このままでは……」
命の危機に瀕する幸隆はオロオロするばかり、銃声が聞こえる度にヒッと体を縮こます。
一方、幽斎はケロリとしている。場数を踏んでいるのもあるが、何か理由がある様子だ。
「心配要らぬ。損失は予想より下回っている」
幽斎は事前に将兵達へ『敵が攻めて来たら一回だけ反撃し、直ぐ撤退しろ』と命じていた。“形だけ抵抗しさっさと引き揚げろ”とは不思議な命令だが、そのお蔭もあってか長岡勢の死傷者は三十名程度に抑えられている。
「それにほら、よく聞いてみろ」
父に促され、銃声に耳を傾ける幸隆。聞いてみると、発砲音はすれど着弾した音はしない。訳が分からないという顔の幸隆に、クククと笑いながら幽斎は種明かしをしてくれた。
「寄せ手の中に儂の弟子が何人か居る。師を殺せないから攻めているフリをしているのさ」
谷衛友は豊臣家屈指の武辺者だが、幽斎は歌道の師だった事から鉄砲の弾を抜いて撃たせていた(後に“谷の空鉄砲”と呼ばれる)。他にも長谷川宗仁は茶の湯の兄弟弟子と、幽斎の関係者は攻撃で明らかに手を抜いていた。あと一押しでも『攻めるべきでない!』という意見が敵中で大勢を占め、足踏みしていた。
「あとは“アレ”を待つばかりだが……おっ」
本丸の櫓から外を眺めていた幽斎は、声を弾ませる。見れば、戦場で明らかに浮いている雅な装飾が施された三台の輿が城外に張られた敵の本陣に付けられる。
輿から出てきたのは、何れも公家衆。それも揃って衣冠や束帯から高位の人物と窺える。
何事かと思い陣の外へ出て来た武将達は公家達に跪くと、正使の者が厳かに言い放った。
「直ちに城攻めを中止せよ!! これは宮家の御意思である!!」
唐突に出された中止命令に、西軍の武将達は口をあんぐり開けて固まる。武家同士の争いに関わる事を好しとしない皇室がわざわざ現地に赴いてまで介入するとは、前代未聞だ。
それは長岡勢も同じで、幸隆を始め将兵達は呆然としている。こういう展開を事前に知っていた幽斎は従弟の三淵光行に声を掛ける。
「間に合いましたな」
「あぁ。お主のお蔭だ」
「とんでもありません。私はただ旧知の者にありのままをお伝えしたまで。それだけです」
幽斎が褒めるも、光行は“大した事はしてません”と涼し気な表情であっさり答える。
三淵光行。元亀二年生まれの三十歳。幽斎の兄・藤英の次男に生まれ、天正二年〈一五七四年〉に父と兄が自刃に追い込まれるも幼少だった光行は免れ、叔父の藤孝が引き取った。その後は幽斎付の家臣として仕えてきた。
光行の母について史料は発見されてないが、藤英が義輝に仕えた事から相応の家の娘の可能性が高い。光行から母方の縁者に『幽斎の身が危ない』と知らせるだけで、事足りる。
「さて、私は出迎えに参ります」
「頼んだぞ」
甥が一声掛けると、櫓を下りて行く。幽斎も敵勢が困惑顔で撤退していく様を見届け、表情を引き締めて背を向ける。幽斎にしかする事が出来ない戦いが、これから始まるのだ。
六月中旬。丹後に到着した幽斎は、留守を預かっていた三男へ単刀直入に告げた。
「結論から言う。宮津は捨て、田辺へ向かう」
「それはまた、どうしてですか?」
幽斎の発言に疑問を投げ掛ける三男・幸隆《ゆきたか》。
長岡“刑部少輔”幸隆、元亀二年〈一五七一年〉生まれで三十歳。十二歳の時に一度仏門に入るも、翌年に父の意向で還俗し長岡家へ復帰している。これまでの戦では留守を預かる事が多かった為、実戦経験に乏しかった。
宮津城は藤孝が天正八年に完成させた城で、石垣が組まれ鉄砲対策に濠の幅を広げるなど考慮され守りが手薄な城では決してなかった。
「理由は簡単だ。宮津は政を行う為の城であり、その点では田辺の方が守るに適している」
幸隆の疑問にも幽斎は明確な理由を述べる。
居城の宮津城は長岡家が丹後を拝領してから築いた城。多少守りの工夫が施されていたとしても本格的な外敵の侵攻は想定されていない。その点、幽斎の隠居所として建てられた田辺城は造りが小さく少ない手勢で効率よく守れる。そして、最悪一色家が有事の際に用いた山城の建部山城に籠もれる利点がある。
「分かったな。時が惜しい、急がせるぞ」
幽斎は宮津城に火を放つと、田辺城へ移動。全ての将兵達に領内全ての城砦を放棄させると共に、戦力・兵糧弾薬を田辺城へ集約するよう命じた。この際、幽斎は将兵の移動を最優先とし、最悪物資は残して構わないとした。物資を空の城砦に残しておけばそれを収容する為に敵の足止めが狙え、時間を稼げる為だ。
家康率いる上杉征伐勢は東海道を進み、七月二日に江戸へ到着。七日には出羽の大名へ指示を出すなど、暫く江戸に留まった。七月二十一日に家康は会津へ向けて出発した。
片や、畿内では反家康へ始動していた。七月十二日、三奉行の連署で広島の毛利輝元に上坂を要請。十五日に輝元は大坂へ出発する。
そして――慶長五年七月十七日、三奉行が家康の犯した数々の専横を糾弾する十三ヶ条の『内府ちがひの条々』を発布。そして奉行達はさらに踏み込んだ対応に出るのだが――。
「玉が、亡くなった、だと……?」
七月十八日、その一報に幽斎は耳を疑った。
「仔細を申せ」
「はっ、然れば……」
十七日、反家康の姿勢を鮮明にした三奉行は上杉征伐に従軍する諸大名の妻子達を大坂城へ収容すべく、兵を出し屋敷を囲むなど圧力を掛けた。忠興は出征に際し、留守居の小笠原少斎へ『妻(玉)の身に危機が迫った場合、自害させ屋敷に火を放て』と厳命した。
玉(玉子とも)、永禄六年生まれで三十八歳。明智光秀の三女に生まれ、天正六年に信長の薦めもあり忠興と結婚。夫婦仲は極めて良好だったが……天正十年六月、本能寺の変を受け“明智方と思われたくない”忠興の意向で味土野へ隔離。離縁しなかったのは忠興が玉をそれだけ溺愛していた事が大きい。二年後に隔離は解かれ、この頃に耶蘇教に興味を持ち始める。天正十五年に島津征伐で夫が不在でだった事から秘かに教会へ通い、耶蘇教の教えをさらに深めた。同年には侍女を介して洗礼を受け、“ガラシャ”の洗礼名で吉利支丹となった。ただ、盲目的に愛する忠興は玉を他人の目に触れさせたくなく、屋敷の外どころか部屋の外に出る事さえ許さなかった。
主君が玉を耽溺していたのを知っていた少斎は、大坂城へ移る要求など呑める筈がなかった。このままでは屋敷に踏み込まれると観念した少斎は、襖越しに玉へ説明。玉は侍女達を秘かに逃がすと、少斎を部屋に招き入れ『吉利支丹は自害が禁じられている』と伝え胸を突かせ介錯。主命を完遂させた少斎は用意した火薬に火を点け、屋敷は爆発炎上した。
この事態を重く見た奉行達は“逆に東征した者達の怒りを煽《あお》る恐れがある”として計画を中止。屋敷を厳重に囲み監視する方針に切り替えたが、一部大名家で脱出を許している。
「……そうか」
全てを聞かされた幽斎は、大坂の方に向かい手を合わせた。玉とそれに殉じた家臣達の冥福を祈った幽斎は、幸隆を呼ぶよう命じた。大坂の顛末を聞いた幸隆は、顔を蒼くする。
「状況は分かっているな?」
「はい……」
消え入りそうな声で応える幸隆。蒼白な顔の幸隆を気にしている余裕など幽斎にはない。
「内府様追討の兵が挙がった以上、こちらへも直に兵が押し寄せて来ると見ていいだろう」
「お言葉ながら、丹後は内府様が向かわれた東と真逆。そんなに急がれる事は――」
「甘い」
幸隆の予想をバッサリと斬って捨てる幽斎。険しい表情のまま続ける。
「彼奴等の第一目標は“畿内及びその近隣の制圧”だ。内府様と無二の戦に臨むべく大軍を率いて畿内から離れている間に攻め込まれては元も子もないからな。……細作の報告だと丹波や但馬で出撃の準備が進んでいるらしい。狙いは、内府様と行動を共にする長岡家」
その言葉に、ゴクリと唾を飲む幸隆。間近に迫る戦の恐怖から、今にも震えだしそうだ。
「心配するな。儂が居る限り、死ぬ事はない」
「……どうしてですか?」
「敵には、儂を絶対に死なせない理由がある」
理由を聞いても、よく分かっていない幸隆。幽斎は“何れ分かるさ”と余裕綽々の顔だ。
正直、幽斎は今回の戦で勝つ気は更々無かった。自分にしか出来ない戦い方で、敵を引っ掻き回す。その為に闘志を燃やしていた。
(以降、分かりやすくする為に家康方を“東軍”・反家康方を“西軍”と表記します)
慶長五年七月十九日、西軍方が丹後へ侵攻。先遣隊は空の城砦を接収しつつ進軍。二十一日、長岡勢が籠もる田辺城攻防戦が始まった。
寄せ手は小野木重勝を始めとする丹波・但馬の諸将。これに大坂から豊後勢が送られ最終的に約一万五千。守る側の長岡勢は約五百。
戦は数で劣る長岡勢は大苦戦、二十六日には本丸のみと絶体絶命の窮地に追い込まれた。
「如何致しましょうか……このままでは……」
命の危機に瀕する幸隆はオロオロするばかり、銃声が聞こえる度にヒッと体を縮こます。
一方、幽斎はケロリとしている。場数を踏んでいるのもあるが、何か理由がある様子だ。
「心配要らぬ。損失は予想より下回っている」
幽斎は事前に将兵達へ『敵が攻めて来たら一回だけ反撃し、直ぐ撤退しろ』と命じていた。“形だけ抵抗しさっさと引き揚げろ”とは不思議な命令だが、そのお蔭もあってか長岡勢の死傷者は三十名程度に抑えられている。
「それにほら、よく聞いてみろ」
父に促され、銃声に耳を傾ける幸隆。聞いてみると、発砲音はすれど着弾した音はしない。訳が分からないという顔の幸隆に、クククと笑いながら幽斎は種明かしをしてくれた。
「寄せ手の中に儂の弟子が何人か居る。師を殺せないから攻めているフリをしているのさ」
谷衛友は豊臣家屈指の武辺者だが、幽斎は歌道の師だった事から鉄砲の弾を抜いて撃たせていた(後に“谷の空鉄砲”と呼ばれる)。他にも長谷川宗仁は茶の湯の兄弟弟子と、幽斎の関係者は攻撃で明らかに手を抜いていた。あと一押しでも『攻めるべきでない!』という意見が敵中で大勢を占め、足踏みしていた。
「あとは“アレ”を待つばかりだが……おっ」
本丸の櫓から外を眺めていた幽斎は、声を弾ませる。見れば、戦場で明らかに浮いている雅な装飾が施された三台の輿が城外に張られた敵の本陣に付けられる。
輿から出てきたのは、何れも公家衆。それも揃って衣冠や束帯から高位の人物と窺える。
何事かと思い陣の外へ出て来た武将達は公家達に跪くと、正使の者が厳かに言い放った。
「直ちに城攻めを中止せよ!! これは宮家の御意思である!!」
唐突に出された中止命令に、西軍の武将達は口をあんぐり開けて固まる。武家同士の争いに関わる事を好しとしない皇室がわざわざ現地に赴いてまで介入するとは、前代未聞だ。
それは長岡勢も同じで、幸隆を始め将兵達は呆然としている。こういう展開を事前に知っていた幽斎は従弟の三淵光行に声を掛ける。
「間に合いましたな」
「あぁ。お主のお蔭だ」
「とんでもありません。私はただ旧知の者にありのままをお伝えしたまで。それだけです」
幽斎が褒めるも、光行は“大した事はしてません”と涼し気な表情であっさり答える。
三淵光行。元亀二年生まれの三十歳。幽斎の兄・藤英の次男に生まれ、天正二年〈一五七四年〉に父と兄が自刃に追い込まれるも幼少だった光行は免れ、叔父の藤孝が引き取った。その後は幽斎付の家臣として仕えてきた。
光行の母について史料は発見されてないが、藤英が義輝に仕えた事から相応の家の娘の可能性が高い。光行から母方の縁者に『幽斎の身が危ない』と知らせるだけで、事足りる。
「さて、私は出迎えに参ります」
「頼んだぞ」
甥が一声掛けると、櫓を下りて行く。幽斎も敵勢が困惑顔で撤退していく様を見届け、表情を引き締めて背を向ける。幽斎にしかする事が出来ない戦いが、これから始まるのだ。
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