木瓜の試練 ~人間五十年、生きるも死ぬも一瞬~

佐倉伸哉

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三 : 大将首を挙げよ(1) - 武家の常識

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 暴風雨が始まった未の初刻(午後一時)から四半刻、風や雷は収まり雨も小康状態になった。嵐に耐えながら進んだ織田勢二千五百は……桶狭間に陣取る今川本陣を見下ろせる高台に到達した。
 桶狭間に張られた幔幕には今川家の家紋の足利二つ引両が染められている。その周囲に見張りの兵が散見されるだけで、他の兵はあちらこちらに分散して固まっていた。振る舞われた酒で酒盛りをしていたか、それとも俄かに襲った猛烈な雨を凌ごうとしたか。どちらにしても、敵地にも関わらず非常に無防備な状態だった。
 総勢四万と喧伝していたが、今見えているのは多くても五千。しかも本陣の守りは薄く、三千くらいか。それならば今の織田方とほぼ互角だ。
 目の前に巡ってきた千載一遇の絶好機。仕掛けるなら、今だ。
「皆の衆、あそこに見えるのが今川の本陣だ」
 信長が指差した方向には足利二つ引両の家紋だけでなく、義元の馬印である今川赤鳥の紋が染められた旗も立てられていた。それこそ総大将の今川義元が桶狭間に居る何よりの印だった。
「狙いはただ一つ、大将義元の首のみ。他は打ち捨てよ」
 落ち着いた口調で将兵達に語りかける信長。首級は義元だけで、他は放置しろと宣言した。有象無象の者を幾ら倒したとしても、大将である義元を逃してしまえば勝利したとは言えないからだ。織田の将兵達も信長の言葉を静かに聞いているが、その眼は飢えた獣が獲物を探している時のようにギラギラと輝いていた。
 将兵達の顔を確かめた信長は腰に差した刀を鞘から抜き放つと、頭上に掲げて制止する。
 思い切り息を吸い込んでから、腹の底から声を発した。
「掛かれ!!」
 信長の号令を皮切りに、将兵達が鯨波を上げながら一斉に眼下の今川本陣へ突撃していった。我先にと味方同士が競い合いながら、手にした得物を振り翳して襲い掛かる。
 俄かに湧き上がった喊声に、幔幕の周りで警護していた兵達もすぐさま対処しようとしたが、機先を制した織田勢に呑み込まれて瞬く間に刀の錆となる。本陣から離れた場所で雨宿りしていた兵達は突如降って湧いた織田の軍勢に狼狽し、武器を捨てて逃げ出す者が続出。勇敢に立ち向かおうとする者も居たが、臨戦態勢が充分に整っておらず返り討ちにされてしまった。
 雲霞の如く押し出していく人波を見つめる信長の眼に、朱塗りの槍を握り締めて切り込んでいく利家の姿を捉えた。
(……又左よ。皆を納得させる武功を挙げ、本懐を遂げよ)
 織田家の頂点に立つ者として、特定の人物に肩入れするのは好ましくないことだと分かっていた。それも刃傷沙汰を起こして出奔した者だ。だからこそ信長は家臣を均一公平に扱い、信賞必罰では身贔屓が出ないよう細心の注意を払ってきた。しかし……親しく接してきた者が居るとどうしても目で追ってしまう自分が居る。
 又左の武運を秘かに祈っていると、利家の姿は人波に紛れてしまった。それで良い。自分の視線を感じて足を止めてしまうならそれまでの男だ。きっと必ず、武功を挙げる筈だ。
「はぁ~……皆凄いなぁ」
 不意に、戦場とは思えない程に間抜けな声が上がる。誰かと思って声のした方を向くと、そこに居たのは藤吉郎だった。
 鉢金を頭に巻き、配られた胴丸を身に着け、支給された長槍を持っている姿は一介の足軽のように見える。ただ、決して強そうとは思えないが。
「こりゃ!! 油を売ってないで早く戦いに行かぬか!!」
 信長付の馬廻衆の一人が藤吉郎を咎めるが、信長はそれを手で制した。
「構わぬ。下手に突っ込んでも味方の足を引っ張るだけだ」
 遠回しに『戦力に値しない』とバッサリ斬り捨てた信長の物言いに、藤吉郎は申し訳なさそうに首を竦めた。馬廻の者も藤吉郎の存在を無視して周囲に敵が居ないか目を光らす。
 戦場を見つめている藤吉郎の体が微かに震えているのを、信長の眼は見逃さなかった。
 藤吉郎が信長という人物を隅々まで知ろうとしたように、信長もまた藤吉郎がどういう人物か見ていた。人並み外れた探究心を持つ信長はずば抜けた観察眼で個人の性格や器量を推し量ろうとしたのだ。
 貧しい水呑み百姓の生まれである藤吉郎は、誰よりも立身出世を望んだ。“美味い物を腹一杯食べたい”“広い屋敷に住みたい”“良い服を着たい”“綺麗な女性を抱きたい”、直截的な欲望こそ藤吉郎の原動力だった。草履取りから異例の出世を遂げて周囲を驚かせたが、藤吉郎は現状に満足していなかった。明確な終着点が無いからこそ、もっと上を目指そうと馬車馬のように働くのだ。
 その“出世の為なら何でもやる”と我武者羅に働く藤吉郎のやり方を『意地汚い』と貶す者も少なくなかったが、それは誤解であり大きな間違いだ。競争相手を蹴落としたり、他者を騙したり貶めたりしたことは一切無い。他者に理解を求め、手間も労苦も自らが一手に引き受け、周囲への迷惑を最小限に抑える配慮を凝らしていた。その点で言うならば、藤吉郎は織田家で一番綺麗な仕事をしていた。
「功名の為なら、火の中に飛び込むことも厭わないお主のことだ。怠けている訳でも、旨い所を横から攫う訳でもあるまい」
 信長の問いかけに藤吉郎は無言で頷く。 
「……死ぬのが怖いか?」
「はい。それもありますが……」
 信長の指摘に藤吉郎は素直に認めた。藤吉郎は言葉を探しながら続ける。
「……自分が傷つくのは勘弁願いたいんですが、人を傷つけるのも御免被りたいんです。おっ父[とう]は戦場に駆り出され、深い傷を負って戻ってきました。その後寝たきりになって田畑に出ることも適わず、古傷が痛むのか夜もろくに眠れず、悶え苦しみながら亡くなりました。人は五体満足に生きてこそ、生きている価値があるのです。戦場で数え切れないくらい敵を倒しても、人殺しに変わりはありません。人を殺して偉くなるより、人を活かして偉くなりたいです」
 いつもの剽げた口調とは対照的に、真面目な語り口で淀みなく話す藤吉郎。陽気で饒舌な仮面の下に隠れていた藤吉郎の本性を垣間見た瞬間だった。
 人を殺して偉くなるより、人を活かして偉くなりたい、か。なかなか面白いことを言うなと信長は感心した。
 武士にとって“死”は身近なものだ。合戦は無論のこと、平時でも面目を保つために切腹したり、謀叛の疑いがある者を成敗したり。そうした犠牲の上に武士の生活が成り立っていると言っても良い。だからこそ、武士はいつ死んでも良い心構えで日々を過ごす。
 しかし、百姓上がりの藤吉郎には武士の常識が備わっていない。それを藤吉郎のことを快く思っていない者達からすれば『恥を知らぬ』『見苦しい』と扱き下ろすだろうが、信長は違った。武家社会にとって異分子である藤吉郎を、貴重な価値観を持つ稀有な存在と捉えていた。
「猿よ」
 本心を晒した者には真正面からぶつかる。それが信長の流儀だった。
「皆は俺が怖い者知らずと口々に言うが、俺も死ぬのは怖い。命の危険が迫れば全てを投げ出して逃げたくなる衝動に駆られる」
 率直な気持ちを打ち明けると藤吉郎は驚きで目を剥いた。それもそうだ。今まで一度もそんなことを口に出したことが無いのだから。
 周囲の者達も事の成り行きを注視する中、信長は「でもな」と言葉を継ぐ。
「人を傷つけるのが嫌なら、お主は武器を捨てて自らの命を敵に捧げるか?」
「それは……」
 信長の指摘に藤吉郎は口ごもる。
「そんな酔狂な輩、居るはずが無いわな」
 答えに窮する藤吉郎を信長は斬り捨てた。俯く藤吉郎へさらに追い討ちを掛ける。
「『人を殺して偉くなるより、人を活かして偉くなりたい』という考えは立派だ。しかしな、そんな綺麗事は戦場で通用せん。嫌かも知れんが、戦場を生き抜くには傷つくことを承知で戦うしかないのだ。戦っている味方を置き去りにして逃げ出せば、例え命を永らえたとしても『味方を置いて生き延びた恥ずべき者』の烙印を押さえ、死に体も同然の扱いを受ける。武家に生きる者は、その手を汚さなければ高みを望めない。今後出世していきたければ、そのことは肝に銘じておけ」
 そもそも、武家が領民の上に立っているのは武器を持ち強い力を持っているからではない。武家が命を賭けて戦うことで領民の安心安全を保障する代わりに、領民が汗水垂らして得た作物や銭を対価として受領しているのだ。それを勘違いしている阿呆も少なからず居るが、血で汚れた手は武家が存在する意義の証であり代償でもあった。
 武家の生まれでない藤吉郎に、信長は武家の常識を伝えようとしていた。
 藤吉郎の器量は下っ端の足軽で収まるような男ではないというのが、信長の見立てだ。戦の道理や武士の仕来りを覚えれば、一軍を率いる将にまで上り詰められることだろう。但し、今のままでは難しい。信長が認めても他の者が絶対に認めないからだ。現に、皆が勇んで敵中へ突撃していく中、当の藤吉郎は躊躇してしまっている。その一事だけでも“臆病者”の謗りを受けるのだが、要するに藤吉郎は武家の者になりきれていないのだ。武家の価値観に囚われないのが藤吉郎の強みではあるが、この場合は無知こそ悪だった。
「猿、お主の股にぶらさげている物は何だ? 偽者か? 男なら腹を括れ」
 真面目な顔をした信長の口から猥雑な表現が飛び出すと、藤吉郎は思わず吹き出してしまった。馬廻衆の中でも懸命に笑いを堪えようとする者がちらほら見られる。
 くっくっくと噛み殺した笑いを溢すと、藤吉郎は迷いの晴れた顔で信長と正対した。
「分かりました。オイラなりにやってみます」
 そう言うと藤吉郎は長槍を構えて乱戦の中へ飛び込んでいった。駆けて行くその後ろ姿は貧相で頼りないが、やる気に満ち溢れているのは伝わってきた。
「……あの猿が、戦の役に立ちますでしょうか?」
 先程藤吉郎を咎めた者が訊ねると、信長は「ならぬな」とばっさり斬って捨てた。
「だが、今のあ奴に必要なのは功名ではなく場数を踏むことだ。その内、肝が太くなって皆が驚く程の手柄を立てるかも知れぬ。尤も、死なねばの話になるが」
 どれだけ期待しても、死んでしまえばそれまでだ。どんなに強い剛の者でも運が悪ければ呆気なく命を落とすのが戦場の慣わしだ。賽の目は思い通りになるが、人の運命だけはどうしようも出来ない。無論、俺自身も、だ。
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