9 / 11
三 : 大将首を挙げよ(2) - 決着
しおりを挟む
しとしとと降り頻る小雨に体を濡らしながら、信長は必死に勝機を見出そうと藻掻いていた。天の助けもあって奇襲は想定以上に嵌まったが、楽観視はしていない。時が経てば本隊襲撃の報を聞いた今川方の部隊が救援に駆けつけて来る。その前に何としてでも決着をつけなければならない。
大将は、義元は何処に居る。
聞いた話では、義元は公家のように薄化粧をしてお歯黒をつけているという。日頃は輿に乗って移動しているが、それは義元の足が短いために馬へ跨るのに難渋するから……という理由らしい。真偽は別として、噂通りの人物ならば、遠目からでもかなり目立つ。信長は戦場を隅から隅まで見回して、僅かな変化も逃さないよう目を凝らす。
小降りになっていた雨がまた強くなってきた。激しく打ち付ける雨も構わず、信長は戦渦の坩堝と化した桶狭間を懸命に探す。
―――その時だった。
幔幕の裏から人目を憚るように逃げる一団が目に留まった。両軍入り乱れる大混戦にありながら、身に纏う甲冑は交戦した痕跡が見られず、絶えず周囲の様子を気にしていた。加えて、相応の身分の武者達で固められているのも、何か引っかかる。
まるで……要人を警護しているみたいだ。
そして、人垣の隙間から覗いたのは―――煌びやかな当世具足に身を包んだ男が、用意された馬へ跨るのに難渋している様だった。
「あそこだ!!」
信長が反射的に叫ぶと、手にしていた刀の切っ先で一団の方角を指し示す。織田方の将兵が俄かに色めき立つ。
「あれこそ今川の総大将を守る一団に相違ない!! 功名の立て時は今ぞ!!」
信長渾身の音声に呼応した将兵達が、義元達と思しき一団に殺到していく。対する今川方も大将を討たせまいと応戦、両軍の思いが互いにぶつかり合ってたちまち大混戦となる。
「お前達も行け!」
「しかし……」
信長の身を守る馬廻衆に加勢するよう命じるが、本来の役目を放棄することに躊躇する馬廻衆達が戸惑いの反応を見せる。彼等は総大将の信長を守ることが最優先事項であり、もし万が一自分達が持ち場を離れて信長が討たれたら本末転倒だ。
だが、信長は困惑する馬廻衆に間髪入れず怒鳴りつけた。
「俺の身くらい俺自身で守れる!! 俺に構わず大将首を獲ってみせよ!!」
部下の懸念は百も承知していた。しかし、敗色濃厚な状況から転がり込んできた千載一遇の絶好機を死んでも離したくなかった。自らの身を危険に晒してでも、この場で決着をつけるべく虎の子の兵をつぎ込む決断を下したのだ。
只ならぬ勝利への執念に、馬廻衆達も従わざるを得なかった。
「……承知致しました!」
先ず数人が槍を手に駆けて行くと、それに続いて警護の任に就いていた馬廻衆達が混戦に飛び込んでいく。彼等は功名を求めて飢えた狼のように襲い掛かっていった。
それを見届けた信長は、残った数人の近習と共に高台から下りた。大将一人だけ高所から望んでいれば格好の的となるからだ。流れ矢に当たって命を落とすなんて無様な死に方はしたくない。
群がる雑兵に信長は刀を振るって応戦する。斬る、突く、撥ねる。返り血を浴びて甲冑が汚れても構うことなく、ただひたすら近寄る敵を倒していく。
「今川義元、討ち取ったりー!!」
誰かの叫びが、戦場の真っ只中で突如響いた。その声は、喧騒の坩堝にあった桶狭間を漣のように伝播していった。
織田方の将兵達は当初その声を耳にしても、その内容を理解出来なかった。しかし、時が経つにつれてその声の意味を分かると―――その場で歓喜の声を上げる者が続出した。言葉にならない声は天地を震撼させ、人々の心も揺り動かす程の衝撃だった。
そして、総大将である信長もまた『義元討ち取る』の声を聞いた瞬間、信じられないといった表情を浮かべた。
(……真、なのか?)
用心深い信長は、義元が討たれたとする情報を第一に疑った。しかし、偽りの情報を流して何の得があるのかと考え、虚報という線を消した。
それでも、疑念はまだ晴れない。
(義元本人が討たれたと決め付けるにはまだ早い。誰かが身代わり、または影武者を立てたということも有り得る)
懸命に冷静さを保つよう努め、歓喜に沸く周囲に流されないよう自らを戒める。
仮に義元を討ち漏らした場合、態勢を整え直した上で再度上洛すべく兵を興すだろう。今回不測の事態を招いたことも鑑みて、次は念を入れた陣容で尾張へ乗り込んでくる。そうなれば、地力で劣る織田方に勝機は無い。一旦脅威は去るが、待っているのは絶望だ。
周りでは雄叫びを挙げたり、腕を突き上げたりする者が多い中で、信長は最悪の事態が頭から離れず恐怖で体を震わせていた。
「殿」
不意に、背後から声を掛けられた。動揺する姿を他人に見せられないと信長は平静を装いながら振り返る。
そこに立っていたのは、長秀だった。
どうやら長秀は信長の変調に気が付いていない様子で、いつもと同じように落ち着いた口調で話し始めた。
「お待たせ致しました。首実検の支度が整いました」
首実検。あぁ、義元と思われる首か。一瞬何の事か分からなかったが、すぐに理解した。
「左様か。すぐに参る」
微かに声が上ずったが、長秀は何も言わず下がっていった。体の底から込み上げてくる震えを必死に堪えながら、信長は用意された場所へ向けて一歩を踏み出した。
桶狭間の一角に幔幕が張られ、急拵えの本陣が設けられていた。とは言え、桶狭間に滞陣している今川本陣を突くために行軍速度の遅い荷駄部隊は帯同しておらず、苦肉の策として今川方の物資を拝借して設えたのだが。
総大将の義元を討たれた今川方は、算を乱して駿河方面へ逃げたとする斥候の報告が上がっている。まだ大高城や鳴海城の周辺に今川の兵が残っているが、こちらへ向かう気配は見られない。結果、圧倒的劣勢に立たされていた織田方の奇蹟的な大勝利―――というのが大多数の評価だった。思いがけない勝利に織田方の多くの兵が余韻に浸っており、皆一様に明るい表情をしていた。
ただ一人、総大将である信長を除いて。
床机に腰を下ろした信長は固く目を瞑り、腕を組んだまま微動だにしない。
(喜ぶのはまだ早い。この目で義元の首を確かめるまで、俺は決して信じぬぞ)
険しい顔つきで一言も発さない総大将を、家臣達は戦勝気分で浮かれることなく冷静であろうと努める威厳に満ち溢れた御姿と勘違いしていた。家老格の柴田勝家や若手将校の佐々成政も信長の殊勝な姿勢に倣おうと表情を引き締めていた。
やがて……小姓が首台を捧げて進み出てきた。
首実検を執り行う際は様々な仕来りがあるが、合戦直後という事情もあり簡略化して行われている。信長も略式ながら作法に則り、首台に据えられた義元の首を見る。
刹那―――信長の眼が大きく見開かれた。
首台に据えられていた御首は、顔一面に白粉を塗られ、唇から覗く歯はお歯黒が染められていた。噂に聞いていた公家風の装いだったが、それより着目すべきなのは表情。
眉間に深い皺を刻み、口はへの字に曲がり、醜く歪んだ表情。
京を目指すと高らかに宣言して駿府を発った筈なのに、それがまさか取るに足らない尾張の小倅如きに不覚を取るとは。二度と動かないと分かっていても、その表情から悔しさや怒りが手に取るように伝わってきた。
ふと、義元の口の中に何か含まれているのに気付いた。信長が訊ねると、控えていた小姓が答えた。
「首を掻く際、指を噛み千切ったとのこと」
その言葉が事実だとすると、義元は今際の際まで生き延びようと足掻いたこととなる。信長が絶望的な状況を引っくり返そうと奔走したように、義元もまた同じように逆境を覆そうとしていたのだ。その凄まじい生の執着に、感じ取るものがあった。
仮に影武者であったならば、ぎりぎりまで抵抗した後に潔く討たれる場合が多い。主君の身代わりとなって死ぬことで自らの役目を完結するからだ。しかし、目の前に置かれている首の主は醜い姿を晒している。
従って、この首は総大将義元の首に間違いないという結論に達した。
死者に最大限の敬意を表すべく、信長は目を閉じて合掌する。
(……武士として、立派な最期だった)
心の中で語りかけると、合掌を解いてから小姓に告げた。
「義元の首級は首桶に入れ、丁重に保管しておくように」
目の前に運ばれてきた首級を、信長は初めて『義元の首級』と口にした。それ即ち、信長の中にあった疑いが晴れた証でもあった。
この時代、自軍の勝利を喧伝する目的で敵方の首級を人目に晒すことも多かったが、信長は丁重に扱うよう指示を出した。敗者に対して最大限の配慮を示したのだ。
控えていた小姓が「承知致しました」と答えると、首台を捧げて速やかに下がっていった。それと入れ替わるように、別の小姓が一人の武者を伴って現れた。
「殿、義元を討ち取った毛利新介殿をお連れ致しました」
毛利新介は信長の馬廻衆の一人で、信長も見知っている人物だった。才気溢れるとは言い難いが、忠義心が強く与えられた職務をひたむきに取り組む印象があった。よく見れば、左の薬指の先端に包帯が巻かれている。
その新介が片膝を付いて頭を垂れると、義元の首級を挙げた時の状況を語り始めた。
「朋輩の服部小平太が敵将義元へ一番槍を付けましたが、反撃され膝を斬られました。そこへ某が義元の脇へ槍を突き、崩れた所を馬乗りになり首級を挙げました」
大将首を獲たにも関わらず、落ち着いた口調で説明する新介。興奮で舞い上がったり武功を誇るために話を盛ったりする者も少なくないが、新介はありのままの事実を述べていると信長は感じた。
信長は二つ三つと頷くと、膝を付いて新介の肩に手を置いた。
「此度の働き、真に見事であった」
主君からお褒めの言葉を掛けられた新介は深く頭を下げた。その頬は僅かに赤みが差していた。
それから信長は立ち上がると、傍らに控えていた小姓に声を掛けた。
「政綱を呼べ」
信長の思いがけない発言に、その場に居合わせた全員がきょとんとした顔を浮かべた。てっきりこのまま論功行賞へ移るとばかり思っていたので、信長の意図が呑み込めていなかった。大将首を挙げた新介こそ武功第一に相応しく、その人物を差し置いて目立った活躍をしていない政綱をこの場に呼ぶ理由が分からなかった。
それでも主命に抗うことは許されず、小姓が一旦下がっていく。暫くして先程の小姓に伴われて政綱が姿を現した。
「お呼びでしょうか……?」
おどおどと訊ねる政綱。当人も呼び出しを受けたことに困惑している様子だった。
既に『毛利新介が左の薬指の先端を噛み千切られながらも義元の首級を獲った』という噂は味方中に広まっており、政綱の耳にも届いていた。主君の面前で噂の当事者と並ぶこととなった政綱だが、何故自分が呼ばれたのか思い当たる節は全く無かった。
そんな政綱とは対照的に、満足気な笑みを浮かべた信長が声を掛けてきた。
「政綱。先に申した通り、此度の武功第一はお主だ」
事情を知らない小姓が驚愕の表情を見せる中、信長は高らかに告げた。
「お主には知行三千貫文を授ける。仔細は追って申し付ける。これからも励め」
今度は政綱も驚きで目を剥いた。『今川本隊が桶狭間で休止している』と知らせただけで六千石相当の知行が与えられるなんて。それも直接刃を交えた末に義元の首級を獲た新介より先に、だ。破格の扱いと言って良い。
その後、新介には感状と幾許の金がその場で信長の手ずから与えられた。一番槍をつけて負傷した服部小平太も同等の扱いだった。首級を挙げた者及び一番槍をつけた者が武功第一と考えられていた当時の常識に照らせば、信長の仕置は明らかに常軌を逸していた。
大半の者が新介こそ武功第一と思っていたが、信長だけは違っていた。
(政綱があの時あの報せを届けてくれたからこそ、迅速に桶狭間まで向かえ、その結果万に一つの勝ちを拾えたのだ。大将首を獲たのは新介だが、新介一人の働きで勝利に導いた訳ではない。よって、新介の働きより政綱の働きの方が価値がある)
信長は論功行賞において首級や一番槍だけでなく、勝利に大きく寄与する情報や工作をもたらした者も評価することを示したのだ。これにより、腕っ節に自信の無い者でも登用される道が開けたこととなる。例えば……藤吉郎とか。
(……それに、此度の戦では新たな領地を得ておらぬからな)
発端となったのは今川による尾張侵攻、つまり織田方からすれば防衛戦だ。敵の領地を攻める時とは異なり、勝っても領地が増える訳ではない。一方で、精一杯働いてくれた家臣達には働きに応じて褒美を出さなければならない。そうなれば直轄領を割くか、金蔵を開けるしかない。それに加えて、戦死者や重傷者には見舞金を払わなければならないし、消費した矢や秣の補充もしなければならない。どちらにしても金が掛かる。
今川方の総大将を討ち取る戦果は抜群だが、一方で出費が嵩むのは頭が痛い所だ。
政綱の知行地が決まっていないのも、新介の対価が吝いのも、そうした背景がある為だ。信長としてももう少し報いてあげたい気持ちはあるが、青天井とはいかない。
その後も首実検は続いたが、合戦前に信長が『義元の首以外は打ち捨てよ』と命じた手前もあり、感状を下したりお褒めの言葉を掛けるだけに留まった者が大勢を占めることとなった。
大将は、義元は何処に居る。
聞いた話では、義元は公家のように薄化粧をしてお歯黒をつけているという。日頃は輿に乗って移動しているが、それは義元の足が短いために馬へ跨るのに難渋するから……という理由らしい。真偽は別として、噂通りの人物ならば、遠目からでもかなり目立つ。信長は戦場を隅から隅まで見回して、僅かな変化も逃さないよう目を凝らす。
小降りになっていた雨がまた強くなってきた。激しく打ち付ける雨も構わず、信長は戦渦の坩堝と化した桶狭間を懸命に探す。
―――その時だった。
幔幕の裏から人目を憚るように逃げる一団が目に留まった。両軍入り乱れる大混戦にありながら、身に纏う甲冑は交戦した痕跡が見られず、絶えず周囲の様子を気にしていた。加えて、相応の身分の武者達で固められているのも、何か引っかかる。
まるで……要人を警護しているみたいだ。
そして、人垣の隙間から覗いたのは―――煌びやかな当世具足に身を包んだ男が、用意された馬へ跨るのに難渋している様だった。
「あそこだ!!」
信長が反射的に叫ぶと、手にしていた刀の切っ先で一団の方角を指し示す。織田方の将兵が俄かに色めき立つ。
「あれこそ今川の総大将を守る一団に相違ない!! 功名の立て時は今ぞ!!」
信長渾身の音声に呼応した将兵達が、義元達と思しき一団に殺到していく。対する今川方も大将を討たせまいと応戦、両軍の思いが互いにぶつかり合ってたちまち大混戦となる。
「お前達も行け!」
「しかし……」
信長の身を守る馬廻衆に加勢するよう命じるが、本来の役目を放棄することに躊躇する馬廻衆達が戸惑いの反応を見せる。彼等は総大将の信長を守ることが最優先事項であり、もし万が一自分達が持ち場を離れて信長が討たれたら本末転倒だ。
だが、信長は困惑する馬廻衆に間髪入れず怒鳴りつけた。
「俺の身くらい俺自身で守れる!! 俺に構わず大将首を獲ってみせよ!!」
部下の懸念は百も承知していた。しかし、敗色濃厚な状況から転がり込んできた千載一遇の絶好機を死んでも離したくなかった。自らの身を危険に晒してでも、この場で決着をつけるべく虎の子の兵をつぎ込む決断を下したのだ。
只ならぬ勝利への執念に、馬廻衆達も従わざるを得なかった。
「……承知致しました!」
先ず数人が槍を手に駆けて行くと、それに続いて警護の任に就いていた馬廻衆達が混戦に飛び込んでいく。彼等は功名を求めて飢えた狼のように襲い掛かっていった。
それを見届けた信長は、残った数人の近習と共に高台から下りた。大将一人だけ高所から望んでいれば格好の的となるからだ。流れ矢に当たって命を落とすなんて無様な死に方はしたくない。
群がる雑兵に信長は刀を振るって応戦する。斬る、突く、撥ねる。返り血を浴びて甲冑が汚れても構うことなく、ただひたすら近寄る敵を倒していく。
「今川義元、討ち取ったりー!!」
誰かの叫びが、戦場の真っ只中で突如響いた。その声は、喧騒の坩堝にあった桶狭間を漣のように伝播していった。
織田方の将兵達は当初その声を耳にしても、その内容を理解出来なかった。しかし、時が経つにつれてその声の意味を分かると―――その場で歓喜の声を上げる者が続出した。言葉にならない声は天地を震撼させ、人々の心も揺り動かす程の衝撃だった。
そして、総大将である信長もまた『義元討ち取る』の声を聞いた瞬間、信じられないといった表情を浮かべた。
(……真、なのか?)
用心深い信長は、義元が討たれたとする情報を第一に疑った。しかし、偽りの情報を流して何の得があるのかと考え、虚報という線を消した。
それでも、疑念はまだ晴れない。
(義元本人が討たれたと決め付けるにはまだ早い。誰かが身代わり、または影武者を立てたということも有り得る)
懸命に冷静さを保つよう努め、歓喜に沸く周囲に流されないよう自らを戒める。
仮に義元を討ち漏らした場合、態勢を整え直した上で再度上洛すべく兵を興すだろう。今回不測の事態を招いたことも鑑みて、次は念を入れた陣容で尾張へ乗り込んでくる。そうなれば、地力で劣る織田方に勝機は無い。一旦脅威は去るが、待っているのは絶望だ。
周りでは雄叫びを挙げたり、腕を突き上げたりする者が多い中で、信長は最悪の事態が頭から離れず恐怖で体を震わせていた。
「殿」
不意に、背後から声を掛けられた。動揺する姿を他人に見せられないと信長は平静を装いながら振り返る。
そこに立っていたのは、長秀だった。
どうやら長秀は信長の変調に気が付いていない様子で、いつもと同じように落ち着いた口調で話し始めた。
「お待たせ致しました。首実検の支度が整いました」
首実検。あぁ、義元と思われる首か。一瞬何の事か分からなかったが、すぐに理解した。
「左様か。すぐに参る」
微かに声が上ずったが、長秀は何も言わず下がっていった。体の底から込み上げてくる震えを必死に堪えながら、信長は用意された場所へ向けて一歩を踏み出した。
桶狭間の一角に幔幕が張られ、急拵えの本陣が設けられていた。とは言え、桶狭間に滞陣している今川本陣を突くために行軍速度の遅い荷駄部隊は帯同しておらず、苦肉の策として今川方の物資を拝借して設えたのだが。
総大将の義元を討たれた今川方は、算を乱して駿河方面へ逃げたとする斥候の報告が上がっている。まだ大高城や鳴海城の周辺に今川の兵が残っているが、こちらへ向かう気配は見られない。結果、圧倒的劣勢に立たされていた織田方の奇蹟的な大勝利―――というのが大多数の評価だった。思いがけない勝利に織田方の多くの兵が余韻に浸っており、皆一様に明るい表情をしていた。
ただ一人、総大将である信長を除いて。
床机に腰を下ろした信長は固く目を瞑り、腕を組んだまま微動だにしない。
(喜ぶのはまだ早い。この目で義元の首を確かめるまで、俺は決して信じぬぞ)
険しい顔つきで一言も発さない総大将を、家臣達は戦勝気分で浮かれることなく冷静であろうと努める威厳に満ち溢れた御姿と勘違いしていた。家老格の柴田勝家や若手将校の佐々成政も信長の殊勝な姿勢に倣おうと表情を引き締めていた。
やがて……小姓が首台を捧げて進み出てきた。
首実検を執り行う際は様々な仕来りがあるが、合戦直後という事情もあり簡略化して行われている。信長も略式ながら作法に則り、首台に据えられた義元の首を見る。
刹那―――信長の眼が大きく見開かれた。
首台に据えられていた御首は、顔一面に白粉を塗られ、唇から覗く歯はお歯黒が染められていた。噂に聞いていた公家風の装いだったが、それより着目すべきなのは表情。
眉間に深い皺を刻み、口はへの字に曲がり、醜く歪んだ表情。
京を目指すと高らかに宣言して駿府を発った筈なのに、それがまさか取るに足らない尾張の小倅如きに不覚を取るとは。二度と動かないと分かっていても、その表情から悔しさや怒りが手に取るように伝わってきた。
ふと、義元の口の中に何か含まれているのに気付いた。信長が訊ねると、控えていた小姓が答えた。
「首を掻く際、指を噛み千切ったとのこと」
その言葉が事実だとすると、義元は今際の際まで生き延びようと足掻いたこととなる。信長が絶望的な状況を引っくり返そうと奔走したように、義元もまた同じように逆境を覆そうとしていたのだ。その凄まじい生の執着に、感じ取るものがあった。
仮に影武者であったならば、ぎりぎりまで抵抗した後に潔く討たれる場合が多い。主君の身代わりとなって死ぬことで自らの役目を完結するからだ。しかし、目の前に置かれている首の主は醜い姿を晒している。
従って、この首は総大将義元の首に間違いないという結論に達した。
死者に最大限の敬意を表すべく、信長は目を閉じて合掌する。
(……武士として、立派な最期だった)
心の中で語りかけると、合掌を解いてから小姓に告げた。
「義元の首級は首桶に入れ、丁重に保管しておくように」
目の前に運ばれてきた首級を、信長は初めて『義元の首級』と口にした。それ即ち、信長の中にあった疑いが晴れた証でもあった。
この時代、自軍の勝利を喧伝する目的で敵方の首級を人目に晒すことも多かったが、信長は丁重に扱うよう指示を出した。敗者に対して最大限の配慮を示したのだ。
控えていた小姓が「承知致しました」と答えると、首台を捧げて速やかに下がっていった。それと入れ替わるように、別の小姓が一人の武者を伴って現れた。
「殿、義元を討ち取った毛利新介殿をお連れ致しました」
毛利新介は信長の馬廻衆の一人で、信長も見知っている人物だった。才気溢れるとは言い難いが、忠義心が強く与えられた職務をひたむきに取り組む印象があった。よく見れば、左の薬指の先端に包帯が巻かれている。
その新介が片膝を付いて頭を垂れると、義元の首級を挙げた時の状況を語り始めた。
「朋輩の服部小平太が敵将義元へ一番槍を付けましたが、反撃され膝を斬られました。そこへ某が義元の脇へ槍を突き、崩れた所を馬乗りになり首級を挙げました」
大将首を獲たにも関わらず、落ち着いた口調で説明する新介。興奮で舞い上がったり武功を誇るために話を盛ったりする者も少なくないが、新介はありのままの事実を述べていると信長は感じた。
信長は二つ三つと頷くと、膝を付いて新介の肩に手を置いた。
「此度の働き、真に見事であった」
主君からお褒めの言葉を掛けられた新介は深く頭を下げた。その頬は僅かに赤みが差していた。
それから信長は立ち上がると、傍らに控えていた小姓に声を掛けた。
「政綱を呼べ」
信長の思いがけない発言に、その場に居合わせた全員がきょとんとした顔を浮かべた。てっきりこのまま論功行賞へ移るとばかり思っていたので、信長の意図が呑み込めていなかった。大将首を挙げた新介こそ武功第一に相応しく、その人物を差し置いて目立った活躍をしていない政綱をこの場に呼ぶ理由が分からなかった。
それでも主命に抗うことは許されず、小姓が一旦下がっていく。暫くして先程の小姓に伴われて政綱が姿を現した。
「お呼びでしょうか……?」
おどおどと訊ねる政綱。当人も呼び出しを受けたことに困惑している様子だった。
既に『毛利新介が左の薬指の先端を噛み千切られながらも義元の首級を獲った』という噂は味方中に広まっており、政綱の耳にも届いていた。主君の面前で噂の当事者と並ぶこととなった政綱だが、何故自分が呼ばれたのか思い当たる節は全く無かった。
そんな政綱とは対照的に、満足気な笑みを浮かべた信長が声を掛けてきた。
「政綱。先に申した通り、此度の武功第一はお主だ」
事情を知らない小姓が驚愕の表情を見せる中、信長は高らかに告げた。
「お主には知行三千貫文を授ける。仔細は追って申し付ける。これからも励め」
今度は政綱も驚きで目を剥いた。『今川本隊が桶狭間で休止している』と知らせただけで六千石相当の知行が与えられるなんて。それも直接刃を交えた末に義元の首級を獲た新介より先に、だ。破格の扱いと言って良い。
その後、新介には感状と幾許の金がその場で信長の手ずから与えられた。一番槍をつけて負傷した服部小平太も同等の扱いだった。首級を挙げた者及び一番槍をつけた者が武功第一と考えられていた当時の常識に照らせば、信長の仕置は明らかに常軌を逸していた。
大半の者が新介こそ武功第一と思っていたが、信長だけは違っていた。
(政綱があの時あの報せを届けてくれたからこそ、迅速に桶狭間まで向かえ、その結果万に一つの勝ちを拾えたのだ。大将首を獲たのは新介だが、新介一人の働きで勝利に導いた訳ではない。よって、新介の働きより政綱の働きの方が価値がある)
信長は論功行賞において首級や一番槍だけでなく、勝利に大きく寄与する情報や工作をもたらした者も評価することを示したのだ。これにより、腕っ節に自信の無い者でも登用される道が開けたこととなる。例えば……藤吉郎とか。
(……それに、此度の戦では新たな領地を得ておらぬからな)
発端となったのは今川による尾張侵攻、つまり織田方からすれば防衛戦だ。敵の領地を攻める時とは異なり、勝っても領地が増える訳ではない。一方で、精一杯働いてくれた家臣達には働きに応じて褒美を出さなければならない。そうなれば直轄領を割くか、金蔵を開けるしかない。それに加えて、戦死者や重傷者には見舞金を払わなければならないし、消費した矢や秣の補充もしなければならない。どちらにしても金が掛かる。
今川方の総大将を討ち取る戦果は抜群だが、一方で出費が嵩むのは頭が痛い所だ。
政綱の知行地が決まっていないのも、新介の対価が吝いのも、そうした背景がある為だ。信長としてももう少し報いてあげたい気持ちはあるが、青天井とはいかない。
その後も首実検は続いたが、合戦前に信長が『義元の首以外は打ち捨てよ』と命じた手前もあり、感状を下したりお褒めの言葉を掛けるだけに留まった者が大勢を占めることとなった。
0
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる