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三 : 萌芽 - (21) 初の総大将
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「岩村城を落とせ」
天正三年六月。父から呼び出しを受けた信忠は、開口一番にそう告げられた。
岩村城は元亀三年十一月に武田信玄の西上作戦の際に武田方に落ちた城で、現在は“武田の猛牛”の異名を持つ猛将・秋山虎繁が城主を務めている。城自体が標高の高い山に築かれており、守りの堅い城であった。
先日の設楽原の敗戦で、武田家は多くの将兵を失っている。今の武田家は援軍を出せる状態ではなく、体制の再整備が急がれた。織田家とすれば、武田家に奪われた岩村城を取り返す絶好の機会だ。
この話を父から聞いた時、信忠はまた後詰かな? と思った。まだ実戦経験も浅く、虎繁が籠もる岩村城を落とすには流石に荷が重いと考えていた。
しかし――。
「与四郎と新五郎には話を通してある。分からない事があったら二人に聞け。大将はお前だ」
父の口から飛び出した内容に、信忠は思わず目を剥いた。
「……お待ち下さい! 私が総大将とは、まだ早くないですか!?」
反射的に抗議の声を上げる信忠。初陣以降、何度か一軍の将を務めた経験はあるが、総大将は全く無い。おまけに、大将とは名ばかりのお飾りで、自らの采配で軍を動かした事は皆無だ。仮に相手が取るに足らない地侍の城を攻めるならまだ何とかなるが、虎繁は信玄の薫陶を受けた歴戦の猛者。青二才の信忠が太刀打ち出来るような敵ではない。
すると、父は事も無げに言ってのけた。
「早いという訳でもなかろう。オレが十九の頃は軍勢を率いて戦に出ておったわ」
信長は天文十六年に十四歳で初陣を果たし、十九歳の時に父・信秀が亡くなってからは今川家や家督を巡る争いに奔走していた。まだ弾正忠家の規模はそれ程まで大きくなく、戦となれば家臣に全てお任せという訳にもいかなかった。一概に比較は出来ないが、信忠の年代なら一軍を率いて戦に臨む事も決して珍しくない。
「それに……何も“無理攻めしてでも絶対に落とせ!”と言っている訳ではない」
その言葉に、ピクリと反応する信忠。
城を落とせと言われ、信忠がまず思い浮かんだのが力攻めだった。しかし、岩村城は守りの堅い城。力づくで落とそうとすれば損害を出すのは必至だ。経験豊富な将なら引き出しが幾つもあろうが、城攻め自体が初めての信忠にそれは無い。だからこそ信忠は荷が重いを感じたのだ。
しかし、今の父の口振りだと信忠が考えていることが分かっているような感じだ。
信忠の雰囲気が変わったのを察した父は、さらに言葉を重ねる。
「先の戦で武田は多くの将兵を失った。暫くは軍事面で動くのは難しいだろう。救援が望めない今なら、時間を掛けて攻めるゆとりがある」
父からそう言われ、信忠も何となく方向性が見えてきた。
城攻めは、単純に攻めるだけではない。何重にも包囲して相手が降参するのを待つのも一つの手だ。持久戦は時間だけでなく、囲んでいる間に将兵へ支給する兵糧などで意外とお金が掛かる。補給面の負担が重く圧し掛かり、包囲を解いて引き揚げる……なんて事も戦国の世では珍しくない。実際に、野戦で圧倒的に強かった武田信玄や上杉謙信が北条家を攻めた際、惣構えの堅城で知られる小田原城を数万の兵で何ヶ月も包囲したが、最終的には根負けして撤退している。
ただ、武田家は設楽原で歴史的大敗を喫し、再建の真っ只中。他国へ兵を送る余裕は全く無い。加えて、織田家は資金力もあり補給に困る状況ではない。ゆっくりと時間を掛けられる材料が揃っていた。
そう考えたら、不思議と「自分でも出来るのでは?」と思えてきた。表情が幾分和らいだ信忠へ、父ははっきりと告げた。
「先にも言ったが、与四郎と新五郎を付ける。あの二人の話をよく聞き、間違った判断をしなければきっと勝てる筈だ」
尾張・美濃の兵三万を率いて岐阜城を発った信忠は、六月十三日に岩村城を包囲した。岩村城には秋山虎繁以下三千の兵が籠もっており、力攻めで落とそうとすれば損害が出るのは目に見えていた。
「兵糧攻めにする」
軍議の場で、総大将の席に座る信忠が陣卓子を囲む面々に宣言した。
「……敵は三千、対する我等は三万。一気呵成に攻めないのですか?」
発言したのは、森長可。今回の戦でも帯同しており、力押しで攻めるつもりだったようだ。
長可の他にも、犠牲を覚悟で力攻めすべきと考えていそうな者が何人か見られた。信忠を批判する訳ではないが、数的優位があるのにどうして消極的な策を採るのかといった感じである。
そう考える気持ちは分かる。信忠自身も最初は力攻めしか浮かばなかった。だからこそ、皆に納得してもらいたいと思っていた。
「相手は“武田の猛牛”の異名を持つ秋山虎繁だ。百戦錬磨の手練れに真っ向から勝負を挑んで、損害を増やすのは得策ではないと考えている。そんな事になれば、上様の心象も悪くなるだろう」
信忠が敢えて“上様”と言及したことにより、懐疑的な反応を見せていた面々の表情が変わる。父の存在を匂わせるのは卑怯かも知れないが、効果は覿面だった。さらに信忠は続ける。
「それに、一刻も早く落とさねばならない切迫した状況でもあるまい。手柄を早く欲して損害が大きくなれば元も子もない。ここは手堅くいこうではないか」
「しかし、我等が岩村城を囲んでいる間に近隣の武田方の城から救援の兵が来る事も考えられますぞ」
長可が新たな懸念を口にすると、横から割って入る声があった。
「その点については、問題ありません」
信忠に次ぐ席に座る斎藤利治が、穏やかな表情ではっきりと言い切った。
「元亀三年、そして昨年と、二度の侵攻で武田方に降った国人衆ですが、先月の設楽原の結果にかなり動揺しております。武田家への忠義を貫く者も居る一方で、我等に誼を通じる者も少なからず出てきております。一致して向かって来るなら脅威になりましょうが、武田本家が救援に来れない現状では様子見すると考えていいでしょう」
利治の言葉に、真向かいに座る河尻秀隆も大きく頷く。信忠の副将二人の態度に、皆も納得しつつある。
満座を見渡して異論が出ないのを確かめた信忠は、再び口を開いた。
「基本は兵糧攻めだが、城方が打って出てきたら話は別だ。一気に城へ押し入り、制圧する。……それでいいな?」
「ははっ!!」
全員が揃って頭を下げる。信忠の策は無事に受け容れられたみたいだ。
内心ホッとしている信忠は噯にも出さず、引き締まった表情で告げた。
「岩村城を蟻の這い出る隙間も無い程に、厳重に囲め。また、兵糧が入らぬよう、抜け道がないか隈なく探すように」
そう言い残すと、信忠は席を立った。総大将はここまで気を配らないとならないのか、と大変さを身を以て感じた。
後年“第二次岩村城の戦い”と呼ばれる戦は、持久戦という形で幕を開けた。これが信忠にとって人生初の総大将としての戦となるが、やっている事は今までとあまり変わらなかったので、少しだけ気が楽だった。
天正三年七月。設楽原の戦いで武田家に勝利した信長に正親町天皇は懐柔すべく官位を授けようとしたが、信長は固辞。代わりに、自らの家臣へ官位や姓を授けるよう申し入れ、帝もこれを受け容れた。明智光秀には“惟任”“日向守”、丹羽長秀に“惟住”(これに対して長秀は「生涯“五郎左”で結構」と一度断っている)、羽柴秀吉に“筑前守”。さらに重臣だけでなく簗田広正(桶狭間の戦いの折、今川義元が桶狭間で休止している旨を伝えた簗田“出羽守”政綱の子)に“別喜”“右近大夫”、塙直政に“原田”“備中守”、さらに文官として織田家を支える松井友閑に“宮内卿法印”、武井夕庵に“二位法印”が与えられ、多くの家臣に箔が付けられた形だ。
長年の脅威だった武田家を討ち破って余裕の生まれた信長は、後回しにしていた越前一向一揆討伐に乗り出した。
朝倉家滅亡後の統治に躓き、地侍と百姓の蜂起で“百姓の持ちたる国”になってしまった越前。民達の生活は楽になる……そんな幻想は長く続かなかった。
織田の息が掛かった者達を追い払った後に待っていたのは、石山本願寺から派遣された坊官達による支配だった。この坊官達は自らの私利私欲を満たす為に“織田家へ備える”名目で以前より重い税を民達から取り立てた。『結局は頭が変わっただけで、圧政は継続している』と反発した百姓達や地侍達が、今度は坊官を相手に一揆を起こす事態に発展した。
これに対し、伊勢長島の一向一揆や武田家の侵攻など優先すべき事もあり、越前へ兵を送る余裕の無かった織田家。この一年間の間に伊勢長島を平定し、長年の憂慮だった武田家も五月に設楽原で完勝し、ようやく越前を取り戻す環境が整ったのだ。
天正三年八月十二日。岐阜を出発した信長は、翌十三日に小谷城へ入り、そこで兵糧を配った。さらに十四日には敦賀城に入り、翌十五日に三万余りの軍勢で本格的な侵攻を開始した。今回の戦には佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・荒木村重といった家老級の面々や、尾張・美濃・伊勢や畿内の武将、さらに馬廻出身の若手武将も顔を揃えた。
若狭など日本海に面する国々の水軍による海からの側面攻撃も含めて幾つかの方面から攻撃を開始した織田勢は、快進撃を続けた。一向一揆側も抵抗の姿勢を見せたが、結束に欠けたが為に内応や寝返りが相次いだ。南から北上し、十八日までに内陸部の大野郡も掌握、内部崩壊もあり短期間の内に越前全土に広がった一揆の鎮圧に成功した。本願寺から派遣された坊官は殺されたり隣国の加賀へ逃れたりし、散り散りになった。それでも信長は追及の手を緩めず「山林くまなく探し、男女問わず斬り捨てよ」と厳命した。伊勢長島と同様に、“女子どもであろうと刃を向ける恐れがある”として撫で斬りにする構えだった。この苛烈な命令で犠牲になった人数は二万人を超えるとされ、三万から四万の人々が奴隷として各地へ送られたとされる。戦後処理の観点から乱妨取りを固く禁じていた織田家では異例の対応で、それだけ信長の恨みが深い裏返しとも言える。
九月、信長は今回の越前一向一揆鎮圧戦の論功行賞を行い、これまでの働きを含めて多大な貢献があったとして柴田勝家に越前八郡七十五万石が与えられた。他の重臣達が次々と国持ち大名になる中で蚊帳の外だった柴田勝家は、今回の差配で一躍織田家臣団の中で一番の版図を持った。また、府中十万石は不破光治・前田利家・佐々成政の三人へ均等に与えられ、勝家の補佐と目付の役割を与えた。この三人は後に“府中三人衆”と呼ばれ、勝家を支えていく事となる。さらに、大野三万石は金森長近、二万石は原長頼に与えられ、この両名も勝家の寄騎に組み入れられた。
この他にも、信長は勝家へ越前国掟九ヵ条を授け、越前を治める上での決まり事や方針を遵守するよう厳命した。朝倉家を滅ぼした後の統治に失敗して領土を失った経緯があったことから、再び同じ愚を犯さない為にも慎重になっていた。
越前の一向一揆を鎮圧した事で、織田家と対立関係にある石山本願寺にも少なからず打撃を与えた。織田家の失政で不平不満が高まった百姓や地侍を扇動して転覆させる事に成功したものの、派遣した坊官のせいで一揆勢の信頼を失ってしまった。本願寺もこの失敗からの立て直しが急務となった。
抵抗勢力を一つ片付けた事で、織田家の勢力圏は北陸まで拡がった。天下布武の実現に向け、信長は着実に階段を一つ上った形だ。
天正三年六月。父から呼び出しを受けた信忠は、開口一番にそう告げられた。
岩村城は元亀三年十一月に武田信玄の西上作戦の際に武田方に落ちた城で、現在は“武田の猛牛”の異名を持つ猛将・秋山虎繁が城主を務めている。城自体が標高の高い山に築かれており、守りの堅い城であった。
先日の設楽原の敗戦で、武田家は多くの将兵を失っている。今の武田家は援軍を出せる状態ではなく、体制の再整備が急がれた。織田家とすれば、武田家に奪われた岩村城を取り返す絶好の機会だ。
この話を父から聞いた時、信忠はまた後詰かな? と思った。まだ実戦経験も浅く、虎繁が籠もる岩村城を落とすには流石に荷が重いと考えていた。
しかし――。
「与四郎と新五郎には話を通してある。分からない事があったら二人に聞け。大将はお前だ」
父の口から飛び出した内容に、信忠は思わず目を剥いた。
「……お待ち下さい! 私が総大将とは、まだ早くないですか!?」
反射的に抗議の声を上げる信忠。初陣以降、何度か一軍の将を務めた経験はあるが、総大将は全く無い。おまけに、大将とは名ばかりのお飾りで、自らの采配で軍を動かした事は皆無だ。仮に相手が取るに足らない地侍の城を攻めるならまだ何とかなるが、虎繁は信玄の薫陶を受けた歴戦の猛者。青二才の信忠が太刀打ち出来るような敵ではない。
すると、父は事も無げに言ってのけた。
「早いという訳でもなかろう。オレが十九の頃は軍勢を率いて戦に出ておったわ」
信長は天文十六年に十四歳で初陣を果たし、十九歳の時に父・信秀が亡くなってからは今川家や家督を巡る争いに奔走していた。まだ弾正忠家の規模はそれ程まで大きくなく、戦となれば家臣に全てお任せという訳にもいかなかった。一概に比較は出来ないが、信忠の年代なら一軍を率いて戦に臨む事も決して珍しくない。
「それに……何も“無理攻めしてでも絶対に落とせ!”と言っている訳ではない」
その言葉に、ピクリと反応する信忠。
城を落とせと言われ、信忠がまず思い浮かんだのが力攻めだった。しかし、岩村城は守りの堅い城。力づくで落とそうとすれば損害を出すのは必至だ。経験豊富な将なら引き出しが幾つもあろうが、城攻め自体が初めての信忠にそれは無い。だからこそ信忠は荷が重いを感じたのだ。
しかし、今の父の口振りだと信忠が考えていることが分かっているような感じだ。
信忠の雰囲気が変わったのを察した父は、さらに言葉を重ねる。
「先の戦で武田は多くの将兵を失った。暫くは軍事面で動くのは難しいだろう。救援が望めない今なら、時間を掛けて攻めるゆとりがある」
父からそう言われ、信忠も何となく方向性が見えてきた。
城攻めは、単純に攻めるだけではない。何重にも包囲して相手が降参するのを待つのも一つの手だ。持久戦は時間だけでなく、囲んでいる間に将兵へ支給する兵糧などで意外とお金が掛かる。補給面の負担が重く圧し掛かり、包囲を解いて引き揚げる……なんて事も戦国の世では珍しくない。実際に、野戦で圧倒的に強かった武田信玄や上杉謙信が北条家を攻めた際、惣構えの堅城で知られる小田原城を数万の兵で何ヶ月も包囲したが、最終的には根負けして撤退している。
ただ、武田家は設楽原で歴史的大敗を喫し、再建の真っ只中。他国へ兵を送る余裕は全く無い。加えて、織田家は資金力もあり補給に困る状況ではない。ゆっくりと時間を掛けられる材料が揃っていた。
そう考えたら、不思議と「自分でも出来るのでは?」と思えてきた。表情が幾分和らいだ信忠へ、父ははっきりと告げた。
「先にも言ったが、与四郎と新五郎を付ける。あの二人の話をよく聞き、間違った判断をしなければきっと勝てる筈だ」
尾張・美濃の兵三万を率いて岐阜城を発った信忠は、六月十三日に岩村城を包囲した。岩村城には秋山虎繁以下三千の兵が籠もっており、力攻めで落とそうとすれば損害が出るのは目に見えていた。
「兵糧攻めにする」
軍議の場で、総大将の席に座る信忠が陣卓子を囲む面々に宣言した。
「……敵は三千、対する我等は三万。一気呵成に攻めないのですか?」
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長可の他にも、犠牲を覚悟で力攻めすべきと考えていそうな者が何人か見られた。信忠を批判する訳ではないが、数的優位があるのにどうして消極的な策を採るのかといった感じである。
そう考える気持ちは分かる。信忠自身も最初は力攻めしか浮かばなかった。だからこそ、皆に納得してもらいたいと思っていた。
「相手は“武田の猛牛”の異名を持つ秋山虎繁だ。百戦錬磨の手練れに真っ向から勝負を挑んで、損害を増やすのは得策ではないと考えている。そんな事になれば、上様の心象も悪くなるだろう」
信忠が敢えて“上様”と言及したことにより、懐疑的な反応を見せていた面々の表情が変わる。父の存在を匂わせるのは卑怯かも知れないが、効果は覿面だった。さらに信忠は続ける。
「それに、一刻も早く落とさねばならない切迫した状況でもあるまい。手柄を早く欲して損害が大きくなれば元も子もない。ここは手堅くいこうではないか」
「しかし、我等が岩村城を囲んでいる間に近隣の武田方の城から救援の兵が来る事も考えられますぞ」
長可が新たな懸念を口にすると、横から割って入る声があった。
「その点については、問題ありません」
信忠に次ぐ席に座る斎藤利治が、穏やかな表情ではっきりと言い切った。
「元亀三年、そして昨年と、二度の侵攻で武田方に降った国人衆ですが、先月の設楽原の結果にかなり動揺しております。武田家への忠義を貫く者も居る一方で、我等に誼を通じる者も少なからず出てきております。一致して向かって来るなら脅威になりましょうが、武田本家が救援に来れない現状では様子見すると考えていいでしょう」
利治の言葉に、真向かいに座る河尻秀隆も大きく頷く。信忠の副将二人の態度に、皆も納得しつつある。
満座を見渡して異論が出ないのを確かめた信忠は、再び口を開いた。
「基本は兵糧攻めだが、城方が打って出てきたら話は別だ。一気に城へ押し入り、制圧する。……それでいいな?」
「ははっ!!」
全員が揃って頭を下げる。信忠の策は無事に受け容れられたみたいだ。
内心ホッとしている信忠は噯にも出さず、引き締まった表情で告げた。
「岩村城を蟻の這い出る隙間も無い程に、厳重に囲め。また、兵糧が入らぬよう、抜け道がないか隈なく探すように」
そう言い残すと、信忠は席を立った。総大将はここまで気を配らないとならないのか、と大変さを身を以て感じた。
後年“第二次岩村城の戦い”と呼ばれる戦は、持久戦という形で幕を開けた。これが信忠にとって人生初の総大将としての戦となるが、やっている事は今までとあまり変わらなかったので、少しだけ気が楽だった。
天正三年七月。設楽原の戦いで武田家に勝利した信長に正親町天皇は懐柔すべく官位を授けようとしたが、信長は固辞。代わりに、自らの家臣へ官位や姓を授けるよう申し入れ、帝もこれを受け容れた。明智光秀には“惟任”“日向守”、丹羽長秀に“惟住”(これに対して長秀は「生涯“五郎左”で結構」と一度断っている)、羽柴秀吉に“筑前守”。さらに重臣だけでなく簗田広正(桶狭間の戦いの折、今川義元が桶狭間で休止している旨を伝えた簗田“出羽守”政綱の子)に“別喜”“右近大夫”、塙直政に“原田”“備中守”、さらに文官として織田家を支える松井友閑に“宮内卿法印”、武井夕庵に“二位法印”が与えられ、多くの家臣に箔が付けられた形だ。
長年の脅威だった武田家を討ち破って余裕の生まれた信長は、後回しにしていた越前一向一揆討伐に乗り出した。
朝倉家滅亡後の統治に躓き、地侍と百姓の蜂起で“百姓の持ちたる国”になってしまった越前。民達の生活は楽になる……そんな幻想は長く続かなかった。
織田の息が掛かった者達を追い払った後に待っていたのは、石山本願寺から派遣された坊官達による支配だった。この坊官達は自らの私利私欲を満たす為に“織田家へ備える”名目で以前より重い税を民達から取り立てた。『結局は頭が変わっただけで、圧政は継続している』と反発した百姓達や地侍達が、今度は坊官を相手に一揆を起こす事態に発展した。
これに対し、伊勢長島の一向一揆や武田家の侵攻など優先すべき事もあり、越前へ兵を送る余裕の無かった織田家。この一年間の間に伊勢長島を平定し、長年の憂慮だった武田家も五月に設楽原で完勝し、ようやく越前を取り戻す環境が整ったのだ。
天正三年八月十二日。岐阜を出発した信長は、翌十三日に小谷城へ入り、そこで兵糧を配った。さらに十四日には敦賀城に入り、翌十五日に三万余りの軍勢で本格的な侵攻を開始した。今回の戦には佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・荒木村重といった家老級の面々や、尾張・美濃・伊勢や畿内の武将、さらに馬廻出身の若手武将も顔を揃えた。
若狭など日本海に面する国々の水軍による海からの側面攻撃も含めて幾つかの方面から攻撃を開始した織田勢は、快進撃を続けた。一向一揆側も抵抗の姿勢を見せたが、結束に欠けたが為に内応や寝返りが相次いだ。南から北上し、十八日までに内陸部の大野郡も掌握、内部崩壊もあり短期間の内に越前全土に広がった一揆の鎮圧に成功した。本願寺から派遣された坊官は殺されたり隣国の加賀へ逃れたりし、散り散りになった。それでも信長は追及の手を緩めず「山林くまなく探し、男女問わず斬り捨てよ」と厳命した。伊勢長島と同様に、“女子どもであろうと刃を向ける恐れがある”として撫で斬りにする構えだった。この苛烈な命令で犠牲になった人数は二万人を超えるとされ、三万から四万の人々が奴隷として各地へ送られたとされる。戦後処理の観点から乱妨取りを固く禁じていた織田家では異例の対応で、それだけ信長の恨みが深い裏返しとも言える。
九月、信長は今回の越前一向一揆鎮圧戦の論功行賞を行い、これまでの働きを含めて多大な貢献があったとして柴田勝家に越前八郡七十五万石が与えられた。他の重臣達が次々と国持ち大名になる中で蚊帳の外だった柴田勝家は、今回の差配で一躍織田家臣団の中で一番の版図を持った。また、府中十万石は不破光治・前田利家・佐々成政の三人へ均等に与えられ、勝家の補佐と目付の役割を与えた。この三人は後に“府中三人衆”と呼ばれ、勝家を支えていく事となる。さらに、大野三万石は金森長近、二万石は原長頼に与えられ、この両名も勝家の寄騎に組み入れられた。
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