信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉

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五 : 青葉 - (2) 楽あれば苦あり

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 三月に入り、織田家に朗報が二つ飛び込んできた。
 まず一つ。三月九日、丹波で明智光秀を散々に苦しめた赤井直正が、五十歳で死去したのだ。跡継ぎの直義なおよしはまだ九歳と幼く、叔父の赤井幸家よしいえが後見役として支えていくこととなった。いずれにせよ、“丹波の赤鬼”と呼ばれた直正の死は丹波攻略を目指す光秀にとって障害が一つ取り除かれた。
 もう一つは……反織田勢力が最も頼りにしている人物にして信長が今最も恐れている人物、上杉謙信。三月九日に居城・春日山城のかわやで倒れて昏睡状態に陥ったのだ。昨年九月に手取川で織田勢に大勝した謙信は、十二月十八日に春日山城へ帰還。七日後には翌春の遠征に向けた大動員令が発せられていた。次の遠征が関東か越前か分からないが、三月十五日に出陣する予定で準備が進められていた。懸命な治療が行われたが回復せず、三月十三日に死去した。享年四十九。
 謙信は生涯不犯ふぼんを貫き通した為、妻を持たなかった。跡継ぎ候補は謙信の姉の子・景勝と北条氏康の七男で上杉家に人質として送られて来た景虎の二人が養子に入っていたが、謙信存命時に自らの後継を具体的に指名しなかったが為に、双方の陣営が推す者を家督に据えようと激しく対立。後に“御館おたての乱”と呼ばれる内紛に発展し、上杉家は家督を巡って家中を二分する争いで外征どころではなくなってしまった。
 北陸方面で劣勢だった織田勢は、謙信の死をきっかけに反転攻勢に打って出る事となる。

 天正六年四月四日。信忠を総大将とする軍勢が大坂表へ出陣した。『信長公記』によれば、参加したのは北畠信意・神戸信孝、織田家重臣の明智光秀・丹羽長秀・滝川一益、それに信長の近臣である津田信澄・蜂屋頼隆などの面々で、尾張・美濃・伊勢だけでなく近江や若狭・畿内各地からも動員され、兵の数は十万を下らない規模だった。
「門徒ばらが相手ではなぁ……」
 軍議に参加していた森長可が渋い表情で漏らす。大名家同士の戦いなら名のある将を討てば武功になるが、一揆勢が主体の本願寺勢では武功を挙げにくい。どうせ暴れるなら武功を稼げた方が良いと考えるのは分からなくもない。
「まぁまぁ。此度は田畑薙ぎなどが主ですから、これを続けていれば武功に繋がりますよ」
 同席する者の中で年長者の長秀が宥めるが、暴れられないとなるとまた不満気な長可。戦に来たのだから暴れ回りたいのだろう。
 二年前の五月にあった天王寺の戦いで、織田方は大坂表の陸上部分の大半を掌握した。その後も付城を築くなど封鎖を続け、石山本願寺は着実に力を弱めていた。とは言え、制海権は依然として毛利水軍が握っており、補給を完全に絶つまで至っていないが。
 今回の出陣は約八年にも及ぶ石山本願寺との戦いに、大軍で圧力を掛ける示威行動が目的だった。落とせなくても敵の気力を削ぐのが狙いで、織田家の力を見せつけるだけで上々といったところか。
「勝蔵、お主の気持ちも分からなくもない。だがな、今回は暴れられなくても、お主が活躍する場は必ず訪れる。その時は存分に働いてくれ」
「……はい」
 このままでは不貞腐れそうな勢いだったので信忠が宥めると、長可も不承不承ながら受け入れた。
 大坂表に展開した織田勢は、田畑薙ぎなど挑発行動を敢行。これに対して石山本願寺勢は打って出たい気持ちに駆られたが、数で圧倒的に上回る織田勢に仕掛けては相手の思う壺と分かっていたので自重せざるを得なかった。
 信忠を総大将とする織田勢が大坂表で挑発行動に出る中、四月十日に驚きの報せが京から届いた。
 天正六年四月九日。信長は何の前触れもなく、全ての官位官職を辞してしまったのだ。利用出来るものは何でも利用する考えの信長が帝や朝廷の後ろ盾を自ら放棄するこの行動を、信忠は理解出来なかった。
 父の突然の行動に驚かされたが、本願寺攻めに支障は出ないので何事もなく済んだ。しかし、数日後には織田勢を震撼させる驚愕の報せが飛び込んできた。
 吉川元春・小早川隆景率いる毛利勢が備前に到着。その数、宇喜多勢も合わせて三万超。さらに毛利輝元も後詰で備中高松城に入った。播磨にある羽柴勢は一万を超える程度、おまけに三木城の別所長治を始めとした多くの国人が造反しており、三万を超える軍勢が播磨へ侵攻してきたら羽柴勢は窮地に陥る。
 毛利勢は備前国境を越え、播磨国へ侵攻。標的としたのは、尼子勝久が籠もる上月城。四月十八日に上月城を包囲した毛利勢は、約三千の旧尼子勢を相手に空堀を掘り柵や逆茂木を設けるなど徹底的に兵を外に漏らさない陣形を築いた。
 三月二十九日から三木城を囲んだ羽柴勢だったが、毛利勢が上月城を攻めたと知った秀吉は居ても立っても居られず手勢を割いて上月城に近い高倉城へ急行。何としても救い出すという姿勢を見せた。
 こうした状況に、大坂表で本願寺に圧力を掛けていた織田勢にも変化が現れた。一部の将に播磨へ向かう支度をするよう信長から指示が出たのだ。そして、大軍を率いる信忠も父から緊急の呼び出しを受け、安土へ向かった。
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