信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉

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五 : 青葉 - (28) 馬揃え当日

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 天正九年二月二十八日。遂に、馬揃え当日を迎えた。
 信長から馬揃え実施の意向を伝えられてから、朝廷側と内裏用地使用許可の交渉に始まり会場設営・参加者への案内・開催当日の人員配置に警護と幾つもの難題を解決してきた光秀の手腕は高く評価されてもいい。過去に前例のない一大事業は準備だけでも相当な苦労があったと推察されるが、よく約一月で実行に移されたと思う。
 織田家の主立った面々が、自慢の愛馬にまたがりこの日の為に用意した衣装で着飾っている。戦ではないので軍勢は連れてないが、供で参加する臣やその従者などでそれなりの人数になる。結果、待機場所は人馬でごったがえしていた。
 先陣を切るのは、丹羽長秀と若狭衆・摂津衆など。次席家老ではあるが陰から支える役割が多い長秀に先頭の名誉を与えられたのは、信長なりの配慮の表れか。二番手は蜂屋頼隆と河内衆・和泉衆など。頼隆は信長の黒母衣衆を務めた一人で、武将・奉行として織田家を支えている。昨年の佐久間信盛追放で河内・和泉方面を任されていた。
 三番手で登場したのは、明智光秀と大和衆・上山城衆の一部。言わずもがな、織田家を支える重臣だ。続けて、京都所司代・村井貞勝の長男・貞成さだなりと上山城衆の一部。
 そして――次に出番が巡ってくるのは、信忠を筆頭とする連枝衆。信忠は自らの臣八十騎と与力の尾張衆・美濃衆を連れて登場となる。
 順番を待つ信忠の目から見て、滞りなく進行しているように思う。明智家の者が随所に立ち、誘導や案内が行われている。それに従っているだけでいいので、気持ち的にはすごく楽だ。
 最後の待機場所に馬を進めると、光秀の姿があった。自らの出番を終えて間もないのに、装束を脱いで簡素なものに着替えている。今日は裏方に徹するつもりのようだ。
「中将様、こちらでお待ち下さい」
 光秀が近付いてきて声を掛ける。それに軽く頷く信忠。
「日向」
「はい」
 馬上から、信忠が呼び掛ける。引き締まった表情をしている光秀へ、さらに続ける。
「此度の事、真に大儀である。礼を申す」
「……勿体無きお言葉」
 信忠から労いの言葉を掛けられ、恐縮する光秀。だが、それだけで終わらない。
「皆、心の中で感謝している筈だ。今日この時を迎えられたのは、日向を始めとする明智家の者達の尽力があったからに他ならない。皆に晴れの舞台を用意してくれて、ありがとう」
「畏れ多きお言葉……家中の者達にも聞かせてやりたいです」
 感謝の言葉を伝えられ、光秀は深くこうべを垂れた。その肩は、微かに震えている。望外ぼうがいの喜びに感極まったのだろうか。
 しかし、それも寸時すんじのこと。すぐに顔を上げた光秀は、にこやかな笑みで告げた。
「……ささ、中将様の出番です。いってらっしゃいませ」
「うむ」
 応じた信忠が、馬を進ませる。ゆったりとした歩みで進んでいく様を、光秀は頭を下げて見送った。
 この後、近衛前久などの公家衆・柴田勝家を筆頭とする北陸衆・武井夕庵や松井友閑など文官の坊主衆などが続々と登場し、最後を飾ったのは天下人・信長だった。この日の為に用意したきらびやかな装束を身にまとい、帝や女官にょかんなど見物人を前に堂々とした振る舞いだったという。
 閲兵えっぺい式の側面もあった馬揃えは混乱なく終了し、帝のお墨付きを得て織田家に箔を付ける目的を無事に果たせた。無位無官の身ながら、信長が朝廷への影響力を依然持っている事を内外に示した形だ。
 信忠も織田家の一員として誇らしい気持ちになると共に、天下に轟く織田家の一人としてこれからも恥じない行いをせねばならないと気を引き締める思いだった。

 信長が左義長に馬揃えにと賑やかに過ごす中、天下は少しずつ動いていた。
 遠江では高天神城の包囲が続いており、敵中で孤立する城方は窮乏し餓死者も出始めていた。昨年には福富秀勝・猪子“兵助ひょうすけ高就たかのり・長谷川秀一ひでかず・西尾吉次よしつぐなど信長の側近を家康の元へ陣中見舞いに送り、今後の方針や進捗について確認していた。守将の岡部元信は勝頼が必ず救援に来てくれると信じて懸命にえていたが、年が明けてもその兆しすら見られなかった。
 天正九年三月二十五日。これ以上の籠城は困難と判断した元信は、別れの宴席を開いてから徳川勢へ突撃。死を決めた武田勢は散々に暴れ回り、激戦の末に元信を始めとする将兵六百八十八名が討死。横田尹松など生存した者は命を取らず、尹松のように甲斐へ送り返されたり徳川家に加わったりした。後日談として、無事に生還を果たした尹松へ勝頼は褒美に太刀を与えようとしたが、尹松は「祖父も父も勝って褒美を貰ったのに、負けて帰ってきた自分が褒美を貰うのは申し訳が立たない」と固辞した――とする逸話が『甲陽軍鑑』に記されている。
 高天神城の落城で、遠江は完全に徳川領となった。また、味方の助けを待ちながら孤軍奮闘していた元信を諸般の事情もあり結果的に勝頼は見殺しにした事実は武田家中、特に寄騎としている中小の国人勢力に衝撃を与え、勝頼の求心力に大きく影響を及ぼすこととなる。
 また、同じ頃に北陸方面でも大きな動きがあった。謙信存命時から越中を任されていた上杉家家臣・河田長親ながちかが三月二十四日に病死したのだ。享年三十九。天正六年十月に斎藤利治が飛騨経由で越中に侵攻してきてから防戦一方ながらも粘り強く抵抗を続けてこられたのは、ひとえに長親の手腕にる所が大きく、主柱しゅちゅうを失った上杉方は織田方の攻勢もあり越中の大部分を失うこととなる。後日、越中は佐々成政に与えられた。
 さらに、去年降伏した能登でも動きがあった。信長の側近である菅屋すがや長頼ながよりが七尾城を接収し、暫く統治に関わる事務に追われていたが……天正九年六月二十七日、旧畠山家臣を城へ呼び出すと、登城してきた遊佐続光・盛光もりみつ父子、伊丹孫三郎などを捕縛。天正五年の折に親織田派だった長続連を始めとする長一族を謀殺した罪で処刑したのだ。同じく主導的な役割を担った温井景隆・三宅長盛兄弟は危険を察知して出仕せず、そのまま出奔してしまった。四年前に反旗を翻した事を忘れていなかった信長が、この機に向背定まらぬ連中を一掃したのだ。八月、前田利家に能登一国を与えられ、長連龍など旧畠山家臣は与力として付けられた。利家は堅牢ながらも山城である七尾城を廃し、港に近い小丸山に城を築く事にした。
 能登は完全に織田家の支配下とし、越中でも主導権を握った。一時は越前まで迫られた状況も過去の話、北陸方面で次の標的は越中東部の牙城・魚津城に定めた。
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