信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉

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六 : 大志 - (14) 符合

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 五月二十一日に上洛した信忠は公卿として参内するなど、精力的に動いた。父と朝廷の間に懸念事項があるとは思えないくらい、穏やかな対応が続いた。
 天正十年五月二十九日。この日は妙覚寺で決裁書類と格闘していた信忠の元へ、昼頃にやや困惑した顔で伝兵衛が近付いてきた。
「……殿。殿にお会いしたいと申している女子おなごが来ておるのですが」
 伝兵衛の言葉に、信忠は「ん?」と反応する。上洛以来、次期天下人ともくされる信忠と繋がりを持とうと面会を求める者が殺到していたものの、ほぼ男性である。女子が訪ねて来るとはかなり珍しい。
「何という方だ?」
 信忠が訊ねたのに対し、伝兵衛は「それが……」と頭を掻く。
「実を申しますと、名を教えてくれませんで……『これを見せてもらえれば分かる』とだけ」
 そう言った伝兵衛は、手にしていた包みを開く。その“物”を目にした瞬間、信忠は目を大きく見開いた。
 名を明かせない女子、いや女性にょしょうと呼ぶべきか。その選択は賢い。下手に名を伝えれば身構える者が出ないとも限らない。そして、身元を明かす“物”も適格だ。これを知っている信忠とその相手しか居ないからだ。
「すぐにこちらへお通し致せ。くれぐれも粗略に扱わないように」
「畏まりました……」
 まるで賓客を招き入れるような態度の信忠に、伝兵衛は不思議そうな顔を浮かべながら下がっていく。一方、信忠は胸がドキドキと高鳴り、息苦しささえ感じていた。
(まさか、本当に会える日が来るなんて……)
 その相手とは、これまで一度も顔を合わせた事が無いけれど、その相手の事は知っている。うに会っていた筈なのに、機会が流れてもう会えないと覚悟していた。だからこそ、余計に嬉しい。
 相手の人を待つ間、信忠は身形や髪型をしきりに気にするなど、フワフワして落ち着かない様子。
「殿、お連れ致しました」
 伝兵衛の声に、信忠は「うむ」と応じる。心なしか、その声はいつもと比べて堅くやや小さい。緊張しているのが丸分かりだ。
 それを受け、伝兵衛はお連れした人物に入室するよう促す。くれないの小袖をまとった小柄な女性が、控え目に入ってきた。その後ろには背の高い切れ長な眼をした侍女が続く。
 信忠の向かいに座った女性は、三つ指をついて頭を下げた。
「お初にお目に掛かります。松にございます」
 鈴を転がすような声で挨拶をする。ずっとずっと前からこの時が来るのを待ち焦がれていた信忠は、少し感動していた。
 そう、この女性こそ――武田信玄の娘にして信忠の許嫁いいなずけ・松姫である。
 十五年越しでやっと対面を果たした松姫は、信忠が想像していたよりもずっとずっと美しかった。
「……初めまして。織田“勘九郎”にございます」
 興奮と緊張が入り混じった声で、自己紹介する信忠。松姫が顔を上げると、信忠は思わずまじまじと見つめてしまう。
「あの……そんなに見つめられると、恥ずかしいです……」
 視線を一身に浴びた松姫は照れたように言う。指摘されて自分の目が釘付けになっていた事に気が付いた。
「……失礼。信玄入道の娘だから、もっといかつい顔をしているとばかり思っていました。こんなに綺麗で可愛らしい人でしたので、つい……」
「私も、あの“第六天魔王”の子と聞いていたので、鬼みたいに怖い顔をしているのかと内心怖かったっですが……会ってみたら優しい顔つきで良かったです」
 信忠が率直な感想を述べると松姫も負けじと切り返す。直後、互いに顔を見合わせて笑いが零れる。笑っている松姫の顔は、向日葵ひまわりみたいにパッと明るく素敵だった。
 松姫が口にした“第六天魔王”とは仏教における三界(無色界・色界・欲界)の中にある欲界の最高位・第六天の王を指すが、この場に出てきたのは理由がある。
 信玄が西上するに際し、信長に宛てた書状の中で比叡山焼き討ちや一向一揆への苛烈な扱いをしてきた事に対して非難した上で“天台座主ざす沙門さもん信玄(天台宗の代表・信玄)”と署名されていた。これは比叡山焼き討ちで難を逃れた延暦寺の僧が信玄を頼って甲斐へ落ち延び、見延みのべ山に延暦寺を再興させようとしたり座主の覚恕の計らいで権僧正ごんのしょうじょうに任じられたりと、天台宗の実質的な庇護者になった背景がある。
 こうした姿勢の信玄に対し、信長は返信した書状で自らを“第六天魔王”と署名した。仏教で敵となる存在を名乗ることで、旧来勢力と対峙していく事を信長なりに諧謔かいぎゃくを交えた示した形だ。
 一連の逸話はルイス・フロイスが記した『日本史』に記載はあるが、それを裏付ける史料や書状が残されていないので事実かどうか定かではない。また、信長が自らを“第六天魔王”と呼んだ例もない。しかしながら、敵対する仏教勢力に容赦ない弾圧をした印象から、そうした呼び名が巷で独り歩きしていた。
「“これ”をお見せすればきっと分かって頂けると思いましたが、やっぱり不安でした」
 心中を吐露する松姫に、はっきりと信忠は答える。
「私はすぐに分かりました。何故なら“それ”を渡したのは松姫様の他にりませんから」
 その言葉を聞いて「ふふふ」と笑う松姫。松姫の膝の上に置かれた包みを、ゆっくり開く。
 中から出てきたのは――渦巻き貝。
 ただの貝ではない。永禄十年に婚約が決まった折、まだ七歳だった松姫に何が喜んでもらえるか頭を悩ませていた奇妙丸が、“山に囲まれた甲斐で海を感じられる品”で思いついたのがこの渦巻き貝だった。渦巻き貝を贈った相手は松姫の前にも後にも居らず、“それ”だけで二人を繋ぐ符合ふごうであった。
「この渦巻き貝に耳を当てて“海のさざ波はこんな感じなんだ”と想像していました。それに、勘九郎様の事も……」
 言うなり、両手で顔を隠す松姫。覆いきれない頬が朱に染まるのが見える。その反応に信忠は“可愛い”と思えた。
「実は、私も……」
 そう言いながら、懐をまさぐる信忠。すぐに探し当てた物を取り出す。
 出てきた物を見て「まぁ」と松姫が声を上げる。
「それは……私が差し上げた御守……」
「松姫様から頂いて以来、ずっと肌身離さず持っておりました」
 貰った当初は紺色だった御守は、十五年の歳月を経ていく内に色はせ布地は薄くなっていた。その劣化は常に帯びていた証左である。
 互いが互いに初めて贈った物を宝物のように大事にしていた。それがとても嬉しく、二人の心の距離がグッと近付いたように信忠は感じた。
「正直、会いに来てくれないと思っていました」
 真田昌幸を介して『お待ち申し上げます』と信忠の意思を伝えてもらったが、松姫がどう受け止めるか全く分からなかった。寄る辺としている武田家を滅ぼした事実は変えようがなく、信忠はその中心人物だ。織田方の侵攻で松姫の暮らしはガラリと変わり、怖い思いをしたに違いない。恨まれても致し方ないと考えていた。
 すると、松姫は少し悲しい顔をしてポツリと漏らした。
「……私も、言葉で言い表せないくらいに複雑な心境でした」
 それから、松姫は訥々とつとつと自らの胸中を明かし始めた。
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