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舞台説明・読み飛ばし推奨

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 学園に戻ったアンネには、一つの目論見があった。
 王太子とのこじれた仲をどうにかしたいが、あの日から半年以上が過ぎている。とてもじゃないけど、現状を改善出来るとは思えない。そこまでアンネは鈍感ではない。
 何を言ったところで、王太子殿下やその側近たちには届かないだろう。

 諦めることなんて出来ないけど、とりあえず今のところは、諦めざるを得ない。



 代わりに目をつけたのが、例の男爵令嬢だ。

 アンネが不在の間、学園内外でのレセプションやイベント式典で、レグノ殿下のパートナーを務めたのが彼女らしい。
 僻目だという事を差し引いて見ても、王太子殿下の隣りに立つに相応しいとは思えない。だって彼女は、下級の地方男爵令嬢にすぎないのだから。

 王侯貴族の礼儀作法など、学んではいないだろう。


(わたしなら、曲がりなりにも十年のキャリアがある)
 愚鈍だから、洗練されたものとは言えないけれど、一通りは知っている。


 それを、彼女に教える。


 そうだ、王太子殿下たちから距離を置かれている現在、彼らにこれ以上見捨てられないためには、自分が有用な人間だと思ってもらわなきゃならない。使える、と思ってもらわなきゃいけない。

 ━━━━彼女の教育係になれば、必要だと思ってもらえるんじゃないか?


 もうアンネセサリーの王太子妃候補という肩書きは名ばかりのようになっているが、レグノ殿下に近侍する人物を育てる立場としてなら、価値を認めてもらえるかもしれない。その知識は、ある。

 アンネは件の男爵令嬢の事を調べ、事あるごとに彼女に接近し、様々な忠告や指導をするようになった。
 休み時間だけでなく、授業でも女生徒のみの淑女教育の時などは、いちいちお節介をかけて上級マナーを伝えようとした。


 だが、当然上手くいかない。

 なにやら必死なアンネセサリーの姿は嘲笑の的となり、邪魔をされる。男爵令嬢自身が警戒する以上に、彼女を守る他の生徒たちが少しでも近づいたアンネを威嚇し、すぐ王太子グループに通報して助けを呼ぶ。
 そのたび、即座に現れた王太子派の貴公子の誰かがアンネを追い払い、激しく警告を口にして男爵令嬢を逃してしまう。

 結局アンネは、男爵令嬢にマナーを教えれないまま王太子によって遠ざけられ、本来自分が立つはずの式典のレグノ殿下の隣りで、男爵令嬢がはしたなく無邪気に笑い、喋り、手を叩きモノを口にする姿を目にする事になった。


(あれでは殿下の名声、果ては王国自体の評判に傷がつきかねない…)

 学園内での式典なら最悪、問題は最小限に納められる。だが王太子が祝辞を述べたりする会であれば、外部の耳目が入るかもしれない。
 その時に、あの男爵令嬢が今の振る舞いのまま隣りにいたなら、侮られる。

 アンネセサリー本人が、これまで散々痛感してきたのだ。フェアネスの令嬢がこの程度か、という嘲けりが、どれほどの傷になるか。
 同じ目に、遭わせたくない。



 アンネはそれ以降もしつこく、男爵令嬢に付き纏った。多分に自分の都合ではあるが、男爵令嬢のためでも、王太子殿下のためでもあるのだ。わたしはあなたたちにとって、有益な人物なのですよ?


 そうしていたある日、逃げてばかりの男爵令嬢が意を決したようにアンネの顔を真っ直ぐに見つめ、向き合おうとする時が訪れた。

 あぁ良かった、まずはここからお話しを、とアンネがその手を取ろうと気を抜いた瞬間、男爵令嬢のご友人たちが即座に彼女を守るよう壁となって立ち塞がり、王太子の取り巻きの貴公子がアンネをドンッと突き飛ばした。

「あなたの行動は目に余る!ご自身の身分の高さを笠に着て目下の者に嫌がらせをするなど、それが淑女のやる事か!」


 そんなつもりは…っ、と反論しようとしたが、自身に突き刺さる数多の白い目に、息を飲んだ。
 自分はここまで敵視されているのか。愕然とした。学内の生徒が、全て男爵令嬢側の味方に付いているみたいだった。

 誤解だ!と言い訳しようにも、男爵令嬢や王太子側からすれば、誤解でもなんでもない。男爵令嬢に付き纏うのをやめろ、というのだから。


 サッと血の気が失せ、アンネはすごすごと逃げ出した。心が折れ意気消沈したアンネは、数日にわたり王城の仕事部屋に引きこもった。
 吐き気と胃痛に悩まされながら、現実から目を背けて逃避するように、積み上がった学業と公務の課題に没頭した。


 あそこにはもう、わたしの居場所は無いんだ━━━━

 焦りと不安に、心が蝕まれる。涙が滲む。
 その闇を誤魔化すように、ただ日々が過ぎ去ってくれるのだけを、怯えるようにして望んだ。


 学園を卒業すれば、王太子殿下と式を挙げる。実務には、あの男爵令嬢を伴うのかもしれない。だが、わたしは国が決めた王太子妃候補だ。
 名ばかりでも王太子妃という肩書きさえ得られれば、またわたしも呼吸が出来る時が来るはずだ…。そう信じて。




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 冬休み前、年末プレ晩餐会の招待状が届いた。

 内部生と、一部成績優秀な外部生たちが招かれ、将来の舞踏会などの模擬練習も兼ねた学園で一番華々しい行事だ。
 だが、招待状を見て、アンネは失望するしかなかった。


 アンネセサリーはこの国の最高位に近しいフェアネス侯爵家の令嬢だ。このレベルの身分の子弟は、プレ晩餐会から更に一段階上の、特別に選ばれた者だけが参加出来るサロンにも呼ばれるはずだった。
 去年一昨年は、アンネは王太子妃候補として、当然そちらの招待状も受け取っていた。
 それが最終学齢の今年、同封されていない。

 どころか、プレ晩餐会の案内状自体が、外部生向けのと変わらない、単色のオーソドックスな定型文のものに格下げされているのだ。
 ━━━━パートナー同伴不要の、一招待客の扱いに。


 ここまで侮辱されなければならないのか?とアンネは陰鬱たる気分に落ち込みながら、それでも形だけでも未来の王太子妃としての立場から、欠席するわけにもいかなかった。
(どこで間違えたんだろう?)
 いっそあの男爵令嬢にこの立場を譲る事が出来ていたならば、王太子妃候補の義務から解放されていたかもしれない。

 いや、後悔しても詮ない事だ。わたしは王太子殿下に与えてもらった居場所に執着していたのだから。


 王太子殿下の心はわたしから遥か遠くに離れてしまっている。取り戻す術など無い。
 このまま忌避されたお飾り妃として生きていくのか?
 かといって、実家にだって自分の居場所は無い。フェアネスの家の中では、使用人たちにすら厄介者扱いされているのだ。
 学園卒業後に予定通りに王太子妃になれなければどうなるのか、それを考えると、意地でも今の立場にしがみついておかないといけない。

 式典の時にだけ着るいつものドレスを手にし、アンネセサリーは覚悟を決めた。

 どのような侮蔑を受けようと、プレ晩餐会を耐え忍んで乗り切り、学園を卒業し、実家を離れ王家に入る。

 名ばかりお飾りで構わない。王太子殿下との結婚生活など、無くても仕方ない。自分に魅力なぞ無いのは、十分すぎるくらい知っている。
 でも王家に入りさえしてしまえば、今までのような学生の片手間でさせられていた雑務とは違う、正規の公務を扱わしてもらえるはずだ。そこに僅かな隙間でも、自分の居場所を作りたい。

 亜人國から友好の証としてアンネ個人に贈られた翡翠の首飾りを、祈るようにギュッと固く握り締めた。
 これ以上は悪くならない。これが底辺だ。学園生活は失敗に終わったが、ここからは努力して少しずつ這い上がっていくんだ。

 きっと…。



 実家の馬車にすら乗らず、友人たちと連れ立つこともなく、寮から独りでパーティー会場に向かう。受付の衛士に招待状を見せると、事務的にホール端の一般招待客のテーブルに通された。
 周りは全て外部生や学園関係者たち。侯爵家の、しかも最終学齢の令嬢が案内されるようなエリアではない。

 案の定、浮いてるアンネは陰口と噂話の格好のネタになった。クスクスと笑い声があちこちから聞こえる。内情をあまりよく知らない来賓の招待客たちが、腫れ物に触るような居心地悪そうな目で見てくる。
 アンネとて王太子妃候補の立場で外交の宴を経験してきているから、社交が出来ないわけではない。だが公務でない今、何をどう取り繕って周りと交わればいいのか分からない。

 なるべく惨めな思いを感じられずに済むよう、壁の花となってジッとしている。


(口の中が乾燥してベタつくわ。何か飲みたいけど…)
 給仕ですらアンネに近づいて来ない。仕方なく、自分で取りに行く。それすらも、チラチラ野次馬してくる外部生徒たちの嘲笑のタネとなった。


 グラスに入ったレモン水で、少しずつ唇を濡らして時が過ぎるのを耐えていると、会場中央の大階段を降りてきた主催者たちにより、パーティー開演の挨拶がなされた。
 王太子の隣りには━━

(え、居ない…?)

 不思議な事に件の男爵令嬢は伴われておらず、王太子の側近の侯爵令息や伯爵令息、公爵令嬢などのサロンメンバーのみが主賓になっている。
 気づいて見渡してみたが、招待された外部クラス生にも男爵令嬢は居ない。

 なんで?と思ったが、同時にゾクゾクッという暗い歓びが背筋を駆け上ったのも否定出来ない。ザマァ見ろ、という澱んだ悪意が、一瞬だけアンネの溜飲を下げたのも、否定出来ない。

 だが直ぐに、自分のその感情を後悔する事になる。


 ゆっくりと手を振りながら会場を見廻した王太子は、アンネに目を留めると、
「アンネセサリー・フェアネス侯爵令嬢!」
 と名指しし、此処へ、と壇上へ上がって来るよう促した。
 ドキッとした。えも言われぬ歓喜に高揚した。
 同じ意味に受け取ったであろう外部生たちの、驚いた表情が気持ちいい。

 いそいそと、会場の中央へ進み出る。つい紅潮した頬が弛む。
「アンネセサリーフェアネス、お招きにあずかり罷り越しました」
 ちょんっと優雅にカテーシーを示し、王太子殿下に敬愛の眼差しを向ける。

 王太子は少し間を置き、
「……なぜ自身が呼ばれたか分かるか?」
 重く、低い声。

(え?このパーティーのパートナーにわたしを選んで下さった、んでしょう…?)
 王太子たちの表情からくる違和感に、アンネセサリーはちらりと不安になった。


「フェアネス侯爵令嬢!貴殿の身分を傘に着た数々の問題行動、王太子妃候補という立場を利用した様々な悪逆行為は目に余る!よってこらよりその罪を暴き、綱紀の粛正を行う!」

 え?え!?え??!
 高らかに宣言した王太子の言葉が、アンネはひとつも理解出来ない。一体何をおっしゃられているのか?
 訳のわからぬまま混乱し戸惑っているアンネセサリーをよそに、王太子の側近の文官貴公子が文書を手に、アンネの罪状を読み上げていく。学園内で同学年の女子に対する各種嫌がらせを暴行傷害と言い、公権を恣にして私利私欲に走った、という。


「特に、亜人國との癒着で私腹を肥やした汚職は国家叛逆に匹敵し、看過できるものではない!」

 アンネが任じられた亜人國饗応官の地位を、まるでアンネが食い潰していく利権のように断じられた。
「そんな、まさか!無茶苦茶な…っ!」
 アンネは国に命じられてやむなく就いただけの役職だ。しかも重要かつ激務なコレは愚昧なるアンネには荷が重すぎるため、早目に誰か優秀な事務官に引き継ぎたいと思ってる仕事だ。
「そのような公職でわたくしが汚職するなど、あり得ぬ話です…っ!」
 必死に否定する。この公の耳目が集まる場所で、言いがかりで貶められるのはマズい。そもそもの味方の居ないアンネには致命傷だ。


「まだ、そのような言い逃れをされるか…」
 のそりと王太子の後ろから進み出たのは、辣腕と名高い新進気鋭の若手宰相だ。アンネにとって最悪の相手だった。

「ここに全ての証拠が揃っておりますよ。貴女が亜人國饗応官に利益が集中するよう画策した一部始終がね。よくこれだけ阿漕に金を掻き集める仕組みを作ったものだ」
 と、くっくっくっと笑う。
「いや、それは…」
 国の役職手当として別段何も不思議ではない、どこの部署でもやってる事じゃないか!むしろ他の部署の方があからさまな役得を享受している。アンネは陰に陽に、大量の公文書を処理してきたから知っているのだ。



「亜人國饗応官になるには、それくらいの旨みが無いと誰もやらないでしょ!」


 この悲痛な叫びが、アンネの致命傷となった。
 ザワッと会場の空気が変わった。

 ━━━━王太子妃候補自らが私腹を肥やしていたのか


 瞬間、自分の失言に気づいたアンネはサッと一気に血の気が失せ、すぐ周囲へ言い訳を言い募った。
「違…っ、饗応官は重要な仕事で、わたくしの手には余るから、どなたか相応しい方に引き継ぎたくて、でもやってくれる人が居ないから、やって貰えるように饗応官の手当を厚くしようとしてただけで…っ!!」

 醜く無様な自己弁護。会場の空気が冷えていくのが分かる。それまでの馬鹿にしたような嘲笑と違い、アンネへの不信感、忌避感が広まる。

「そうして亜人國と癒着した証拠が、コレですな」
 宰相がアンネの首元に手を伸ばし、翡翠の首飾りを引きちぎった。

「返して!それは…っ!」
 アンネが唯一、自分の仕事の成果として、相手側から贈られた大切な品だ。たった一度だけの、感謝の手紙と共に与えられた思い出だ。
「調査協力のために提出して頂きましょう」
 すがるアンネを片手で押し退け、宰相は翡翠の首飾りを衛兵に預ける。

(なにが調査よ!単なる私怨での嫌がらせじゃない!!)
 悔しくて涙が出た。
 だが泣き崩れる間もなく、王太子殿下が高らかに宣言する。

「アンネセサリーフェアネス!たった今この場において、ロワイヨーム王家の名のもと王太子妃候補の資格を剥奪する!及び、職権濫用国家背任の罪で逮捕する!連れて行け!」
 王太子の威厳に満ちた堂々たる命令を受け、控えていた衛兵がアンネセサリーを取り押さえて引き摺るように連行する。

「待って!嘘よ!話しを聞いて!わたしは嵌められたの!信じて!」
 ぶわっと浮き出た脂汗で額に髪をへばりつけ、アンネは半狂乱になって弁解した。見捨てられるどころの話じゃない。存在を抹殺されようとしているのだ。身の潔白の申し開きなどではなく、慈悲にすがる命乞いだった。

 しかし王太子と側近たちは情に流されるような事はしない。冷徹に厳格に、アンネセサリーの断罪に対処した。
 泣き喚き情けなく取り乱すアンネを一瞥し、「醜悪な」と少し眉をひそめるのみで、分厚い扉はバタリと無慈悲に閉められた。



 いくら暴れたところで、たかだか十七、八の小娘の力だ。屈強な衛兵たちに抗えるはずもない。
 恐怖に震えながら男たちに取り囲まれ、宮殿の外へ連れ出される。
 そのまま弁明の余地もなく、用意されていた鉄枠の無骨な護送用馬車へ入れられた。
(もう全部準備されてたんだ…)
 絶望的すぎて笑けてくる。自分はここまでされるほど憎まれていたのか?

 冷たい鉄板で囲まれた箱の中は、腰を落ち着ける椅子すら無い。わずかに上部に開けられた通気孔から、かろうじて外気の音が聞けた。
 ワッと沸く歓声と、それにつづく万雷の拍手。
 何があったか分からないが、アンネが居なくなった事で、憂いなく喝采が起きたのは確かだろう。
 その声を聞きながら、アンネセサリーは惨めに消えるように、表舞台から去っていったのだった……。




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 移送されたのは郊外の砦。寒々しい岩山から風が吹き荒ぶ。
 アンネは一張羅のドレスから簡素な貫頭衣に着替えるよう命じられ、囚人扱いで地下の石牢に収容された。

 独房は狭く、横は両手を広げられない程度。奥行きは粗末なベッドひとつと、底を地下水が流れるだけの排泄便器。
 頭上高いところにある小窓から、月明かりがかすかに零れる。
 本当に人間が独り立って寝て出来るだけのスペースしか無い。

(裁判があるはずだ、わたしの言い分を聴いてもらえる機会が、あるはずだ…)
 生乾きの臭いのする汚れた毛布にくるまり、不安と恐怖と寒さに震える。
 いってもアンネは貴族の娘だ。断頭台は無いはずだ。だが実家のやることを考えると、アンネの首ひとつで収まるのなら、あっさりと籍を削除して、連座の責任を回避するだろう。
 今回の失態で、ただでさえ邪魔者扱いだったアンネセサリーに対する感情は、最悪なものになったに違いない。


 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…っ!!

 固く閉ざされた牢獄の鉄扉に向けて、何度も無実を訴える。たまに刑吏から、五月蝿ぇゾ!と怒鳴られる。それでも、誰かに話を聞いて欲しい。涙しながら虚空に訴える。


 数日経ったろうか、実家からの手紙だ、と刑吏が閉した扉の小窓から差し入れてくれた。
 勢いよく飛びつき、ソレを目にする。父ではなく長兄からのようだ。薄暗い牢獄では、字の判別も難しい。じっと目を凝らして、一文一文を読み下す。
 何か、助けになる事は書いてくれてないか?
 裁判はいつになるのか教えてくれてないか?


 しかし読み終えて、アンネは呆然とするしか無かった。

 アンネにとっては身に覚えの無い罪状で身柄を拘束されたが、王太子の婚約者としてそれまでに公務で機密文書を扱っていたため、保持のため一生涯牢獄に閉じ込めるという王家の方針が書かれていた。死刑は無い。それもフェアネス侯爵家に、王家から恩を着せる形で減刑された、という。
 連座で父は大臣の職を辞し、兄も役職を解かれたという。
 アンネに弁明の機会は与えられぬ代わりにフェアネス家が全てを認めた事で、王太子妃候補が絡んだ大疑獄事件は落着したらしい。

(有り得ない…)
 わたしの事を一切信じてくれないのか…?

 手紙には、父と兄がありありとアンネに失望した様子が滲み出ていた。お飾りとして家の邪魔をしない程度の事すら出来ず、あまつさえフェアネスの名声にキズをつけ泥を塗るような馬鹿をやらかす。無能なだけでなく害悪をもたらすなど言語道断。
 フェアネスが、王家に比す伝統あるフェアネス家が、王家に借りを作ったのは恥でしかない。後の事は自分で始末をつけろ。

 手紙と一緒に差し入れられた、黄ばんだ液体の入ったガラスの小瓶。
 フェアネスの家の者が刑死する不名誉を免れる代わりに、獄中にて自裁せよ、というのだ。


 小瓶を鷲掴みにして壁に投げつけた。小瓶は石壁石床に跳ね返ったが、割れずにそのまま転がった。
 薄汚れた不潔な牢獄の中で、その小瓶だけがキラリと綺麗な光を反射していた。



 牢獄で与えられる食糧は少なく、しかも半分腐ったような糸を引くパンとスープで、アンネは凍えながら食べられるところだけをひもじく口にして生きながらえる。
 時に腹を下し、悪寒に震え、糞尿に汚れても衣類や毛布に替えは無く、髪はボサボサになり伸びた爪には垢が溜まる。

 もう何日幽閉されているのか?体調崩して嘔吐しても看てくれる人は居ない。狭い空間に足は萎え、関節があちこち軋む。


(本当に、何の希望も、ないのか…?)

 ずっと暗闇の中に居て、視力も衰える。全身の痒みすら、心を動かすのに足りなくなった。
 ただ身体を横たえ、扉から差し込まれる腐った食事を口に運び、糞尿で出す。

 あれから外がどうなったのかは知らない。
 アンネ独りの不幸の上に享受される幸せを皆が謳歌しているのか、それも分からない。
 心折れ、精神の泉の枯れたアンネセサリーにとっては、どっちだろうがどーでも良かった。

 小瓶は、寝台の枕元にある。気力の擦り切れたアンネでも、手を伸ばして取れる位置に飾ってある。
 この悪臭漂よう汚れたゴミ溜めの中で、唯一美しいもの。
 アンネはそれを手にし、握力の入らない震える指で、栓を抜き取った。


 躊躇いもせず、ごく自然に口に当て、トロトロと飲み下した。
 何も起らず、ぼんやりとした思考で?となった瞬間、ゴボッと大量の血を吐いた。
 次いで、腹の底から焼けつくような激痛とともに、ドロっと溶けて壊れた内臓の肉塊が、目や鼻から溢れ出す。
 身体を引き裂くような痛みに身を捩らして悶絶し、バランスを崩して石の寝台から落ちると、床に打ちつけた骨がメキョッと砕けた。
 たまらず断末魔の咆哮のような叫びを上げようとした喉が裂け、腐った汚物が弾けた。


 アンネセサリーは、全身の穴という孔から血と体液を噴出させてのたうち回り、思わず目を逸らしてしまうほど惨たらしく原型を留めない姿になって、苦悶のうちに死んだ。






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