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第一話 伯爵家の長女
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第一話 伯爵家の長女
フォルディア伯爵家の朝は、いつも静かに始まる。
まだ日が高くなる前、廊下の窓から差し込む薄い光のなかを、セレナ・フォルディアは一人で歩いていた。手には帳簿が二冊。片方は屋敷の支出、もう片方は領地から上がってきた報告をまとめた控えである。
長女である彼女は、本来ならこんな時間から自分で数字を確かめる必要はない。執事や家令に任せてもいい仕事だった。けれど、母を亡くしてからのフォルディア伯爵家では、任せきりにしてはいけないことが増えすぎていた。
厨房の在庫、使用人の配置、仕立屋への支払い、冬支度に向けた領地との調整、社交界での返礼状の文面。どれか一つでも取りこぼせば、屋敷の空気はすぐに乱れる。
だからセレナは、今日も自分で確かめる。
それが当たり前になって、もう何年も経っていた。
「お嬢様、おはようございます」
廊下の向こうから深く一礼したのは、古参執事のグレアムだった。白髪交じりの髪をきっちり撫でつけた老執事は、セレナを見る目にだけ、どこか安堵をにじませる。
「おはようございます、グレアム。厨房の件、昨日のうちに伝わりましたか」
「はい。小麦の在庫を少し早めに回しました。例の件も、他言はございません」
「ありがとう。助かります」
セレナがそう言うと、グレアムはほんのわずかに目を伏せた。
「助けられておりますのは、むしろこちらでございます」
その言葉にセレナは小さく首を振る。
そんなふうに言われるほどのことはしていない。ただ、必要なことをしているだけだ。誰かがしなければ、この家は見栄えのよい伯爵家という箱のまま、中身から崩れていく。
セレナは帳簿を抱え直し、応接間へ向かった。
今朝の確認は三つある。
一つ目は、今月末に控えた夜会への返書。
二つ目は、厨房で使う香辛料の仕入れ値の見直し。
三つ目は――義妹、ミレイユの機嫌である。
最後の一つだけ、どう考えても家政の項目に入れるべきではないと分かっていた。けれど現実として、ミレイユの機嫌は屋敷全体の空気を左右する。
彼女が笑っていれば、侍女たちは胸をなで下ろし、料理人は今日一日を無事に終えられると安心する。
彼女が眉をひそめれば、誰もが息を潜める。
たったそれだけのことで、屋敷の空気が変わる。
まだ十代の娘一人に、これほど家中が振り回されるのは、本来ならおかしな話だった。
けれどそのおかしさを正そうとする者は、フォルディア伯爵家にはもういない。
継母イザベルは娘に甘く、父ローレンス伯爵は面倒を避けて黙ることを覚えてしまった。
だから結局、今日もセレナが先回りして、被害が最小になるよう手を回すしかない。
応接間の扉を開けかけたところで、鋭い悲鳴が廊下に響いた。
セレナの足が止まる。
次いで、甲高い声がした。
「何その顔」
ミレイユだった。
「まだ何もしていないのに、どうしてそんなふうに怯えるの?」
セレナは反射的に声のしたほうへ向かった。廊下を曲がり、小広間の前へ出ると、若い侍女が壁際に追い詰められていた。
金髪をゆるく巻いたミレイユが、その前で苛立たしげに立っている。朝日に照らされた横顔は愛らしく、社交界で見れば誰もが守ってやりたくなるだろう。だが、その目に浮かぶ色は冷たかった。
床には、割れたティーカップが散っていた。どうやら紅茶を運んでいる途中で落としたらしい。
「申し訳、ございません……っ」
侍女は顔面を真っ白にして震えている。
「申し訳ございません、ですって?」
ミレイユはくすりと笑った。
「そんなの聞いていないわ。どうして震えているのかと聞いているのよ」
「それは……」
「まるで私が悪いことをしているみたいで、不愉快だわ」
侍女の肩がびくりと跳ねた。彼女の目には、今にも涙があふれそうに溜まっている。
セレナは一歩前へ出た。
「ミレイユ」
義妹がゆっくり振り返る。
そして、ぱっと花が開くような笑みを浮かべた。
「あら、お姉様。おはようございます」
さっきまで怯える侍女を見下ろしていた女と同一人物とは思えない声だった。
「どうしたのですか、そのカップ」
「この子が落としたのです。ほんの少し注意しただけですのに、こんなに怯えてしまって。困りますわよね」
「……注意、ですか」
セレナの視線が侍女の頬に止まる。薄く赤くなっていた。
見間違いではない。
「あなた、叩いたの?」
問いかけると、ミレイユは不思議そうに目を瞬かせた。
「叩こうとしただけですわ」
まるで「窓を開けようとした」とでも言うような気軽さだった。
「でも避けたの。ひどいでしょう?」
侍女の呼吸が止まったように見えた。
セレナは一瞬、言葉を失う。
「……避けたら、ひどいのですか」
「当たり前でしょう?」
ミレイユは心底不思議そうだった。
「私が叩こうとしているのに、どうして避けるの? 叩かれる側が勝手に逃げるなんて、生意気ではなくて?」
朝の静かな空気が、そこで完全に壊れた。
侍女は唇を震わせて、今にもその場に崩れ落ちそうになっている。
セレナは胸の奥で何かが冷えるのを感じた。
「ミレイユ。部屋へ戻って」
「まあ。お姉様、その言い方はないのではなくて?」
ミレイユは肩をすくめた。
「私はこの子に、主人の前で失敗したらどうなるか、ちゃんと教えて差し上げようとしただけですのに」
「あなたが“主人”なのは、この子にとってではありません」
「同じ家の娘でしょう? 大差ありませんわ」
そう言って、ミレイユは侍女をちらりと見た。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
侍女は答えられない。ただ青ざめたまま俯いている。
「返事もできないの? 本当に使えない」
「もういいわ」
セレナは侍女の前に立った。
「あなたは下がって。ここは私が引き受けます」
侍女ははっと顔を上げた。
「ですが、お嬢様……」
「下がって」
強くはない声だった。けれど、これ以上ここにいれば侍女が壊れる。そう分かっていたから、セレナは繰り返した。
侍女は震えながら頭を下げ、割れたカップの欠片を拾うこともできずにその場を去った。
彼女の背中が見えなくなると、ミレイユは露骨につまらなさそうな顔をした。
「お姉様って、本当にそういうところがありますわね」
「どういうところ?」
「すぐに庇うところです。あんなの、使えないなら叱られて当然でしょう?」
「失敗と八つ当たりは違います」
「あら」
ミレイユはくすくす笑った。
「八つ当たりですって。ひどいわ。お姉様は、私が気分で人をいじめているとでもおっしゃるの?」
実際そうだった。だが、それを口にしたところで、この義妹は傷つかない。むしろ楽しむ。
セレナが沈黙すると、ミレイユは満足げに唇を上げた。
「私はただ、見ていて不愉快だったから直そうとしただけですわ」
「不愉快?」
「ええ。あの子の顔、気に入らなかったもの」
あっけらかんと告げられた言葉に、セレナは寒気すら覚えた。
理由ですらない。
ただ気に入らない、それだけで人を叩こうとする。
いや、きっとこの子にとってはそれで十分なのだ。自分が不快だと思った、その事実だけで、相手を痛めつける理由になる。
「ミレイユ」
「何かしら」
「あなたは、いつか必ず自分のしたことの意味を知るわ」
一瞬だけ、ミレイユの笑みが止まった。
けれど次の瞬間には、鈴を転がすような笑い声が廊下に響く。
「まあ、お姉様ったら。まるで私が罰でも受けるみたいな言い方ですのね」
彼女は一歩近づき、セレナの耳元で甘く囁いた。
「でも、ご安心なさって。罰を受けるのは、いつだって弱いほうですわ」
その言葉は、冷たい刃のように胸に落ちた。
ミレイユは何事もなかったように踵を返し、軽やかな足取りで去っていく。朝の光のなかで、その後ろ姿はどこまでも無邪気で美しかった。
それが余計におぞましい。
セレナは廊下に残された割れたティーカップを見下ろした。白磁の破片が床に散っている。さっきの侍女は取りに戻れないだろう。
彼女は自ら膝を折り、欠片を一つずつ拾い始めた。
「お嬢様」
駆け寄ってきたのはグレアムだった。騒ぎを聞きつけたらしい。
「私がやります」
「大丈夫です。すぐ済むわ」
「しかし……」
老執事は言いかけて、飲み込んだ。
セレナの白い指先に、小さな欠片が触れる。かすかに皮膚が切れ、赤い筋がにじんだ。
それでも痛いとは思わない。
こんなもの、とうに慣れてしまった。
「……旦那様には」
「言わなくていいわ」
セレナは静かに答えた。
「言っても、何も変わらないもの」
グレアムが苦しげに眉を寄せる。
セレナはそれ以上何も言わなかった。
言えば、きっと老執事を悲しませるだけだ。
欠片をすべて拾い終えると、彼女は立ち上がった。切れた指先から落ちた血を、ハンカチでそっと押さえる。
ふと、窓の外から馬車の音が聞こえた。
伯爵家の門前に、一台の黒い馬車が止まっているのが見える。家紋を見ればすぐに分かった。ヴェルド侯爵家のものだ。
ルシアンが来たのだ。
セレナの胸がわずかにざわつく。
婚約者。そう呼ぶべき相手のはずなのに、最近の彼は以前とは少し違って見えた。優しく整った笑みの奥で、何か別のものが静かにこちらを見ている気がする。
その視線が誰へ向いているのか。
セレナはまだ、はっきりとは掴めていなかった。
だが一つだけ分かることがある。
この家の空気は、少しずつ何かの形を変え始めている。
割れたカップのように。
表面は白く整っていても、ひとたびひびが入れば、もう元の形には戻らない。
セレナはハンカチを握りしめたまま、窓の外の黒い馬車を見つめた。
まるで、何か悪いものが扉の向こうまで来ているように見えた。
フォルディア伯爵家の朝は、いつも静かに始まる。
まだ日が高くなる前、廊下の窓から差し込む薄い光のなかを、セレナ・フォルディアは一人で歩いていた。手には帳簿が二冊。片方は屋敷の支出、もう片方は領地から上がってきた報告をまとめた控えである。
長女である彼女は、本来ならこんな時間から自分で数字を確かめる必要はない。執事や家令に任せてもいい仕事だった。けれど、母を亡くしてからのフォルディア伯爵家では、任せきりにしてはいけないことが増えすぎていた。
厨房の在庫、使用人の配置、仕立屋への支払い、冬支度に向けた領地との調整、社交界での返礼状の文面。どれか一つでも取りこぼせば、屋敷の空気はすぐに乱れる。
だからセレナは、今日も自分で確かめる。
それが当たり前になって、もう何年も経っていた。
「お嬢様、おはようございます」
廊下の向こうから深く一礼したのは、古参執事のグレアムだった。白髪交じりの髪をきっちり撫でつけた老執事は、セレナを見る目にだけ、どこか安堵をにじませる。
「おはようございます、グレアム。厨房の件、昨日のうちに伝わりましたか」
「はい。小麦の在庫を少し早めに回しました。例の件も、他言はございません」
「ありがとう。助かります」
セレナがそう言うと、グレアムはほんのわずかに目を伏せた。
「助けられておりますのは、むしろこちらでございます」
その言葉にセレナは小さく首を振る。
そんなふうに言われるほどのことはしていない。ただ、必要なことをしているだけだ。誰かがしなければ、この家は見栄えのよい伯爵家という箱のまま、中身から崩れていく。
セレナは帳簿を抱え直し、応接間へ向かった。
今朝の確認は三つある。
一つ目は、今月末に控えた夜会への返書。
二つ目は、厨房で使う香辛料の仕入れ値の見直し。
三つ目は――義妹、ミレイユの機嫌である。
最後の一つだけ、どう考えても家政の項目に入れるべきではないと分かっていた。けれど現実として、ミレイユの機嫌は屋敷全体の空気を左右する。
彼女が笑っていれば、侍女たちは胸をなで下ろし、料理人は今日一日を無事に終えられると安心する。
彼女が眉をひそめれば、誰もが息を潜める。
たったそれだけのことで、屋敷の空気が変わる。
まだ十代の娘一人に、これほど家中が振り回されるのは、本来ならおかしな話だった。
けれどそのおかしさを正そうとする者は、フォルディア伯爵家にはもういない。
継母イザベルは娘に甘く、父ローレンス伯爵は面倒を避けて黙ることを覚えてしまった。
だから結局、今日もセレナが先回りして、被害が最小になるよう手を回すしかない。
応接間の扉を開けかけたところで、鋭い悲鳴が廊下に響いた。
セレナの足が止まる。
次いで、甲高い声がした。
「何その顔」
ミレイユだった。
「まだ何もしていないのに、どうしてそんなふうに怯えるの?」
セレナは反射的に声のしたほうへ向かった。廊下を曲がり、小広間の前へ出ると、若い侍女が壁際に追い詰められていた。
金髪をゆるく巻いたミレイユが、その前で苛立たしげに立っている。朝日に照らされた横顔は愛らしく、社交界で見れば誰もが守ってやりたくなるだろう。だが、その目に浮かぶ色は冷たかった。
床には、割れたティーカップが散っていた。どうやら紅茶を運んでいる途中で落としたらしい。
「申し訳、ございません……っ」
侍女は顔面を真っ白にして震えている。
「申し訳ございません、ですって?」
ミレイユはくすりと笑った。
「そんなの聞いていないわ。どうして震えているのかと聞いているのよ」
「それは……」
「まるで私が悪いことをしているみたいで、不愉快だわ」
侍女の肩がびくりと跳ねた。彼女の目には、今にも涙があふれそうに溜まっている。
セレナは一歩前へ出た。
「ミレイユ」
義妹がゆっくり振り返る。
そして、ぱっと花が開くような笑みを浮かべた。
「あら、お姉様。おはようございます」
さっきまで怯える侍女を見下ろしていた女と同一人物とは思えない声だった。
「どうしたのですか、そのカップ」
「この子が落としたのです。ほんの少し注意しただけですのに、こんなに怯えてしまって。困りますわよね」
「……注意、ですか」
セレナの視線が侍女の頬に止まる。薄く赤くなっていた。
見間違いではない。
「あなた、叩いたの?」
問いかけると、ミレイユは不思議そうに目を瞬かせた。
「叩こうとしただけですわ」
まるで「窓を開けようとした」とでも言うような気軽さだった。
「でも避けたの。ひどいでしょう?」
侍女の呼吸が止まったように見えた。
セレナは一瞬、言葉を失う。
「……避けたら、ひどいのですか」
「当たり前でしょう?」
ミレイユは心底不思議そうだった。
「私が叩こうとしているのに、どうして避けるの? 叩かれる側が勝手に逃げるなんて、生意気ではなくて?」
朝の静かな空気が、そこで完全に壊れた。
侍女は唇を震わせて、今にもその場に崩れ落ちそうになっている。
セレナは胸の奥で何かが冷えるのを感じた。
「ミレイユ。部屋へ戻って」
「まあ。お姉様、その言い方はないのではなくて?」
ミレイユは肩をすくめた。
「私はこの子に、主人の前で失敗したらどうなるか、ちゃんと教えて差し上げようとしただけですのに」
「あなたが“主人”なのは、この子にとってではありません」
「同じ家の娘でしょう? 大差ありませんわ」
そう言って、ミレイユは侍女をちらりと見た。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
侍女は答えられない。ただ青ざめたまま俯いている。
「返事もできないの? 本当に使えない」
「もういいわ」
セレナは侍女の前に立った。
「あなたは下がって。ここは私が引き受けます」
侍女ははっと顔を上げた。
「ですが、お嬢様……」
「下がって」
強くはない声だった。けれど、これ以上ここにいれば侍女が壊れる。そう分かっていたから、セレナは繰り返した。
侍女は震えながら頭を下げ、割れたカップの欠片を拾うこともできずにその場を去った。
彼女の背中が見えなくなると、ミレイユは露骨につまらなさそうな顔をした。
「お姉様って、本当にそういうところがありますわね」
「どういうところ?」
「すぐに庇うところです。あんなの、使えないなら叱られて当然でしょう?」
「失敗と八つ当たりは違います」
「あら」
ミレイユはくすくす笑った。
「八つ当たりですって。ひどいわ。お姉様は、私が気分で人をいじめているとでもおっしゃるの?」
実際そうだった。だが、それを口にしたところで、この義妹は傷つかない。むしろ楽しむ。
セレナが沈黙すると、ミレイユは満足げに唇を上げた。
「私はただ、見ていて不愉快だったから直そうとしただけですわ」
「不愉快?」
「ええ。あの子の顔、気に入らなかったもの」
あっけらかんと告げられた言葉に、セレナは寒気すら覚えた。
理由ですらない。
ただ気に入らない、それだけで人を叩こうとする。
いや、きっとこの子にとってはそれで十分なのだ。自分が不快だと思った、その事実だけで、相手を痛めつける理由になる。
「ミレイユ」
「何かしら」
「あなたは、いつか必ず自分のしたことの意味を知るわ」
一瞬だけ、ミレイユの笑みが止まった。
けれど次の瞬間には、鈴を転がすような笑い声が廊下に響く。
「まあ、お姉様ったら。まるで私が罰でも受けるみたいな言い方ですのね」
彼女は一歩近づき、セレナの耳元で甘く囁いた。
「でも、ご安心なさって。罰を受けるのは、いつだって弱いほうですわ」
その言葉は、冷たい刃のように胸に落ちた。
ミレイユは何事もなかったように踵を返し、軽やかな足取りで去っていく。朝の光のなかで、その後ろ姿はどこまでも無邪気で美しかった。
それが余計におぞましい。
セレナは廊下に残された割れたティーカップを見下ろした。白磁の破片が床に散っている。さっきの侍女は取りに戻れないだろう。
彼女は自ら膝を折り、欠片を一つずつ拾い始めた。
「お嬢様」
駆け寄ってきたのはグレアムだった。騒ぎを聞きつけたらしい。
「私がやります」
「大丈夫です。すぐ済むわ」
「しかし……」
老執事は言いかけて、飲み込んだ。
セレナの白い指先に、小さな欠片が触れる。かすかに皮膚が切れ、赤い筋がにじんだ。
それでも痛いとは思わない。
こんなもの、とうに慣れてしまった。
「……旦那様には」
「言わなくていいわ」
セレナは静かに答えた。
「言っても、何も変わらないもの」
グレアムが苦しげに眉を寄せる。
セレナはそれ以上何も言わなかった。
言えば、きっと老執事を悲しませるだけだ。
欠片をすべて拾い終えると、彼女は立ち上がった。切れた指先から落ちた血を、ハンカチでそっと押さえる。
ふと、窓の外から馬車の音が聞こえた。
伯爵家の門前に、一台の黒い馬車が止まっているのが見える。家紋を見ればすぐに分かった。ヴェルド侯爵家のものだ。
ルシアンが来たのだ。
セレナの胸がわずかにざわつく。
婚約者。そう呼ぶべき相手のはずなのに、最近の彼は以前とは少し違って見えた。優しく整った笑みの奥で、何か別のものが静かにこちらを見ている気がする。
その視線が誰へ向いているのか。
セレナはまだ、はっきりとは掴めていなかった。
だが一つだけ分かることがある。
この家の空気は、少しずつ何かの形を変え始めている。
割れたカップのように。
表面は白く整っていても、ひとたびひびが入れば、もう元の形には戻らない。
セレナはハンカチを握りしめたまま、窓の外の黒い馬車を見つめた。
まるで、何か悪いものが扉の向こうまで来ているように見えた。
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