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第六話 夜会の前夜
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第六話 夜会の前夜
夜会の前日、フォルディア伯爵家は朝から張り詰めた弦のようだった。
磨き上げられた階段の手すり。蝋の匂いが残る床。朝早くから出入りする仕立屋、花屋、菓子職人。表向きは華やかな準備の最終日である。けれどその華やかさの下では、誰もがひそやかに息を殺していた。
失敗が許されないからではない。
失敗した時に、誰の機嫌を損ねるか分からないからだ。
セレナは朝のうちから広間の配置を確認し、招待客名簿の最終整理を済ませ、厨房と給仕係の動線まで目を通していた。もうここまでくれば、大きく変えられることは少ない。だからこそ、最後の微細な揺れが全体を狂わせる。
「花は予定通り、白薔薇を中心に」
セレナは広間にいた装花係へ言った。
「南側の窓辺だけ、淡い青を少し足して。夕方の光で白が飛びすぎるから」
「かしこまりました」
「燭台の位置は中央を二寸下げてください。高すぎると着席した時に視線が切れます」
指示を受けた使用人たちがすぐに動き出す。その様子を見ながら、セレナは心のどこかで、この家の歯車はまだ動くのだと思った。
少なくとも、自分がここにいる間は。
「お姉様って、本当にそういうことだけは抜かりありませんのね」
背後から落ちた声に、広間の空気がわずかに揺れた。
振り返ると、ミレイユが立っていた。淡い藤色の昼用ドレスをまとい、唇にだけやけに華やかな色を引いている。夜会本番ではないのに、すでに舞台に立つつもりの顔だ。
「そういうことだけ、ではなく、必要なことだからしているの」
セレナは穏やかに答えた。
ミレイユはくすくす笑う。
「必要ねえ。私はもっと楽しいことを考えておりますのに」
その言葉に嫌な予感が走る。
「何を?」
「秘密ですわ」
ミレイユは広間へ数歩進み、飾りつけられた花を見上げた。
「でも明日は、きっと素敵な夜になりますわ。私にとっても、お姉様にとっても」
その声音の底に、妙に甘い確信があった。
セレナは義妹の横顔を見つめる。この女は何かを知っている。もしくは、何かを起こすつもりでいる。
けれど問い詰めたところで、きっと「何のこと?」と微笑むだけだろう。
「今さら悪戯心を出さないで」
「悪戯?」
ミレイユは目を丸くした。
「ひどいわ、お姉様。私はただ、皆様が楽しめる夜会になればと思っているだけですのに」
その台詞を、何人が信じるだろう。少なくともこの広間にいる使用人たちは、一人として信じていないはずだ。けれど誰も顔には出さない。出せない。
ミレイユはその沈黙さえ、自分に向けられた服従としか受け取らない。
そこへ、グレアムが扉口に現れた。
「お嬢様」
その呼び方だけで、セレナには誰を呼んでいるのか分かる。グレアムはミレイユの前では決して彼女を“お嬢様”とは呼ばない。
「何かしら」
「ヴェルド侯爵家の馬車が到着なさいました」
セレナの指先がほんのわずかに強張った。
ルシアンが来た。
前日にまで顔を出す理由は、本来なら少ない。必要な連絡なら書簡で足りる。だがもう、その“本来なら”が通じる段階ではないのかもしれない。
ミレイユの顔がぱっと華やいだ。
「あら、まあ!」
それがあまりにも露骨で、広間にいた若い侍女の肩がぴくりと揺れた。
セレナはその反応を見逃さなかった。皆、知っているのだ。もう隠しようがないところまで来ていると。
「お父様のところへ?」
セレナが尋ねると、グレアムはわずかに目を伏せた。
「……先に客間へ通すよう仰せつかっております」
父の指示なのだろう。だがその“先に”の一語が妙に重かった。
ミレイユは嬉しさを隠しきれないまま、セレナの顔色をうかがう。
「お姉様、ご一緒に参りましょう?」
どこまでも甘い声。
セレナは数秒黙ってから、広間の責任者へ最低限の指示を残し、客間へ向かった。
廊下を歩く間、ミレイユは一度も黙らなかった。
「明日のドレス、まだお見せしていませんでしたわね」
「そう」
「とっても綺麗な色なの。ルシアン様にもきっとお褒めいただけると思うの」
そのたびに、廊下ですれ違う使用人たちが深く頭を下げる。彼らは聞いていないふりをしているが、耳を塞ぐことはできない。
セレナはようやく分かった。
ミレイユは、隠すつもりがもうないのだ。
客間の扉が開けられると、ルシアンはすでに立ち上がっていた。濃い灰青の上着に身を包み、相変わらず隙のない佇まい。見る者が見れば理想の青年貴族そのものだ。
「お忙しいところ失礼いたします」
彼はまずセレナに一礼した。
「前日になって、どうしても確認したいことがありまして」
確認したいこと。
その口実がどこまで本当なのか、もはや測る気にもなれない。
「何をですか」
セレナが淡々と問うと、ルシアンは笑みを崩さないまま答えた。
「着席順です。明日は私の隣にどなたが来られるのか」
一瞬、客間が静まった。
それは当然、婚約者であるセレナのはずだ。改めて確認するまでもない。
だがルシアンは、あえてそれを口にした。
まるで、その当然がもう当然ではないと皆に思い出させるように。
ミレイユが小さく息を呑む音がした。芝居じみたその仕草さえ、今日はいやに露骨だった。
「お姉様のはずですわ」
彼女はにこやかに言った。
「でも、もし私が隣でも、少しもおかしくはないのではなくて?」
セレナは義妹を見た。
継母ならここで「まあ、冗談でもそんなことは」と笑って収めただろう。父なら気まずそうに咳払いする。だが客間にはまだ父も継母もいない。
そしてルシアンは、止めなかった。
「どうしてそう思うのです?」
穏やかに問うその声音に、ミレイユは勇気づけられたように微笑む。
「だって、お姉様はあまりに立派すぎて、皆の前でも隙がありませんもの。私はもっと親しみやすく笑えますわ」
その言い方は、明らかにセレナを貶める意図を含んでいた。
けれどルシアンはただ目を細める。
「確かに、あなたは人を和ませる力をお持ちだ」
まただ、とセレナは思った。
誰も正面から傷つけない言葉で、少しずつ椅子の位置をずらしていく。
ミレイユはうっとりしたように頬を染めた。
「まあ……」
「ただ」
ルシアンはそこで視線をセレナへ移す。
「場を整える力は、また別の価値だ」
正論。
だが、その正論を“今ここで”口にすること自体が異様なのだ。婚約者の席を巡る軽口めいた会話を、あえて価値の比較へ持ち込んでいる。
セレナははっきりと理解した。
これは遊びではない。
彼はもう、自分とミレイユの立ち位置を試している。
その時、客間の外から足音が近づき、父ローレンス伯爵と継母イザベルが入ってきた。
「待たせてしまってすまない」
「まあ、皆さんお揃いで」
継母の視線は、ほとんど反射のようにミレイユとルシアンの距離を見て、そして笑みを作った。
「何のお話を?」
ミレイユは嬉しそうに答える。
「明日の席順ですわ。ルシアン様のお隣、私でもおかしくないのではないかしらって申し上げたの」
普通なら、冗談でも顔色が変わるような言葉だった。
だが継母は一瞬驚いたあと、すぐに口元へ手を添えて笑う。
「まあ、あなたったら」
それだけだ。
たしなめもしない。
セレナはその反応を見て、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。もう、この家の大人たちは境界を守らない。守る気がない。見たいものを見て、都合の悪いものから目を逸らすだけだ。
父は気まずそうに視線を泳がせたが、やはり何も言わない。
ルシアンだけが穏やかなまま、その沈黙を眺めている。
「もちろん」
彼がゆるやかに口を開く。
「夜会の席は礼に従うべきでしょう」
その一言で、場は一応収まった。
ミレイユはほんの少し不満そうに唇を尖らせ、継母はほっとしたように笑う。父は救われたような顔をする。
だがセレナには分かっていた。
これは火を消したのではない。
ただ、明日まで燃え広がらないよう覆いをかけただけだ。
話は表向き、明日の段取りと客の迎え方へ移った。セレナは必要な受け答えだけをし、余計な感情を挟まないよう努めた。ここで乱れれば、待っていましたとばかりにミレイユが涙を見せるだろう。
けれど会話の端々で、彼女は何度もルシアンへ視線を向ける。そのたびにルシアンは、拒まない。甘やかしもしない。ただ許している。
それがいちばん恐ろしかった。
客間を辞したあと、セレナは一人で裏階段のほうへ向かった。人目につかないその廊下は少し暗く、昼間だというのに外の喧騒が遠かった。
途中、誰かが低い声で話しているのが聞こえた。
足を止める。
磨き上げられた柱の陰、開きかけた小部屋の向こうから、若い侍女たちのひそやかな声が漏れていた。
「……本当に、あのままで大丈夫なのかしら」
「聞こえるわよ、やめなさい」
「でも、見ていられないもの」
「セレナお嬢様が……」
そこで声は途切れた。誰かがセレナの気配に気づいたのだろう。慌てて扉が閉まる音がした。
セレナは咎めなかった。
今さらだ。屋敷中が気づいている。婚約者と義妹の距離の異様さを。けれど気づいているだけで、誰も止められない。
止めるべき大人たちが、止める気を失っているから。
自室へ戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。ヴェルド侯爵家の紋章。開けるまでもなく、ルシアンからだと分かる。
セレナは少しだけためらってから、封を切った。
中には短い手紙が一枚。
『明日は大切な夜になるでしょう。
どうか、取り乱さずに。
あなたなら耐えられると信じています。
ルシアン・ヴェルド』
たったそれだけ。
けれど、その文面を見た瞬間、セレナの指先から血の気が引いた。
大切な夜になるでしょう。
取り乱さずに。
あなたなら耐えられる。
まるで、明日何かが起こることを知っているような――いや、起こすつもりでいる者の書く文だ。
セレナは手紙を机に置いたまま、しばらく動けなかった。
これまでも違和感はあった。
ミレイユの挑発。
ルシアンの黙認。
継母の甘さ。
父の沈黙。
それらが少しずつ絡まり合って、嫌な形を作りつつあるのは分かっていた。
けれど今、初めてその形が輪郭を持った気がした。
明日。
夜会の場で、何かが起こる。
しかもそれは偶然ではない。
ルシアンは知っている。
あるいは、最初からそこへ持っていくつもりでいる。
セレナは椅子へ腰を下ろし、机の上の手紙を見つめた。蝋燭の火が小さく揺れ、紙の影が震える。
取り乱さずに。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
取り乱した姿を見たいのではないか。
耐えるところを見たいのではないか。
そう思うと、手紙の一文字一文字がひどく冷たかった。
窓の外では、夜会のために運び込まれた花が、夕暮れの光の中で白く霞んでいる。
白薔薇。
本来なら、明日の広間を静かに整えるはずの花だ。
だがセレナには、それがまるで誰かの手で整えられた祭壇の花のように見えた。
これは前夜だ。
何かが壊れる前の。
それでも、逃げることはできない。
自分が逃げれば、それこそ“冷たい姉”の完成だ。父も継母も、きっとその解釈に飛びつくだろう。ミレイユは涙を浮かべて可哀想な妹になり、ルシアンは穏やかな顔でそれを受け止める。
だから立つしかない。
何が起きても。
セレナは手紙をたたみ、引き出しへしまった。
その指先は冷えていたが、不思議と震えてはいなかった。
明日、すべてがはっきりする。
そう思った瞬間、悲しさより先に、妙な静けさが胸に落ちた。
たぶんもう、自分の心のどこかは知っているのだ。
この婚約は、守るべき約束ではなかったのかもしれないと。
けれどそれを認めるのは、明日の夜でいい。
今はまだ、伯爵家の長女としてやるべきことが残っている。
セレナは立ち上がり、夜会当日の最終確認書を手に取った。
壊れる前のものほど、美しく整って見える。
その事実だけが、どうしようもなく皮肉だった。
夜会の前日、フォルディア伯爵家は朝から張り詰めた弦のようだった。
磨き上げられた階段の手すり。蝋の匂いが残る床。朝早くから出入りする仕立屋、花屋、菓子職人。表向きは華やかな準備の最終日である。けれどその華やかさの下では、誰もがひそやかに息を殺していた。
失敗が許されないからではない。
失敗した時に、誰の機嫌を損ねるか分からないからだ。
セレナは朝のうちから広間の配置を確認し、招待客名簿の最終整理を済ませ、厨房と給仕係の動線まで目を通していた。もうここまでくれば、大きく変えられることは少ない。だからこそ、最後の微細な揺れが全体を狂わせる。
「花は予定通り、白薔薇を中心に」
セレナは広間にいた装花係へ言った。
「南側の窓辺だけ、淡い青を少し足して。夕方の光で白が飛びすぎるから」
「かしこまりました」
「燭台の位置は中央を二寸下げてください。高すぎると着席した時に視線が切れます」
指示を受けた使用人たちがすぐに動き出す。その様子を見ながら、セレナは心のどこかで、この家の歯車はまだ動くのだと思った。
少なくとも、自分がここにいる間は。
「お姉様って、本当にそういうことだけは抜かりありませんのね」
背後から落ちた声に、広間の空気がわずかに揺れた。
振り返ると、ミレイユが立っていた。淡い藤色の昼用ドレスをまとい、唇にだけやけに華やかな色を引いている。夜会本番ではないのに、すでに舞台に立つつもりの顔だ。
「そういうことだけ、ではなく、必要なことだからしているの」
セレナは穏やかに答えた。
ミレイユはくすくす笑う。
「必要ねえ。私はもっと楽しいことを考えておりますのに」
その言葉に嫌な予感が走る。
「何を?」
「秘密ですわ」
ミレイユは広間へ数歩進み、飾りつけられた花を見上げた。
「でも明日は、きっと素敵な夜になりますわ。私にとっても、お姉様にとっても」
その声音の底に、妙に甘い確信があった。
セレナは義妹の横顔を見つめる。この女は何かを知っている。もしくは、何かを起こすつもりでいる。
けれど問い詰めたところで、きっと「何のこと?」と微笑むだけだろう。
「今さら悪戯心を出さないで」
「悪戯?」
ミレイユは目を丸くした。
「ひどいわ、お姉様。私はただ、皆様が楽しめる夜会になればと思っているだけですのに」
その台詞を、何人が信じるだろう。少なくともこの広間にいる使用人たちは、一人として信じていないはずだ。けれど誰も顔には出さない。出せない。
ミレイユはその沈黙さえ、自分に向けられた服従としか受け取らない。
そこへ、グレアムが扉口に現れた。
「お嬢様」
その呼び方だけで、セレナには誰を呼んでいるのか分かる。グレアムはミレイユの前では決して彼女を“お嬢様”とは呼ばない。
「何かしら」
「ヴェルド侯爵家の馬車が到着なさいました」
セレナの指先がほんのわずかに強張った。
ルシアンが来た。
前日にまで顔を出す理由は、本来なら少ない。必要な連絡なら書簡で足りる。だがもう、その“本来なら”が通じる段階ではないのかもしれない。
ミレイユの顔がぱっと華やいだ。
「あら、まあ!」
それがあまりにも露骨で、広間にいた若い侍女の肩がぴくりと揺れた。
セレナはその反応を見逃さなかった。皆、知っているのだ。もう隠しようがないところまで来ていると。
「お父様のところへ?」
セレナが尋ねると、グレアムはわずかに目を伏せた。
「……先に客間へ通すよう仰せつかっております」
父の指示なのだろう。だがその“先に”の一語が妙に重かった。
ミレイユは嬉しさを隠しきれないまま、セレナの顔色をうかがう。
「お姉様、ご一緒に参りましょう?」
どこまでも甘い声。
セレナは数秒黙ってから、広間の責任者へ最低限の指示を残し、客間へ向かった。
廊下を歩く間、ミレイユは一度も黙らなかった。
「明日のドレス、まだお見せしていませんでしたわね」
「そう」
「とっても綺麗な色なの。ルシアン様にもきっとお褒めいただけると思うの」
そのたびに、廊下ですれ違う使用人たちが深く頭を下げる。彼らは聞いていないふりをしているが、耳を塞ぐことはできない。
セレナはようやく分かった。
ミレイユは、隠すつもりがもうないのだ。
客間の扉が開けられると、ルシアンはすでに立ち上がっていた。濃い灰青の上着に身を包み、相変わらず隙のない佇まい。見る者が見れば理想の青年貴族そのものだ。
「お忙しいところ失礼いたします」
彼はまずセレナに一礼した。
「前日になって、どうしても確認したいことがありまして」
確認したいこと。
その口実がどこまで本当なのか、もはや測る気にもなれない。
「何をですか」
セレナが淡々と問うと、ルシアンは笑みを崩さないまま答えた。
「着席順です。明日は私の隣にどなたが来られるのか」
一瞬、客間が静まった。
それは当然、婚約者であるセレナのはずだ。改めて確認するまでもない。
だがルシアンは、あえてそれを口にした。
まるで、その当然がもう当然ではないと皆に思い出させるように。
ミレイユが小さく息を呑む音がした。芝居じみたその仕草さえ、今日はいやに露骨だった。
「お姉様のはずですわ」
彼女はにこやかに言った。
「でも、もし私が隣でも、少しもおかしくはないのではなくて?」
セレナは義妹を見た。
継母ならここで「まあ、冗談でもそんなことは」と笑って収めただろう。父なら気まずそうに咳払いする。だが客間にはまだ父も継母もいない。
そしてルシアンは、止めなかった。
「どうしてそう思うのです?」
穏やかに問うその声音に、ミレイユは勇気づけられたように微笑む。
「だって、お姉様はあまりに立派すぎて、皆の前でも隙がありませんもの。私はもっと親しみやすく笑えますわ」
その言い方は、明らかにセレナを貶める意図を含んでいた。
けれどルシアンはただ目を細める。
「確かに、あなたは人を和ませる力をお持ちだ」
まただ、とセレナは思った。
誰も正面から傷つけない言葉で、少しずつ椅子の位置をずらしていく。
ミレイユはうっとりしたように頬を染めた。
「まあ……」
「ただ」
ルシアンはそこで視線をセレナへ移す。
「場を整える力は、また別の価値だ」
正論。
だが、その正論を“今ここで”口にすること自体が異様なのだ。婚約者の席を巡る軽口めいた会話を、あえて価値の比較へ持ち込んでいる。
セレナははっきりと理解した。
これは遊びではない。
彼はもう、自分とミレイユの立ち位置を試している。
その時、客間の外から足音が近づき、父ローレンス伯爵と継母イザベルが入ってきた。
「待たせてしまってすまない」
「まあ、皆さんお揃いで」
継母の視線は、ほとんど反射のようにミレイユとルシアンの距離を見て、そして笑みを作った。
「何のお話を?」
ミレイユは嬉しそうに答える。
「明日の席順ですわ。ルシアン様のお隣、私でもおかしくないのではないかしらって申し上げたの」
普通なら、冗談でも顔色が変わるような言葉だった。
だが継母は一瞬驚いたあと、すぐに口元へ手を添えて笑う。
「まあ、あなたったら」
それだけだ。
たしなめもしない。
セレナはその反応を見て、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。もう、この家の大人たちは境界を守らない。守る気がない。見たいものを見て、都合の悪いものから目を逸らすだけだ。
父は気まずそうに視線を泳がせたが、やはり何も言わない。
ルシアンだけが穏やかなまま、その沈黙を眺めている。
「もちろん」
彼がゆるやかに口を開く。
「夜会の席は礼に従うべきでしょう」
その一言で、場は一応収まった。
ミレイユはほんの少し不満そうに唇を尖らせ、継母はほっとしたように笑う。父は救われたような顔をする。
だがセレナには分かっていた。
これは火を消したのではない。
ただ、明日まで燃え広がらないよう覆いをかけただけだ。
話は表向き、明日の段取りと客の迎え方へ移った。セレナは必要な受け答えだけをし、余計な感情を挟まないよう努めた。ここで乱れれば、待っていましたとばかりにミレイユが涙を見せるだろう。
けれど会話の端々で、彼女は何度もルシアンへ視線を向ける。そのたびにルシアンは、拒まない。甘やかしもしない。ただ許している。
それがいちばん恐ろしかった。
客間を辞したあと、セレナは一人で裏階段のほうへ向かった。人目につかないその廊下は少し暗く、昼間だというのに外の喧騒が遠かった。
途中、誰かが低い声で話しているのが聞こえた。
足を止める。
磨き上げられた柱の陰、開きかけた小部屋の向こうから、若い侍女たちのひそやかな声が漏れていた。
「……本当に、あのままで大丈夫なのかしら」
「聞こえるわよ、やめなさい」
「でも、見ていられないもの」
「セレナお嬢様が……」
そこで声は途切れた。誰かがセレナの気配に気づいたのだろう。慌てて扉が閉まる音がした。
セレナは咎めなかった。
今さらだ。屋敷中が気づいている。婚約者と義妹の距離の異様さを。けれど気づいているだけで、誰も止められない。
止めるべき大人たちが、止める気を失っているから。
自室へ戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。ヴェルド侯爵家の紋章。開けるまでもなく、ルシアンからだと分かる。
セレナは少しだけためらってから、封を切った。
中には短い手紙が一枚。
『明日は大切な夜になるでしょう。
どうか、取り乱さずに。
あなたなら耐えられると信じています。
ルシアン・ヴェルド』
たったそれだけ。
けれど、その文面を見た瞬間、セレナの指先から血の気が引いた。
大切な夜になるでしょう。
取り乱さずに。
あなたなら耐えられる。
まるで、明日何かが起こることを知っているような――いや、起こすつもりでいる者の書く文だ。
セレナは手紙を机に置いたまま、しばらく動けなかった。
これまでも違和感はあった。
ミレイユの挑発。
ルシアンの黙認。
継母の甘さ。
父の沈黙。
それらが少しずつ絡まり合って、嫌な形を作りつつあるのは分かっていた。
けれど今、初めてその形が輪郭を持った気がした。
明日。
夜会の場で、何かが起こる。
しかもそれは偶然ではない。
ルシアンは知っている。
あるいは、最初からそこへ持っていくつもりでいる。
セレナは椅子へ腰を下ろし、机の上の手紙を見つめた。蝋燭の火が小さく揺れ、紙の影が震える。
取り乱さずに。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
取り乱した姿を見たいのではないか。
耐えるところを見たいのではないか。
そう思うと、手紙の一文字一文字がひどく冷たかった。
窓の外では、夜会のために運び込まれた花が、夕暮れの光の中で白く霞んでいる。
白薔薇。
本来なら、明日の広間を静かに整えるはずの花だ。
だがセレナには、それがまるで誰かの手で整えられた祭壇の花のように見えた。
これは前夜だ。
何かが壊れる前の。
それでも、逃げることはできない。
自分が逃げれば、それこそ“冷たい姉”の完成だ。父も継母も、きっとその解釈に飛びつくだろう。ミレイユは涙を浮かべて可哀想な妹になり、ルシアンは穏やかな顔でそれを受け止める。
だから立つしかない。
何が起きても。
セレナは手紙をたたみ、引き出しへしまった。
その指先は冷えていたが、不思議と震えてはいなかった。
明日、すべてがはっきりする。
そう思った瞬間、悲しさより先に、妙な静けさが胸に落ちた。
たぶんもう、自分の心のどこかは知っているのだ。
この婚約は、守るべき約束ではなかったのかもしれないと。
けれどそれを認めるのは、明日の夜でいい。
今はまだ、伯爵家の長女としてやるべきことが残っている。
セレナは立ち上がり、夜会当日の最終確認書を手に取った。
壊れる前のものほど、美しく整って見える。
その事実だけが、どうしようもなく皮肉だった。
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