8 / 38
第八話 帰る場所
しおりを挟む
第八話 帰る場所
大広間を出た瞬間、音が遠くなった。
楽師たちの旋律も、ざわめく客たちの声も、分厚い扉一枚でひどく曖昧になる。けれど完全には消えない。その中途半端さが、かえって現実味を帯びて耳に残った。
セレナは廊下の中央で立ち止まらなかった。
止まれば、たぶん誰かが追ってくる。
慰める顔をした侍女かもしれない。困惑した父かもしれない。あるいは、何か言い訳めいた言葉を並べる継母かもしれない。
どれも今は聞きたくなかった。
彼女はまっすぐ、自室ではなく伯爵家の執務棟へ向かった。
こんな時に何を、と自分でも少し思った。けれど、こういう時だからこそ、足がそこへ向いたのだろう。泣くより先に、確かめなければならないことがある。
フォルディア伯爵家の長女として。
この家を、ずっと見てきた者として。
執務棟へ続く回廊には人が少ない。夜会の間、表に出るべき使用人はほとんど大広間に詰めている。廊下の灯りも最低限で、かえってその静けさがありがたかった。
帳簿室の扉を開けると、そこにはすでにグレアムがいた。
老執事は立ち上がりかけて、すぐにその動きを止めた。セレナの顔を見て、何を言うべきかを一瞬で考え、そして余計な慰めを飲み込んだらしい。
「お嬢様」
「……少し、ここを使わせて」
「もちろんでございます」
それだけだった。
だから救われる。
今のセレナには、哀れみも励ましもいらない。ただ、いつも通りの場所が必要だった。
帳簿室はほの暗く、紙と蝋の匂いが静かに漂っていた。机の上には、昼に確認した領地報告書と、夜会後に父へ見せるつもりだった簡単な収支一覧が置かれている。
ついさっきまで“婚約者を伴って夜会を締めくくる長女”として立っていた自分が、今は一人でここに立っている。その落差はおかしなほど大きいのに、机も椅子も、紙の束も、何一つ変わっていない。
セレナはゆっくり椅子に腰を下ろした。
両手を膝に置く。
震えていない。
そのことに、少しだけ驚いた。
「湯を持ってまいりましょうか」
グレアムが問う。
「お願い」
老執事は静かに一礼して出ていった。
一人になると、帳簿室の静けさが一層深くなる。遠くで鳴る音楽だけが、現実がまだ続いていると教えてくる。
セレナは目を閉じた。
婚約解消。
あまりにも大勢の前で、あまりにも明確に告げられた。あれで後戻りはない。たとえ明日になって父が弁解しようと、継母が涙を見せようと、ミレイユが「そんなつもりでは」と言おうと、もう社交界は聞き入れないだろう。
婚約は壊れた。
しかも最も見世物にしやすい形で。
胸の奥にようやく痛みがじわじわ広がってきた。遅れてやってくる痛みだった。傷ついたことに気づくまで、少し時間がかかるような。
ルシアンの顔が浮かぶ。
穏やかで整ったまま、自分の婚約を切り捨てた男。
ミレイユの涙を受け止め、自分の言葉でそれを正義に変えた男。
そして何より――最初から、その場へ持っていくつもりだった男。
セレナは机の端をそっと握った。
怒りより先に、冷たい理解がある。
この人は、本当に自分を守るつもりがなかった。
それどころか、自分がどこまで取り乱さずに立っていられるかを見ていた。
そう思うと、胸が焼けるように痛むのに、どこかで妙に納得している自分もいた。
違和感はずっとあったのだ。
見たくなかっただけで。
扉が軽く叩かれ、グレアムが湯の入ったカップを持って戻ってきた。置かれた湯気は優しく、室内の冷えた空気に少しだけ温度を足した。
「ありがとうございます」
「もったいないお言葉です」
グレアムは少しだけ間を置いてから、低く言った。
「今夜のこと、屋敷の者どもは皆、見ておりました」
「……ええ」
「見ていて、何もできなかった」
セレナはカップに手を添えたまま、顔を上げた。
老執事の表情は変わらない。だがその声には、長年仕えてきた者の悔しさがにじんでいた。
「誰もお嬢様が悪いと思ってはおりません」
その一言が、予想外に胸に響いた。
セレナは一瞬だけ言葉を失った。
今夜、大広間で自分に向けられた視線の多くは、もう“婚約を切られた女”を見るものだった。そこに善悪はない。あるのは見世物への好奇心だけだ。
だからこそ、グレアムの言葉は救いだった。
「……ありがとう」
かすれた声になった。
老執事はそれ以上何も言わなかった。静かに一礼し、帳簿室の隅へ下がる。その距離感がありがたい。
やがて、廊下の向こうが少し騒がしくなった。
急ぎ足の音。
次いで、戸惑ったような女の声。
「お姉様、こちらにいらっしゃいますか?」
ミレイユだ。
セレナの指先が、カップの縁で止まる。
来るだろうとは思っていた。あの女が、勝ち誇りを胸にそのまま眠れるはずがない。必ず顔を見に来る。奪ったことを確かめに来る。
グレアムが一歩出ようとしたが、セレナは首を振った。
「いいわ。通して」
「しかし――」
「大丈夫」
老執事が渋々扉を開けると、ミレイユは待っていたと言わんばかりに入ってきた。薔薇色のドレスはまだ少しも乱れていない。頬は上気し、瞳は灯りを受けて勝利の色を帯びていた。
その後ろに継母イザベルの姿も見える。だが彼女は中へは入らず、廊下で不安そうに立ち尽くしていた。どうしたらよいか分からないのだろう。
「お姉様」
ミレイユは痛ましげな顔を作った。
「こんなところにおいでだったのね。皆さま、心配していらしてよ」
嘘だ。
いや、嘘ですらないのかもしれない。心配という言葉で言い換えられた好奇心なら、たしかにあるだろう。
「心配なら、そっとしておいてくださる?」
セレナが淡々と言うと、ミレイユはまるで傷ついたように眉を下げた。
「そんな……私、本当はこんなことになるなんて思っていなかったの」
グレアムの指が微かに動いた。おそらく、無礼を咎めたいのだろう。だがセレナは動じなかった。
「思っていなかった?」
「ええ。私、ただ……」
ミレイユは一歩、二歩と部屋の中へ進み、机の前で立ち止まった。
「ただ、もう我慢できなかっただけなの」
言葉を選ぶふりをしている。
その一つひとつが、どれほど綺麗に並べられていても、セレナにはもう何の意味もない。
「ルシアン様が、私の話を聞いてくださって」
その時、ミレイユの唇の端がわずかに吊り上がった。
「私のことをちゃんと見てくださって」
やはり、それが嬉しいのだ。
可哀想な妹として守られたことが。姉の婚約者を奪えたことが。
「……それを、わざわざ伝えに来たの」
セレナは静かに尋ねた。
ミレイユは少しだけ首をかしげる。
「だって、お姉様にはちゃんと分かっていてほしいもの」
「何を?」
「選ばれたのは、私だということ」
帳簿室の空気が凍りついた。
廊下で控えていた継母が小さく息を呑む。さすがに、その露骨さは止めるべきだと思ったのかもしれない。けれど遅い。もう何もかも遅い。
セレナはミレイユを見上げた。
この女は今、自分が勝者だと信じきっている。姉の婚約者を奪い、夜会の中心で涙を見せ、男に選ばれる。それを幸福の完成だと思っている。
そして、セレナにはもう一つ分かっていた。
ミレイユは何も知らない。
ルシアンが自分をどう見ているかを。
あの男が、気の強い女を折る瞬間にしか興味を持っていないことを。
今のミレイユは、勝ったと思って檻へ自分から足を踏み入れたにすぎない。
その事実が、ひどく冷たく胸に落ちた。
「そう」
セレナはただそれだけを言った。
ミレイユの眉がわずかに寄る。
もっと痛がる顔が見たかったのだろう。泣くか、怒るか、縋るか。そういうものを期待していたのに、返ってきたのはただの短い相槌だ。
「お姉様、悔しくないの?」
ついに本音が零れる。
「私は嬉しいわ。ずっと、お姉様ばかりが持っているものを見てきたもの。皆がお姉様を褒めて、頼って、そして一番いいものはいつだってお姉様のところへ行く」
声が次第に熱を帯びる。
「でも、とうとう違ったでしょう? 一番大切なものが、私のところへ来たのよ」
継母が「ミレイユ」と小声で咎める。だがもう止まらない。
「お姉様って、本当に上手に我慢するのね」
ミレイユは笑った。
「その顔を見ると、昔から安心するの。ああ、ちゃんと私が勝ってるんだって」
セレナは静かに彼女を見た。
ここまで来ると、怒りというより虚しさが先だった。自分の痛みを娯楽にする人間に、どれほど誠実に向き合おうとしても無駄だったのだ。
「帰って」
ようやくそれだけ言う。
ミレイユは目を丸くする。
「何ですって?」
「もう十分でしょう。帰って」
「お姉様――」
「あなたが何を言っても、もう今さら何も変わらないわ」
セレナの声は低く、しかし不思議なほど安定していた。
「だから帰って。これ以上ここで勝ち誇っても、あなたが手に入れたものの価値は変わらない」
その一言で、ミレイユの顔色が変わった。
価値。
その言葉に何かを感じたのかもしれない。けれど彼女はすぐにそれを振り払うように唇を歪めた。
「ええ、そうね。価値ならこれからいくらでも証明されるわ」
吐き捨てるように言って、踵を返す。
継母は慌ててその後を追った。去り際、一度だけセレナを振り返るが、そこにあるのは心配より困惑だった。娘を止めることも、長女を庇うこともできず、ただ事態に振り回されるだけの顔。
扉が閉まる。
しばらく帳簿室には沈黙だけが残った。
やがてグレアムが低く言う。
「……あまりにも」
言葉の続きを、老執事は飲み込んだ。
セレナはそれに首を振る。
「いいの。よく分かったから」
「何がでございますか」
セレナは少しだけ目を伏せた。
「もう、あの子は私から何かを奪いたいわけじゃないの。奪ったと信じたいだけ」
その言葉が口から出た時、自分でも少し驚いた。
そうだ。
ミレイユは幸福が欲しいのではない。勝ったと感じたいだけなのだ。だから、相手が本当に何を失うのかも、自分が何を拾うのかも見ていない。
ただ、姉が空になったと信じられれば満足する。
「お嬢様……」
「だから、あの子はまだ何も分かっていない」
ルシアンの目を思い出す。
穏やかで、静かで、冷たい、あの目。
あれは恋する男の目ではなかった。
所有する前に値踏みする目。
抵抗するものがどこで折れるかを待つ目。
ミレイユはそんな男に“選ばれた”ことを喜んでいる。
その愚かさが、妙に胸を冷やした。
だが同時に、セレナの中で何かがはっきりした。
あの婚約は、もう失ったものではない。
切り離されたものだ。
アルベルトの言葉が遅れて胸の底へ落ちる。
『あなたは奪われたのではない。切り離されたのです』
その意味が、ようやく分かる気がした。
夜も更けて、帳簿室を出る頃には、楽師の音も止み、大広間のざわめきもだいぶ静まっていた。夜会はもう終わりへ向かっているのだろう。客たちは帰り支度を始め、今日の出来事は明日から一斉に社交界へ広がる。
セレナは扉の前で一度だけ立ち止まった。
これまでなら、明日の噂を思って怖くなったかもしれない。けれど今は不思議なほど静かだった。
失うものは、もう失った。
いや、違う。
失ったと思わされていたものが、本当にそうだったのかを、これから見極める時間が始まるのだ。
回廊の先に、小さく灯る壁灯が並んでいる。ひとつひとつは頼りないのに、続いていると道になる。
セレナはその灯りの列を見つめ、ゆっくりと歩き出した。
帰る場所は、まだある。
少なくとも今夜は。
そしてたぶん、自分が思っていたよりずっと遠くに、別の帰る場所もあるのだろう。まだ見えないだけで。
大広間を出た瞬間、音が遠くなった。
楽師たちの旋律も、ざわめく客たちの声も、分厚い扉一枚でひどく曖昧になる。けれど完全には消えない。その中途半端さが、かえって現実味を帯びて耳に残った。
セレナは廊下の中央で立ち止まらなかった。
止まれば、たぶん誰かが追ってくる。
慰める顔をした侍女かもしれない。困惑した父かもしれない。あるいは、何か言い訳めいた言葉を並べる継母かもしれない。
どれも今は聞きたくなかった。
彼女はまっすぐ、自室ではなく伯爵家の執務棟へ向かった。
こんな時に何を、と自分でも少し思った。けれど、こういう時だからこそ、足がそこへ向いたのだろう。泣くより先に、確かめなければならないことがある。
フォルディア伯爵家の長女として。
この家を、ずっと見てきた者として。
執務棟へ続く回廊には人が少ない。夜会の間、表に出るべき使用人はほとんど大広間に詰めている。廊下の灯りも最低限で、かえってその静けさがありがたかった。
帳簿室の扉を開けると、そこにはすでにグレアムがいた。
老執事は立ち上がりかけて、すぐにその動きを止めた。セレナの顔を見て、何を言うべきかを一瞬で考え、そして余計な慰めを飲み込んだらしい。
「お嬢様」
「……少し、ここを使わせて」
「もちろんでございます」
それだけだった。
だから救われる。
今のセレナには、哀れみも励ましもいらない。ただ、いつも通りの場所が必要だった。
帳簿室はほの暗く、紙と蝋の匂いが静かに漂っていた。机の上には、昼に確認した領地報告書と、夜会後に父へ見せるつもりだった簡単な収支一覧が置かれている。
ついさっきまで“婚約者を伴って夜会を締めくくる長女”として立っていた自分が、今は一人でここに立っている。その落差はおかしなほど大きいのに、机も椅子も、紙の束も、何一つ変わっていない。
セレナはゆっくり椅子に腰を下ろした。
両手を膝に置く。
震えていない。
そのことに、少しだけ驚いた。
「湯を持ってまいりましょうか」
グレアムが問う。
「お願い」
老執事は静かに一礼して出ていった。
一人になると、帳簿室の静けさが一層深くなる。遠くで鳴る音楽だけが、現実がまだ続いていると教えてくる。
セレナは目を閉じた。
婚約解消。
あまりにも大勢の前で、あまりにも明確に告げられた。あれで後戻りはない。たとえ明日になって父が弁解しようと、継母が涙を見せようと、ミレイユが「そんなつもりでは」と言おうと、もう社交界は聞き入れないだろう。
婚約は壊れた。
しかも最も見世物にしやすい形で。
胸の奥にようやく痛みがじわじわ広がってきた。遅れてやってくる痛みだった。傷ついたことに気づくまで、少し時間がかかるような。
ルシアンの顔が浮かぶ。
穏やかで整ったまま、自分の婚約を切り捨てた男。
ミレイユの涙を受け止め、自分の言葉でそれを正義に変えた男。
そして何より――最初から、その場へ持っていくつもりだった男。
セレナは机の端をそっと握った。
怒りより先に、冷たい理解がある。
この人は、本当に自分を守るつもりがなかった。
それどころか、自分がどこまで取り乱さずに立っていられるかを見ていた。
そう思うと、胸が焼けるように痛むのに、どこかで妙に納得している自分もいた。
違和感はずっとあったのだ。
見たくなかっただけで。
扉が軽く叩かれ、グレアムが湯の入ったカップを持って戻ってきた。置かれた湯気は優しく、室内の冷えた空気に少しだけ温度を足した。
「ありがとうございます」
「もったいないお言葉です」
グレアムは少しだけ間を置いてから、低く言った。
「今夜のこと、屋敷の者どもは皆、見ておりました」
「……ええ」
「見ていて、何もできなかった」
セレナはカップに手を添えたまま、顔を上げた。
老執事の表情は変わらない。だがその声には、長年仕えてきた者の悔しさがにじんでいた。
「誰もお嬢様が悪いと思ってはおりません」
その一言が、予想外に胸に響いた。
セレナは一瞬だけ言葉を失った。
今夜、大広間で自分に向けられた視線の多くは、もう“婚約を切られた女”を見るものだった。そこに善悪はない。あるのは見世物への好奇心だけだ。
だからこそ、グレアムの言葉は救いだった。
「……ありがとう」
かすれた声になった。
老執事はそれ以上何も言わなかった。静かに一礼し、帳簿室の隅へ下がる。その距離感がありがたい。
やがて、廊下の向こうが少し騒がしくなった。
急ぎ足の音。
次いで、戸惑ったような女の声。
「お姉様、こちらにいらっしゃいますか?」
ミレイユだ。
セレナの指先が、カップの縁で止まる。
来るだろうとは思っていた。あの女が、勝ち誇りを胸にそのまま眠れるはずがない。必ず顔を見に来る。奪ったことを確かめに来る。
グレアムが一歩出ようとしたが、セレナは首を振った。
「いいわ。通して」
「しかし――」
「大丈夫」
老執事が渋々扉を開けると、ミレイユは待っていたと言わんばかりに入ってきた。薔薇色のドレスはまだ少しも乱れていない。頬は上気し、瞳は灯りを受けて勝利の色を帯びていた。
その後ろに継母イザベルの姿も見える。だが彼女は中へは入らず、廊下で不安そうに立ち尽くしていた。どうしたらよいか分からないのだろう。
「お姉様」
ミレイユは痛ましげな顔を作った。
「こんなところにおいでだったのね。皆さま、心配していらしてよ」
嘘だ。
いや、嘘ですらないのかもしれない。心配という言葉で言い換えられた好奇心なら、たしかにあるだろう。
「心配なら、そっとしておいてくださる?」
セレナが淡々と言うと、ミレイユはまるで傷ついたように眉を下げた。
「そんな……私、本当はこんなことになるなんて思っていなかったの」
グレアムの指が微かに動いた。おそらく、無礼を咎めたいのだろう。だがセレナは動じなかった。
「思っていなかった?」
「ええ。私、ただ……」
ミレイユは一歩、二歩と部屋の中へ進み、机の前で立ち止まった。
「ただ、もう我慢できなかっただけなの」
言葉を選ぶふりをしている。
その一つひとつが、どれほど綺麗に並べられていても、セレナにはもう何の意味もない。
「ルシアン様が、私の話を聞いてくださって」
その時、ミレイユの唇の端がわずかに吊り上がった。
「私のことをちゃんと見てくださって」
やはり、それが嬉しいのだ。
可哀想な妹として守られたことが。姉の婚約者を奪えたことが。
「……それを、わざわざ伝えに来たの」
セレナは静かに尋ねた。
ミレイユは少しだけ首をかしげる。
「だって、お姉様にはちゃんと分かっていてほしいもの」
「何を?」
「選ばれたのは、私だということ」
帳簿室の空気が凍りついた。
廊下で控えていた継母が小さく息を呑む。さすがに、その露骨さは止めるべきだと思ったのかもしれない。けれど遅い。もう何もかも遅い。
セレナはミレイユを見上げた。
この女は今、自分が勝者だと信じきっている。姉の婚約者を奪い、夜会の中心で涙を見せ、男に選ばれる。それを幸福の完成だと思っている。
そして、セレナにはもう一つ分かっていた。
ミレイユは何も知らない。
ルシアンが自分をどう見ているかを。
あの男が、気の強い女を折る瞬間にしか興味を持っていないことを。
今のミレイユは、勝ったと思って檻へ自分から足を踏み入れたにすぎない。
その事実が、ひどく冷たく胸に落ちた。
「そう」
セレナはただそれだけを言った。
ミレイユの眉がわずかに寄る。
もっと痛がる顔が見たかったのだろう。泣くか、怒るか、縋るか。そういうものを期待していたのに、返ってきたのはただの短い相槌だ。
「お姉様、悔しくないの?」
ついに本音が零れる。
「私は嬉しいわ。ずっと、お姉様ばかりが持っているものを見てきたもの。皆がお姉様を褒めて、頼って、そして一番いいものはいつだってお姉様のところへ行く」
声が次第に熱を帯びる。
「でも、とうとう違ったでしょう? 一番大切なものが、私のところへ来たのよ」
継母が「ミレイユ」と小声で咎める。だがもう止まらない。
「お姉様って、本当に上手に我慢するのね」
ミレイユは笑った。
「その顔を見ると、昔から安心するの。ああ、ちゃんと私が勝ってるんだって」
セレナは静かに彼女を見た。
ここまで来ると、怒りというより虚しさが先だった。自分の痛みを娯楽にする人間に、どれほど誠実に向き合おうとしても無駄だったのだ。
「帰って」
ようやくそれだけ言う。
ミレイユは目を丸くする。
「何ですって?」
「もう十分でしょう。帰って」
「お姉様――」
「あなたが何を言っても、もう今さら何も変わらないわ」
セレナの声は低く、しかし不思議なほど安定していた。
「だから帰って。これ以上ここで勝ち誇っても、あなたが手に入れたものの価値は変わらない」
その一言で、ミレイユの顔色が変わった。
価値。
その言葉に何かを感じたのかもしれない。けれど彼女はすぐにそれを振り払うように唇を歪めた。
「ええ、そうね。価値ならこれからいくらでも証明されるわ」
吐き捨てるように言って、踵を返す。
継母は慌ててその後を追った。去り際、一度だけセレナを振り返るが、そこにあるのは心配より困惑だった。娘を止めることも、長女を庇うこともできず、ただ事態に振り回されるだけの顔。
扉が閉まる。
しばらく帳簿室には沈黙だけが残った。
やがてグレアムが低く言う。
「……あまりにも」
言葉の続きを、老執事は飲み込んだ。
セレナはそれに首を振る。
「いいの。よく分かったから」
「何がでございますか」
セレナは少しだけ目を伏せた。
「もう、あの子は私から何かを奪いたいわけじゃないの。奪ったと信じたいだけ」
その言葉が口から出た時、自分でも少し驚いた。
そうだ。
ミレイユは幸福が欲しいのではない。勝ったと感じたいだけなのだ。だから、相手が本当に何を失うのかも、自分が何を拾うのかも見ていない。
ただ、姉が空になったと信じられれば満足する。
「お嬢様……」
「だから、あの子はまだ何も分かっていない」
ルシアンの目を思い出す。
穏やかで、静かで、冷たい、あの目。
あれは恋する男の目ではなかった。
所有する前に値踏みする目。
抵抗するものがどこで折れるかを待つ目。
ミレイユはそんな男に“選ばれた”ことを喜んでいる。
その愚かさが、妙に胸を冷やした。
だが同時に、セレナの中で何かがはっきりした。
あの婚約は、もう失ったものではない。
切り離されたものだ。
アルベルトの言葉が遅れて胸の底へ落ちる。
『あなたは奪われたのではない。切り離されたのです』
その意味が、ようやく分かる気がした。
夜も更けて、帳簿室を出る頃には、楽師の音も止み、大広間のざわめきもだいぶ静まっていた。夜会はもう終わりへ向かっているのだろう。客たちは帰り支度を始め、今日の出来事は明日から一斉に社交界へ広がる。
セレナは扉の前で一度だけ立ち止まった。
これまでなら、明日の噂を思って怖くなったかもしれない。けれど今は不思議なほど静かだった。
失うものは、もう失った。
いや、違う。
失ったと思わされていたものが、本当にそうだったのかを、これから見極める時間が始まるのだ。
回廊の先に、小さく灯る壁灯が並んでいる。ひとつひとつは頼りないのに、続いていると道になる。
セレナはその灯りの列を見つめ、ゆっくりと歩き出した。
帰る場所は、まだある。
少なくとも今夜は。
そしてたぶん、自分が思っていたよりずっと遠くに、別の帰る場所もあるのだろう。まだ見えないだけで。
12
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄はしたいけれど傍にいてほしいなんて言われましても、私は貴方の母親ではありません
すだもみぢ
恋愛
「彼女は私のことを好きなんだって。だから君とは婚約解消しようと思う」
他の女性に言い寄られて舞い上がり、10年続いた婚約を一方的に解消してきた王太子。
今まで婚約者だと思うからこそ、彼のフォローもアドバイスもしていたけれど、まだそれを当たり前のように求めてくる彼に驚けば。
「君とは結婚しないけれど、ずっと私の側にいて助けてくれるんだろう?」
貴方は私を母親だとでも思っているのでしょうか。正直気持ち悪いんですけれど。
王妃様も「あの子のためを思って我慢して」としか言わないし。
あんな男となんてもう結婚したくないから我慢するのも嫌だし、非難されるのもイヤ。なんとかうまいこと立ち回って幸せになるんだから!
婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい
神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。
嘘でしょう。
その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。
そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。
「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」
もう誰かが護ってくれるなんて思わない。
ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。
だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
もう私、好きなようにさせていただきますね? 〜とりあえず、元婚約者はコテンパン〜
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
「婚約破棄ですね、はいどうぞ」
婚約者から、婚約破棄を言い渡されたので、そういう対応を致しました。
もう面倒だし、食い下がる事も辞めたのですが、まぁ家族が許してくれたから全ては大団円ですね。
……え? いまさら何ですか? 殿下。
そんな虫のいいお話に、まさか私が「はい分かりました」と頷くとは思っていませんよね?
もう私の、使い潰されるだけの生活からは解放されたのです。
だって私はもう貴方の婚約者ではありませんから。
これはそうやって、自らが得た自由の為に戦う令嬢の物語。
※本作はそれぞれ違うタイプのざまぁをお届けする、『野菜の夏休みざまぁ』作品、4作の内の1作です。
他作品は検索画面で『野菜の夏休みざまぁ』と打つとヒット致します。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
婚約破棄を望むなら〜私の愛した人はあなたじゃありません〜
みおな
恋愛
王家主催のパーティーにて、私の婚約者がやらかした。
「お前との婚約を破棄する!!」
私はこの馬鹿何言っているんだと思いながらも、婚約破棄を受け入れてやった。
だって、私は何ひとつ困らない。
困るのは目の前でふんぞり返っている元婚約者なのだから。
他の人を好きになったあなたを、私は愛することができません
天宮有
恋愛
公爵令嬢の私シーラの婚約者レヴォク第二王子が、伯爵令嬢ソフィーを好きになった。
第三王子ゼロアから聞いていたけど、私はレヴォクを信じてしまった。
その結果レヴォクに協力した国王に冤罪をかけられて、私は婚約破棄と国外追放を言い渡されてしまう。
追放された私は他国に行き、数日後ゼロアと再会する。
ゼロアは私を追放した国王を嫌い、国を捨てたようだ。
私はゼロアと新しい生活を送って――元婚約者レヴォクは、後悔することとなる。
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜
矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』
彼はいつだって誠実な婚約者だった。
嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。
『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』
『……分かりました、ロイド様』
私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。
結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。
なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。
※この作品の設定は架空のものです。
※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる