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第十話 もう戻れない席
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第十話 もう戻れない席
アルベルトからの書簡を受け取ったあとも、セレナはすぐに返事を書かなかった。
書けなかった、というより、まだその資格が自分にあるのか分からなかったのだ。
婚約を公然と破棄された翌朝に、別の家の令息から「話は聞く」と言われる。その申し出が軽薄な慰めではないことくらい、短い文面からでも分かる。だからこそ、今の自分が安易に縋るような真似をしたくなかった。
ただ、便箋に書かれた一文は、何度も心の中へ戻ってきた。
必要以上にあの家に留まる理由は、もうない。
それはまるで、誰かが長いあいだ閉じた部屋の窓を少しだけ開けたような言葉だった。急に外へ出ろと命じるのではない。ただ、空気が淀んでいることを知らせるような。
セレナは手紙を引き出しの奥へしまい、いつも通り仕事に向かった。
けれど、屋敷の空気はもう以前のそれではなかった。
午前のうちに、昨夜の件を知った客人たちからの使いがいくつも届いた。表向きは「昨夜はお世話になりました」「お見事な夜会でした」という礼状の体裁を取っている。だがその行間には、明らかに好奇と探りが滲んでいた。
あの婚約はどうなるのか。
ヴェルド侯爵家は本気なのか。
伯爵家はどう出るのか。
長女はまだ家に留まるのか。
紙に書かれていない問いばかりが、部屋に積み上がっていく。
セレナはそれらに目を通しながら、必要最低限の返信だけを選び出した。感情を乗せる必要はない。礼だけを尽くし、余計な情報は与えない。それが今できる最善だ。
「お嬢様」
グレアムが新しい束を持って入ってきた。
「こちらは昨夜お忘れになった品でございます。返却先の確認を」
「ありがとう。こちらへ」
手袋、扇、レースのハンカチ、髪飾り。どれも昨夜の混乱の中で置き去りにされたものだろう。その一つひとつを見ていると、あの華やかな夜がただの夜会だったような錯覚すら起きる。
だが違う。
大広間の真ん中で、自分の婚約は壊された。
その事実だけは、どれだけ帳面に物が並んでも消えない。
「旦那様が、お嬢様にお時間をいただきたいと」
グレアムが言った。
セレナの手が一瞬止まる。
「お父様が?」
「はい。書斎にて」
来るだろうとは思っていた。
むしろ、今朝の食堂で切り出せなかったぶん、後で改めて呼び出すしかなかったのだろう。父なりに“ちゃんと話す”つもりなのかもしれない。
セレナは机の上を整え、静かに立ち上がった。
「分かりました」
書斎へ向かう廊下はやけに長く感じられた。途中ですれ違う使用人たちは皆、いつも以上に慎重に頭を下げる。誰も何も言わない。けれどその沈黙は、今の伯爵家そのものだった。
父の書斎に入ると、ローレンス伯爵は机の向こうではなく、窓際に立っていた。背中越しに見ても疲れているのが分かる。昨夜から何度ため息をついたのだろう。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
父は振り返り、少しだけ目を伏せた。
その表情を見て、セレナは先に理解してしまった。謝罪ではない。説明でもない。きっと、もっと曖昧で、もっと自分に都合のよい話をしようとしている。
「座りなさい」
言われるまま向かいの椅子に腰を下ろす。父も遅れて席についた。机の上には昨夜の夜会の名簿、数通の手紙、そしてヴェルド侯爵家の紋章入りの封書が置かれている。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、やはり父だった。
「……昨夜のことは、すまなかった」
予想していたのに、その一言は少しだけ胸に刺さった。だが痛みより先に、遅すぎると思う気持ちが来る。
「そうですか」
セレナはそれだけ返した。
父は苦しげに眉を寄せる。
「お前にとって、どれほど屈辱だったか……」
「お父様」
セレナは静かに遮った。
「昨夜の場で、それを止めてくださらなかった時点で、今さら“屈辱だったろう”と言われても意味はありません」
父の口が閉じる。
きつい言い方だったかもしれない。けれど、ここで曖昧に受け流す気にはなれなかった。いつもそうしてきた結果が、今のこの家だ。
ローレンス伯爵はしばらく黙り込み、やがて低く言った。
「……分かっている」
分かっている。
その言葉を、この人はいったい何度“遅れて”使うのだろう。
「ヴェルド侯爵家から、今朝、正式な書簡が届いた」
父は机の上の封書を見た。
「婚約は解消とする、と」
正式な確認。
やはり昨夜のあれは激情でも衝動でもなく、最初からそのつもりで準備されていたのだ。
セレナは驚かなかった。ただ、喉の奥が少しだけ冷えた。
「理由は?」
「……性格の不一致。将来に対する考え方の相違、その他、円満な協議のうえでの解消と」
円満。
大勢の前で宣告しておいて、よくそんな言葉が使えるものだと、かえって感心しそうになる。
父もそれが分かっているからか、言いながら視線を逸らした。
「ふざけていますね」
セレナが静かに言うと、父は苦い顔で頷いた。
「私もそう思う」
けれど抗議はしないのだろう、とセレナは思った。侯爵家と真正面から争う気概など、父にはない。家の体面と波風の少なさを優先して、結局は飲み込むはずだ。
案の定、父は次にこう続けた。
「……公には、それで通すしかない」
そうだろうと思った。
だから怒る気にもなれなかった。
「それで、お父様は私に何をお望みですか」
まっすぐ問うと、父は一瞬言葉を失った。
「望む、というのは……」
「このまま静かにしていてほしい、ですか」
父の表情が揺れる。
「社交界に余計な話を流さず、家のために耐えてほしい。ミレイユのことも、今は表立って責めずにいてほしい。そういうことではありませんか」
沈黙が答えだった。
セレナはそれを見て、初めてはっきり分かった。
父は自分の傷を見ていない。見ているのは、家の評判と、これからどう繕うかだけだ。
「……お前もフォルディア伯爵家の娘なのだから」
ようやく絞り出されたその言葉に、セレナは静かに息を吐いた。
そうだ。この人はいつもそうだった。
娘を守るのではなく、“伯爵家の娘としてどう振る舞うべきか”を言う。そこにあるのは家の理屈であって、父親の情ではない。
「私はずっと、伯爵家の娘として振る舞ってきました」
声は思ったより穏やかだった。
「帳簿も社交も、使用人の采配も、領地とのやりとりも。お母様が亡くなってから、私ができることは全部してきたつもりです」
父は目を伏せた。
「……ああ」
「その結果が昨夜なら、もう十分ではありませんか」
父が顔を上げる。
「セレナ」
「私は家のために、婚約者の前でも、社交の場でも、何度も感情を飲み込んできました。ミレイユが何をしても、家の中で収まるならと耐えてきました」
それでも守られなかった。
その事実を今さら飾る気はなかった。
「昨夜、あの場で止めてくださらなかった時点で、私がこの家のために黙る理由はもう半分失われています」
半分、という言い方を選んだのは、自分でも不思議だった。完全に失われたとはまだ言えなかったのだろう。長年この家の娘として生きてきた癖は、そう簡単には消えない。
だが父には、その半分で十分伝わったらしい。
「……お前は、家を出たいのか」
ようやく核心に近い言葉が出た。
セレナは少しだけ考えた。
出たいのか。
つい数日前までなら、そんなことは考えもしなかった。ここは自分の家で、ここを支えるのが役目だと思っていたからだ。
けれど今は違う。
役目だと思っていたものが、本当に自分の役目だったのか分からなくなっている。
「分かりません」
正直に答えた。
「でも、今までと同じ場所には戻れません」
それだけは確かだった。
父の顔がわずかに歪む。痛みなのか、困惑なのかは分からない。たぶん両方なのだろう。
そこへ、扉の外で慌ただしい足音がした。
次の瞬間、ノックもなく扉が開き、ミレイユが入ってきた。
「お父様!」
継母の制止も聞かず飛び込んできたらしい。後ろには青ざめたイザベルがいる。
「どうしてお姉様と二人でお話しなさっているの?」
父が露骨に顔をしかめた。
「今は大事な話の最中だ」
「私に関係のあることでしょう?」
ミレイユはそう言い切り、セレナを見る。
「お姉様が何か言いつけているの?」
その発想がもう、すべてを語っていた。
父と長女が話すことすら、自分を不利にする相談だと思っている。家族の中に対話など存在しない。あるのは、自分に都合がいいか悪いかだけだ。
継母が弱々しく言う。
「ミレイユ、少し待ちなさいな」
「嫌ですわ」
義妹は即答した。
「私のことなのに、私を抜きに決められては困りますもの」
父が立ち上がる。
「お前は少し部屋に戻れ!」
「どうして!」
ミレイユの声が甲高くなる。
「昨夜、ルシアン様は皆様の前でちゃんとおっしゃったでしょう? もうお姉様との婚約は終わったのよ! なら、その後のことは私にも関係あるわ!」
継母の顔からさらに血の気が引いた。
「ミレイユ、お願い、言い方を――」
「お母様は黙っていて!」
ぴしゃりと言い放たれ、継母が息を呑む。
「いつもそう。肝心な時に何も言えないくせに、後になって私を止めようとするのね」
セレナは立ち上がらなかった。ただ座ったまま、その光景を見ていた。
父も母も、もうこの娘を御せない。
いや、最初から御す気などなかったのだ。泣けば許し、騒げば折れ、そうして育てた結果が今ここにある。
父が怒鳴る。
「ミレイユ!」
「何が悪いの!」
義妹は本気で分かっていない顔だった。
「私はようやく、自分の欲しいものを手に入れたのよ! どうして皆、そんな顔をするの!」
その“欲しいもの”が何なのか、彼女自身きちんと分かっているのだろうか。
ルシアンという男なのか。姉から奪ったという事実なのか。勝ったという実感なのか。
たぶん、そのどれもが混ざり合っていて、もう本人にも区別がつかないのだろう。
セレナは静かに椅子から立ち上がった。
その動きに、皆の視線が集まる。
「お父様」
父が振り向く。
「もう十分です」
「セレナ……」
「私は、これ以上この話に付き合いません」
ミレイユが何か言い返そうと口を開いたが、セレナは先に続けた。
「あなたも、お父様も、お義母様も、それぞれ好きになさってください。ただし、その結果については、もう私に同じ責任を求めないでください」
それはこの家に向けた、初めての明確な線引きだった。
父が息を呑む。
継母は言葉を失う。
ミレイユだけが、意味をうまく飲み込めずに眉をひそめていた。
「お姉様、それはどういう――」
「そのままの意味よ」
セレナは彼女を見た。
「あなたが欲しいものを奪うのなら、好きになさい。けれど、奪った後で壊れたものを私に片づけさせるつもりなら、もうお断り」
ミレイユの顔がさっとこわばる。
この女はたぶん、自分が壊した後始末をいつも誰かがしてきたことに、きちんと気づいたことすらないのだろう。
継母が震える声で言う。
「セレナ、そんな言い方をしなくても……」
セレナは静かに首を振った。
「では、どう言えば伝わるのですか」
その問いに、誰も答えられなかった。
答えられるはずがない。今まで誰も、伝わるまで言わなかったのだから。
セレナは父へ一礼した。
「失礼します」
そして、誰の返事も待たずに書斎を出た。
扉が閉まる直前、背後でミレイユの苛立った声が上がるのが聞こえた。
「何なの、お姉様ったら!」
怒りというより、思い通りに動かない玩具を前にした子どもの声だった。
廊下へ出ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
セレナは歩きながら、ようやく深く息を吐いた。
もう戻れない席がある。
婚約者の隣の席だけではない。
父に守られる娘の席も、家のために黙って働く長女の席も、もう同じ形では存在しないのだ。
それを、ようやくはっきり認められた気がした。
アルベルトからの書簡を受け取ったあとも、セレナはすぐに返事を書かなかった。
書けなかった、というより、まだその資格が自分にあるのか分からなかったのだ。
婚約を公然と破棄された翌朝に、別の家の令息から「話は聞く」と言われる。その申し出が軽薄な慰めではないことくらい、短い文面からでも分かる。だからこそ、今の自分が安易に縋るような真似をしたくなかった。
ただ、便箋に書かれた一文は、何度も心の中へ戻ってきた。
必要以上にあの家に留まる理由は、もうない。
それはまるで、誰かが長いあいだ閉じた部屋の窓を少しだけ開けたような言葉だった。急に外へ出ろと命じるのではない。ただ、空気が淀んでいることを知らせるような。
セレナは手紙を引き出しの奥へしまい、いつも通り仕事に向かった。
けれど、屋敷の空気はもう以前のそれではなかった。
午前のうちに、昨夜の件を知った客人たちからの使いがいくつも届いた。表向きは「昨夜はお世話になりました」「お見事な夜会でした」という礼状の体裁を取っている。だがその行間には、明らかに好奇と探りが滲んでいた。
あの婚約はどうなるのか。
ヴェルド侯爵家は本気なのか。
伯爵家はどう出るのか。
長女はまだ家に留まるのか。
紙に書かれていない問いばかりが、部屋に積み上がっていく。
セレナはそれらに目を通しながら、必要最低限の返信だけを選び出した。感情を乗せる必要はない。礼だけを尽くし、余計な情報は与えない。それが今できる最善だ。
「お嬢様」
グレアムが新しい束を持って入ってきた。
「こちらは昨夜お忘れになった品でございます。返却先の確認を」
「ありがとう。こちらへ」
手袋、扇、レースのハンカチ、髪飾り。どれも昨夜の混乱の中で置き去りにされたものだろう。その一つひとつを見ていると、あの華やかな夜がただの夜会だったような錯覚すら起きる。
だが違う。
大広間の真ん中で、自分の婚約は壊された。
その事実だけは、どれだけ帳面に物が並んでも消えない。
「旦那様が、お嬢様にお時間をいただきたいと」
グレアムが言った。
セレナの手が一瞬止まる。
「お父様が?」
「はい。書斎にて」
来るだろうとは思っていた。
むしろ、今朝の食堂で切り出せなかったぶん、後で改めて呼び出すしかなかったのだろう。父なりに“ちゃんと話す”つもりなのかもしれない。
セレナは机の上を整え、静かに立ち上がった。
「分かりました」
書斎へ向かう廊下はやけに長く感じられた。途中ですれ違う使用人たちは皆、いつも以上に慎重に頭を下げる。誰も何も言わない。けれどその沈黙は、今の伯爵家そのものだった。
父の書斎に入ると、ローレンス伯爵は机の向こうではなく、窓際に立っていた。背中越しに見ても疲れているのが分かる。昨夜から何度ため息をついたのだろう。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
父は振り返り、少しだけ目を伏せた。
その表情を見て、セレナは先に理解してしまった。謝罪ではない。説明でもない。きっと、もっと曖昧で、もっと自分に都合のよい話をしようとしている。
「座りなさい」
言われるまま向かいの椅子に腰を下ろす。父も遅れて席についた。机の上には昨夜の夜会の名簿、数通の手紙、そしてヴェルド侯爵家の紋章入りの封書が置かれている。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、やはり父だった。
「……昨夜のことは、すまなかった」
予想していたのに、その一言は少しだけ胸に刺さった。だが痛みより先に、遅すぎると思う気持ちが来る。
「そうですか」
セレナはそれだけ返した。
父は苦しげに眉を寄せる。
「お前にとって、どれほど屈辱だったか……」
「お父様」
セレナは静かに遮った。
「昨夜の場で、それを止めてくださらなかった時点で、今さら“屈辱だったろう”と言われても意味はありません」
父の口が閉じる。
きつい言い方だったかもしれない。けれど、ここで曖昧に受け流す気にはなれなかった。いつもそうしてきた結果が、今のこの家だ。
ローレンス伯爵はしばらく黙り込み、やがて低く言った。
「……分かっている」
分かっている。
その言葉を、この人はいったい何度“遅れて”使うのだろう。
「ヴェルド侯爵家から、今朝、正式な書簡が届いた」
父は机の上の封書を見た。
「婚約は解消とする、と」
正式な確認。
やはり昨夜のあれは激情でも衝動でもなく、最初からそのつもりで準備されていたのだ。
セレナは驚かなかった。ただ、喉の奥が少しだけ冷えた。
「理由は?」
「……性格の不一致。将来に対する考え方の相違、その他、円満な協議のうえでの解消と」
円満。
大勢の前で宣告しておいて、よくそんな言葉が使えるものだと、かえって感心しそうになる。
父もそれが分かっているからか、言いながら視線を逸らした。
「ふざけていますね」
セレナが静かに言うと、父は苦い顔で頷いた。
「私もそう思う」
けれど抗議はしないのだろう、とセレナは思った。侯爵家と真正面から争う気概など、父にはない。家の体面と波風の少なさを優先して、結局は飲み込むはずだ。
案の定、父は次にこう続けた。
「……公には、それで通すしかない」
そうだろうと思った。
だから怒る気にもなれなかった。
「それで、お父様は私に何をお望みですか」
まっすぐ問うと、父は一瞬言葉を失った。
「望む、というのは……」
「このまま静かにしていてほしい、ですか」
父の表情が揺れる。
「社交界に余計な話を流さず、家のために耐えてほしい。ミレイユのことも、今は表立って責めずにいてほしい。そういうことではありませんか」
沈黙が答えだった。
セレナはそれを見て、初めてはっきり分かった。
父は自分の傷を見ていない。見ているのは、家の評判と、これからどう繕うかだけだ。
「……お前もフォルディア伯爵家の娘なのだから」
ようやく絞り出されたその言葉に、セレナは静かに息を吐いた。
そうだ。この人はいつもそうだった。
娘を守るのではなく、“伯爵家の娘としてどう振る舞うべきか”を言う。そこにあるのは家の理屈であって、父親の情ではない。
「私はずっと、伯爵家の娘として振る舞ってきました」
声は思ったより穏やかだった。
「帳簿も社交も、使用人の采配も、領地とのやりとりも。お母様が亡くなってから、私ができることは全部してきたつもりです」
父は目を伏せた。
「……ああ」
「その結果が昨夜なら、もう十分ではありませんか」
父が顔を上げる。
「セレナ」
「私は家のために、婚約者の前でも、社交の場でも、何度も感情を飲み込んできました。ミレイユが何をしても、家の中で収まるならと耐えてきました」
それでも守られなかった。
その事実を今さら飾る気はなかった。
「昨夜、あの場で止めてくださらなかった時点で、私がこの家のために黙る理由はもう半分失われています」
半分、という言い方を選んだのは、自分でも不思議だった。完全に失われたとはまだ言えなかったのだろう。長年この家の娘として生きてきた癖は、そう簡単には消えない。
だが父には、その半分で十分伝わったらしい。
「……お前は、家を出たいのか」
ようやく核心に近い言葉が出た。
セレナは少しだけ考えた。
出たいのか。
つい数日前までなら、そんなことは考えもしなかった。ここは自分の家で、ここを支えるのが役目だと思っていたからだ。
けれど今は違う。
役目だと思っていたものが、本当に自分の役目だったのか分からなくなっている。
「分かりません」
正直に答えた。
「でも、今までと同じ場所には戻れません」
それだけは確かだった。
父の顔がわずかに歪む。痛みなのか、困惑なのかは分からない。たぶん両方なのだろう。
そこへ、扉の外で慌ただしい足音がした。
次の瞬間、ノックもなく扉が開き、ミレイユが入ってきた。
「お父様!」
継母の制止も聞かず飛び込んできたらしい。後ろには青ざめたイザベルがいる。
「どうしてお姉様と二人でお話しなさっているの?」
父が露骨に顔をしかめた。
「今は大事な話の最中だ」
「私に関係のあることでしょう?」
ミレイユはそう言い切り、セレナを見る。
「お姉様が何か言いつけているの?」
その発想がもう、すべてを語っていた。
父と長女が話すことすら、自分を不利にする相談だと思っている。家族の中に対話など存在しない。あるのは、自分に都合がいいか悪いかだけだ。
継母が弱々しく言う。
「ミレイユ、少し待ちなさいな」
「嫌ですわ」
義妹は即答した。
「私のことなのに、私を抜きに決められては困りますもの」
父が立ち上がる。
「お前は少し部屋に戻れ!」
「どうして!」
ミレイユの声が甲高くなる。
「昨夜、ルシアン様は皆様の前でちゃんとおっしゃったでしょう? もうお姉様との婚約は終わったのよ! なら、その後のことは私にも関係あるわ!」
継母の顔からさらに血の気が引いた。
「ミレイユ、お願い、言い方を――」
「お母様は黙っていて!」
ぴしゃりと言い放たれ、継母が息を呑む。
「いつもそう。肝心な時に何も言えないくせに、後になって私を止めようとするのね」
セレナは立ち上がらなかった。ただ座ったまま、その光景を見ていた。
父も母も、もうこの娘を御せない。
いや、最初から御す気などなかったのだ。泣けば許し、騒げば折れ、そうして育てた結果が今ここにある。
父が怒鳴る。
「ミレイユ!」
「何が悪いの!」
義妹は本気で分かっていない顔だった。
「私はようやく、自分の欲しいものを手に入れたのよ! どうして皆、そんな顔をするの!」
その“欲しいもの”が何なのか、彼女自身きちんと分かっているのだろうか。
ルシアンという男なのか。姉から奪ったという事実なのか。勝ったという実感なのか。
たぶん、そのどれもが混ざり合っていて、もう本人にも区別がつかないのだろう。
セレナは静かに椅子から立ち上がった。
その動きに、皆の視線が集まる。
「お父様」
父が振り向く。
「もう十分です」
「セレナ……」
「私は、これ以上この話に付き合いません」
ミレイユが何か言い返そうと口を開いたが、セレナは先に続けた。
「あなたも、お父様も、お義母様も、それぞれ好きになさってください。ただし、その結果については、もう私に同じ責任を求めないでください」
それはこの家に向けた、初めての明確な線引きだった。
父が息を呑む。
継母は言葉を失う。
ミレイユだけが、意味をうまく飲み込めずに眉をひそめていた。
「お姉様、それはどういう――」
「そのままの意味よ」
セレナは彼女を見た。
「あなたが欲しいものを奪うのなら、好きになさい。けれど、奪った後で壊れたものを私に片づけさせるつもりなら、もうお断り」
ミレイユの顔がさっとこわばる。
この女はたぶん、自分が壊した後始末をいつも誰かがしてきたことに、きちんと気づいたことすらないのだろう。
継母が震える声で言う。
「セレナ、そんな言い方をしなくても……」
セレナは静かに首を振った。
「では、どう言えば伝わるのですか」
その問いに、誰も答えられなかった。
答えられるはずがない。今まで誰も、伝わるまで言わなかったのだから。
セレナは父へ一礼した。
「失礼します」
そして、誰の返事も待たずに書斎を出た。
扉が閉まる直前、背後でミレイユの苛立った声が上がるのが聞こえた。
「何なの、お姉様ったら!」
怒りというより、思い通りに動かない玩具を前にした子どもの声だった。
廊下へ出ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
セレナは歩きながら、ようやく深く息を吐いた。
もう戻れない席がある。
婚約者の隣の席だけではない。
父に守られる娘の席も、家のために黙って働く長女の席も、もう同じ形では存在しないのだ。
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