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第三十四話 愛ではなく所有
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第三十四話 愛ではなく所有
侯爵家の別邸は、王都の外れに近い静かな場所にあった。
馬車が石畳を抜け、黒い鉄門をくぐった瞬間、ミレイユはほんの少しだけ眉をひそめた。
想像していたのと違ったからだ。
もちろん粗末ではない。むしろ十分に立派だった。敷地は広く、建物も洗練されている。庭はよく手入れされ、玄関前の階段も白く磨かれている。侯爵家の別邸として、見劣りするところは一つもない。
けれど――どこか静かすぎた。
人の出入りが少ない。
使用人の数も、本邸のような華やかさがない。
花は飾られていても色数は抑えられ、風景全体が妙に整いすぎている。
ここは“迎える家”というより、“管理する場所”だと、なぜかそんな印象を受ける。
だがミレイユはすぐにその違和感を追い払った。
秘密の話し合いなのだ。
正式な婚約前に、人目を避けて落ち着いて話すための場所なのだろう。
そう思えば、むしろこの静けさは特別扱いのようにも思えた。
馬車の扉が開く。
降り立つと、侯爵家の使用人たちが整然と頭を下げた。誰も笑わない。けれど無礼でもない。必要な礼だけをきちんと示している。
「お待ちしておりました、ミレイユ様」
年嵩の執事が進み出る。
その言い方に熱はなかった。だが、侯爵家の名で迎えられるという事実だけで、ミレイユの胸は甘く高鳴る。
「ルシアン様は?」
「すぐにお会いになります。まずはこちらへ」
案内された先は、応接間ではなく、客室だった。
広い。
明るい。
そして上質だ。
けれど、やはりどこか物足りない。
花嫁候補を迎えるにしては、あまりにも整いすぎていて、情がない。鏡台、寝台、衣装箪笥、小さな書き物机。全部揃っている。だが、“あなたのために特別に用意しました”という熱が感じられないのだ。
「お着替えが必要でしたら、こちらに」
侍女が低く言う。
ミレイユは微笑みを崩さないまま答える。
「結構ですわ。このままで十分でしょう」
「かしこまりました」
侍女はそれ以上勧めない。
そこも少し妙だった。
伯爵家なら、あるいはミレイユがこれまで知ってきた使用人なら、ここでもう少し機嫌をうかがう。褒めるとか、似合っていると言うとか、少し持ち上げるような言葉があるはずだ。
だがこの屋敷の使用人は、それをしない。
ただ必要なことだけを言って、静かに控える。
ミレイユがその態度に何か言おうとした時、扉が開いた。
ルシアンだった。
濃い色の上着をきっちり着こなし、いつも通り隙のない姿で入ってくる。その姿を見た瞬間、ミレイユの心は一気に明るくなった。
やはりそうだ。
呼ばれたのは間違いではなかった。
この人は自分に会うために、こうして特別な場所を用意したのだ。
「ルシアン様」
声が自然と甘くなる。
「来てくださったのね」
「私が呼んだのですから」
穏やかな返答。
その一言だけで、ミレイユは自分の考えが正しかったのだと確信した。
だがルシアンはすぐには近づいてこなかった。部屋の中央で足を止め、彼女の姿を静かに見た。
その視線に、ミレイユは少しだけ背筋を伸ばす。
見られている。
けれどそれは、恋する男の熱ではない。
どちらかといえば、何かを確かめるような目だった。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
ミレイユはできるだけ愛らしく、けれど品位もある声音を作った。
「いろいろと誤解もありましたし、こうして落ち着いてお話しできるのは嬉しいですわ」
ルシアンはわずかに目を細めた。
「誤解、ですか」
「ええ」
ミレイユはすぐに頷く。
「きっと昨夜のことも、今日のことも、皆が少し騒ぎすぎているだけですもの。本当はあなたも――」
「ミレイユ嬢」
静かな声で遮られる。
それだけで、言葉が止まった。
怒鳴られたわけではない。
けれど、その一瞬の遮り方に逆らいにくいものがあった。
「今日は、誤解を解くために呼んだわけではありません」
ミレイユの笑みが、ほんの少しだけ固まる。
「……では?」
「確認のためです」
確認。
その言葉は冷たくはない。だが甘くもなかった。
ルシアンはゆっくりとソファへ腰を下ろし、向かいを目で示した。
「座ってください」
ミレイユも慎重に腰を下ろす。
距離は遠すぎない。
だが近くもない。
その曖昧さが、急に落ち着かないものに思えてくる。
「君は今、自分がどういう立場にいると思っていますか」
ルシアンが問うた。
あまりに直截で、ミレイユは一瞬返答に迷う。
「どういう、とは……」
「そのままです」
彼は少しも急かさない。
だからこそ、問いだけが部屋の中央に残る。
ミレイユは唇を湿らせた。
「私は……少なくとも、あなたにとって無関係な女ではないのでしょう?」
慎重に選んだ答えだった。
自分こそが新しい婚約者だと言い切るのは、さすがに今の状況では危うい気がした。だが、何の意味もなく呼ばれたわけではない、その程度の自信はある。
ルシアンはそれを聞いて、ほんの少し口元を上げた。
「たしかに、無関係ではない」
その返事に、ミレイユの胸が少しだけ軽くなる。
ほら、やっぱり。
そう思いかけた時、彼は続けた。
「君は、私がセレナ嬢との婚約を終わらせる原因の一つになった」
その言い方は、予想していたものと微妙にずれていた。
原因の一つ。
選ばれた相手ではなく。
新しい可能性でもなく。
原因。
ミレイユは笑みを保ったまま、胸の中で小さく引っかかったものを押し込める。
「では、その原因を作った私を、こうして呼んでくださったのは?」
「興味があるからです」
ルシアンは淡々と言った。
ミレイユは目を瞬いた。
興味。
その言葉を、恋や好意の類として受け取りたかった。
だが彼の声には、それを許さない平坦さがあった。
「君は分かりやすい」
ルシアンは続ける。
「欲しいものにまっすぐ手を伸ばす。引くことも、考え直すことも、ほとんどしない」
褒められているのか、見透かされているのか分からない。
「それを……正直とおっしゃる方も、いるかもしれませんわ」
ミレイユが探るように言うと、ルシアンは小さく首を傾けた。
「そうかもしれない。だが私は、正直さよりも、その後どうなるかに興味がある」
まただ。
この男は、いつも少しだけ言葉がずれている。
女を褒めているようでいて、女を見ていない。
心を見ようとするのではなく、反応を見る。
セレナが感じていた不気味さの一端を、ミレイユもこの時初めてはっきり意識した。
「どうなるか、とは?」
問う声が少しだけ乾く。
ルシアンは答えなかった。
代わりに紅茶を一口飲み、侍女へ軽く指を動かす。
次の瞬間には、余計な音一つ立てずに菓子皿が差し出された。
「しばらくここへ滞在してもらいます」
あまりにも自然な口調で言われて、ミレイユは一瞬意味を取り損ねた。
「……滞在?」
「ええ。王都では今、余計な目が多い。君にとっても、私にとっても、静かな場所で話をしたほうがいい」
その理屈自体はおかしくない。
だが、どこにも“君を正式な立場で迎える”という響きがない。
「それは……婚約に向けた準備、と受け取ってよろしいのかしら」
勇気を出してそう言うと、ルシアンは初めて少しだけ笑った。
だが、その笑みは甘くなかった。
「君はいつも、結論を急ぐ」
ミレイユの背に冷たいものが走る。
叱られたわけではない。
それなのに、なぜだか言い直せない。
「今はまだ、その段階ではありません」
きっぱりと言い切られる。
花嫁候補ですらない。
その事実を、穏やかな声で固定された。
ミレイユの胸の内で、何かがざらりと音を立てる。
けれどここで引くわけにはいかなかった。
「でも、私をここへ置く理由はあるのでしょう?」
「あります」
「それは何?」
思わず問い詰めるような声になる。
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「見極めるためです」
その一言で、部屋の空気が変わった。
ミレイユは息を呑む。
見極める。
誰が。
何を。
何のために。
答えは分かっているのに、認めたくない。
自分は選ばれた女ではなく、見極められる対象にすぎないのだと。
「私を……?」
「ええ」
ルシアンの声は変わらない。
「君がどこまで扱えるか、どこまで理解するか、どこで折れるか」
最後の一語が、妙に重く落ちた。
折れるか。
その言葉を聞いた瞬間、ミレイユは本能的に背筋をこわばらせた。
嫌だ、と何かが叫ぶ。
ここは危ない。
この男はおかしい。
だが同時に、ここで立ち上がって帰る選択肢が、彼女にはもう残っていないことも分かっていた。
伯爵家へ戻ったところで、父は怒っている。継母は頼りない。社交界の目は冷たい。子爵夫人のような女たちは、今後ますます自分を笑うだろう。
そんな中で侯爵家から逃げ帰れば、本当に何も残らない。
だからミレイユは、無理やり唇の端を上げた。
「……面白いことをおっしゃるのね」
強がりだった。
ルシアンはそれを見て、なぜか満足したように見えた。
「そうかもしれません」
彼は立ち上がる。
「部屋は好きに使ってください。ただし外出は事前に申し出を。手紙も、一度こちらを通してもらう」
その言い方の自然さに、ミレイユは思わず聞き返した。
「なぜ手紙まで」
「静かに過ごすためです」
「でも私は――」
「静かに過ごすためです」
同じ言葉が、今度はさっきより少しだけ硬く繰り返された。
それだけで、ミレイユは言葉を失った。
ルシアンはもうこちらを見ていない。話は終わったとばかりに扉へ向かう。
「ルシアン様!」
思わず立ち上がる。
彼は振り返らないまま足を止めた。
「何か」
「私は……」
言うべきことが分からない。
選んでほしい。
大事にしてほしい。
ここへ呼んだ意味を、もっと分かりやすい言葉で示してほしい。
けれどどれを口にしても、みじめな気がした。
逡巡するミレイユへ、ルシアンは淡々と言った。
「君はようやく、自分のいるべき場所へ来たのかもしれないね」
その一言だけ残して、彼は出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、紅茶の香りと静けさだけが残った。
ミレイユはその場に立ち尽くしたまま、自分の心臓の音を聞いていた。
いるべき場所。
それは甘い言葉に聞こえるはずだった。
選ばれた女に向けられる、特別な囁きに。
それなのに、どうしてこんなに寒いのか。
窓の外を見る。庭は綺麗だった。空も青い。別邸は美しく整っている。
けれどその美しさの中に、自分を歓迎する熱はどこにもない。
ここは花嫁の席ではない。
ミレイユはまだ、その言葉をはっきりとは認められなかった。
でも、胸のどこかではもう分かり始めていた。
ここは愛される場所ではない。
せいぜい、置かれる場所なのだと。
侯爵家の別邸は、王都の外れに近い静かな場所にあった。
馬車が石畳を抜け、黒い鉄門をくぐった瞬間、ミレイユはほんの少しだけ眉をひそめた。
想像していたのと違ったからだ。
もちろん粗末ではない。むしろ十分に立派だった。敷地は広く、建物も洗練されている。庭はよく手入れされ、玄関前の階段も白く磨かれている。侯爵家の別邸として、見劣りするところは一つもない。
けれど――どこか静かすぎた。
人の出入りが少ない。
使用人の数も、本邸のような華やかさがない。
花は飾られていても色数は抑えられ、風景全体が妙に整いすぎている。
ここは“迎える家”というより、“管理する場所”だと、なぜかそんな印象を受ける。
だがミレイユはすぐにその違和感を追い払った。
秘密の話し合いなのだ。
正式な婚約前に、人目を避けて落ち着いて話すための場所なのだろう。
そう思えば、むしろこの静けさは特別扱いのようにも思えた。
馬車の扉が開く。
降り立つと、侯爵家の使用人たちが整然と頭を下げた。誰も笑わない。けれど無礼でもない。必要な礼だけをきちんと示している。
「お待ちしておりました、ミレイユ様」
年嵩の執事が進み出る。
その言い方に熱はなかった。だが、侯爵家の名で迎えられるという事実だけで、ミレイユの胸は甘く高鳴る。
「ルシアン様は?」
「すぐにお会いになります。まずはこちらへ」
案内された先は、応接間ではなく、客室だった。
広い。
明るい。
そして上質だ。
けれど、やはりどこか物足りない。
花嫁候補を迎えるにしては、あまりにも整いすぎていて、情がない。鏡台、寝台、衣装箪笥、小さな書き物机。全部揃っている。だが、“あなたのために特別に用意しました”という熱が感じられないのだ。
「お着替えが必要でしたら、こちらに」
侍女が低く言う。
ミレイユは微笑みを崩さないまま答える。
「結構ですわ。このままで十分でしょう」
「かしこまりました」
侍女はそれ以上勧めない。
そこも少し妙だった。
伯爵家なら、あるいはミレイユがこれまで知ってきた使用人なら、ここでもう少し機嫌をうかがう。褒めるとか、似合っていると言うとか、少し持ち上げるような言葉があるはずだ。
だがこの屋敷の使用人は、それをしない。
ただ必要なことだけを言って、静かに控える。
ミレイユがその態度に何か言おうとした時、扉が開いた。
ルシアンだった。
濃い色の上着をきっちり着こなし、いつも通り隙のない姿で入ってくる。その姿を見た瞬間、ミレイユの心は一気に明るくなった。
やはりそうだ。
呼ばれたのは間違いではなかった。
この人は自分に会うために、こうして特別な場所を用意したのだ。
「ルシアン様」
声が自然と甘くなる。
「来てくださったのね」
「私が呼んだのですから」
穏やかな返答。
その一言だけで、ミレイユは自分の考えが正しかったのだと確信した。
だがルシアンはすぐには近づいてこなかった。部屋の中央で足を止め、彼女の姿を静かに見た。
その視線に、ミレイユは少しだけ背筋を伸ばす。
見られている。
けれどそれは、恋する男の熱ではない。
どちらかといえば、何かを確かめるような目だった。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
ミレイユはできるだけ愛らしく、けれど品位もある声音を作った。
「いろいろと誤解もありましたし、こうして落ち着いてお話しできるのは嬉しいですわ」
ルシアンはわずかに目を細めた。
「誤解、ですか」
「ええ」
ミレイユはすぐに頷く。
「きっと昨夜のことも、今日のことも、皆が少し騒ぎすぎているだけですもの。本当はあなたも――」
「ミレイユ嬢」
静かな声で遮られる。
それだけで、言葉が止まった。
怒鳴られたわけではない。
けれど、その一瞬の遮り方に逆らいにくいものがあった。
「今日は、誤解を解くために呼んだわけではありません」
ミレイユの笑みが、ほんの少しだけ固まる。
「……では?」
「確認のためです」
確認。
その言葉は冷たくはない。だが甘くもなかった。
ルシアンはゆっくりとソファへ腰を下ろし、向かいを目で示した。
「座ってください」
ミレイユも慎重に腰を下ろす。
距離は遠すぎない。
だが近くもない。
その曖昧さが、急に落ち着かないものに思えてくる。
「君は今、自分がどういう立場にいると思っていますか」
ルシアンが問うた。
あまりに直截で、ミレイユは一瞬返答に迷う。
「どういう、とは……」
「そのままです」
彼は少しも急かさない。
だからこそ、問いだけが部屋の中央に残る。
ミレイユは唇を湿らせた。
「私は……少なくとも、あなたにとって無関係な女ではないのでしょう?」
慎重に選んだ答えだった。
自分こそが新しい婚約者だと言い切るのは、さすがに今の状況では危うい気がした。だが、何の意味もなく呼ばれたわけではない、その程度の自信はある。
ルシアンはそれを聞いて、ほんの少し口元を上げた。
「たしかに、無関係ではない」
その返事に、ミレイユの胸が少しだけ軽くなる。
ほら、やっぱり。
そう思いかけた時、彼は続けた。
「君は、私がセレナ嬢との婚約を終わらせる原因の一つになった」
その言い方は、予想していたものと微妙にずれていた。
原因の一つ。
選ばれた相手ではなく。
新しい可能性でもなく。
原因。
ミレイユは笑みを保ったまま、胸の中で小さく引っかかったものを押し込める。
「では、その原因を作った私を、こうして呼んでくださったのは?」
「興味があるからです」
ルシアンは淡々と言った。
ミレイユは目を瞬いた。
興味。
その言葉を、恋や好意の類として受け取りたかった。
だが彼の声には、それを許さない平坦さがあった。
「君は分かりやすい」
ルシアンは続ける。
「欲しいものにまっすぐ手を伸ばす。引くことも、考え直すことも、ほとんどしない」
褒められているのか、見透かされているのか分からない。
「それを……正直とおっしゃる方も、いるかもしれませんわ」
ミレイユが探るように言うと、ルシアンは小さく首を傾けた。
「そうかもしれない。だが私は、正直さよりも、その後どうなるかに興味がある」
まただ。
この男は、いつも少しだけ言葉がずれている。
女を褒めているようでいて、女を見ていない。
心を見ようとするのではなく、反応を見る。
セレナが感じていた不気味さの一端を、ミレイユもこの時初めてはっきり意識した。
「どうなるか、とは?」
問う声が少しだけ乾く。
ルシアンは答えなかった。
代わりに紅茶を一口飲み、侍女へ軽く指を動かす。
次の瞬間には、余計な音一つ立てずに菓子皿が差し出された。
「しばらくここへ滞在してもらいます」
あまりにも自然な口調で言われて、ミレイユは一瞬意味を取り損ねた。
「……滞在?」
「ええ。王都では今、余計な目が多い。君にとっても、私にとっても、静かな場所で話をしたほうがいい」
その理屈自体はおかしくない。
だが、どこにも“君を正式な立場で迎える”という響きがない。
「それは……婚約に向けた準備、と受け取ってよろしいのかしら」
勇気を出してそう言うと、ルシアンは初めて少しだけ笑った。
だが、その笑みは甘くなかった。
「君はいつも、結論を急ぐ」
ミレイユの背に冷たいものが走る。
叱られたわけではない。
それなのに、なぜだか言い直せない。
「今はまだ、その段階ではありません」
きっぱりと言い切られる。
花嫁候補ですらない。
その事実を、穏やかな声で固定された。
ミレイユの胸の内で、何かがざらりと音を立てる。
けれどここで引くわけにはいかなかった。
「でも、私をここへ置く理由はあるのでしょう?」
「あります」
「それは何?」
思わず問い詰めるような声になる。
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「見極めるためです」
その一言で、部屋の空気が変わった。
ミレイユは息を呑む。
見極める。
誰が。
何を。
何のために。
答えは分かっているのに、認めたくない。
自分は選ばれた女ではなく、見極められる対象にすぎないのだと。
「私を……?」
「ええ」
ルシアンの声は変わらない。
「君がどこまで扱えるか、どこまで理解するか、どこで折れるか」
最後の一語が、妙に重く落ちた。
折れるか。
その言葉を聞いた瞬間、ミレイユは本能的に背筋をこわばらせた。
嫌だ、と何かが叫ぶ。
ここは危ない。
この男はおかしい。
だが同時に、ここで立ち上がって帰る選択肢が、彼女にはもう残っていないことも分かっていた。
伯爵家へ戻ったところで、父は怒っている。継母は頼りない。社交界の目は冷たい。子爵夫人のような女たちは、今後ますます自分を笑うだろう。
そんな中で侯爵家から逃げ帰れば、本当に何も残らない。
だからミレイユは、無理やり唇の端を上げた。
「……面白いことをおっしゃるのね」
強がりだった。
ルシアンはそれを見て、なぜか満足したように見えた。
「そうかもしれません」
彼は立ち上がる。
「部屋は好きに使ってください。ただし外出は事前に申し出を。手紙も、一度こちらを通してもらう」
その言い方の自然さに、ミレイユは思わず聞き返した。
「なぜ手紙まで」
「静かに過ごすためです」
「でも私は――」
「静かに過ごすためです」
同じ言葉が、今度はさっきより少しだけ硬く繰り返された。
それだけで、ミレイユは言葉を失った。
ルシアンはもうこちらを見ていない。話は終わったとばかりに扉へ向かう。
「ルシアン様!」
思わず立ち上がる。
彼は振り返らないまま足を止めた。
「何か」
「私は……」
言うべきことが分からない。
選んでほしい。
大事にしてほしい。
ここへ呼んだ意味を、もっと分かりやすい言葉で示してほしい。
けれどどれを口にしても、みじめな気がした。
逡巡するミレイユへ、ルシアンは淡々と言った。
「君はようやく、自分のいるべき場所へ来たのかもしれないね」
その一言だけ残して、彼は出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、紅茶の香りと静けさだけが残った。
ミレイユはその場に立ち尽くしたまま、自分の心臓の音を聞いていた。
いるべき場所。
それは甘い言葉に聞こえるはずだった。
選ばれた女に向けられる、特別な囁きに。
それなのに、どうしてこんなに寒いのか。
窓の外を見る。庭は綺麗だった。空も青い。別邸は美しく整っている。
けれどその美しさの中に、自分を歓迎する熱はどこにもない。
ここは花嫁の席ではない。
ミレイユはまだ、その言葉をはっきりとは認められなかった。
でも、胸のどこかではもう分かり始めていた。
ここは愛される場所ではない。
せいぜい、置かれる場所なのだと。
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