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第四話 静かな結婚式と冷たい屋敷
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第四話 静かな結婚式と冷たい屋敷
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結婚式当日の朝は、驚くほど静かだった。
公爵家の屋敷は広く、格式もあるはずなのに、祝祭の高揚感はほとんど感じられない。廊下を行き交う使用人たちの足音も控えめで、まるで通常の執務日と変わらない一日が始まろうとしているかのようだった。
それは、この結婚がどのような性質のものなのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
侍女に身支度を整えられながら、私は鏡の中の自分を静かに見つめていた。純白のドレスは上質で、細部まで丁寧に仕立てられている。宝石も、装飾も、必要最低限。華やかさを誇示するためのものではなく、あくまで「公爵夫人として不足がない」という体裁を整えるための衣装だった。
(十分すぎるほどですわ)
私はそう思い、そっと息を吐いた。
やがて、式の時間を告げる声がかかり、私は小さな礼拝堂へと向かった。参列者は、両家のごく限られた親族と、必要最低限の関係者のみ。社交界でよく見かけるような、興味本位の視線や囁き声は一切ない。
ディーンはすでに祭壇の前に立っていた。
今日の彼は、いつにも増して整った装いをしているはずなのに、その表情は相変わらず冷淡で、私に向けられる視線も淡々としたものだった。そこにあるのは「妻を迎える喜び」ではなく、「必要な儀式を終わらせる」という意識だけ。
私はその横に並び、形式通りに式を進めた。
誓いの言葉は簡潔で、感情を込める余地はない。指輪を交換する瞬間でさえ、互いの指に触れる時間はほんの一瞬だった。温もりを感じる間もなく、儀式は淡々と終わる。
拍手も控えめで、祝福の言葉も形式的なものばかり。
けれど、私はそのすべてを受け入れていた。
(これでいいのです)
華やかな愛の誓いも、永遠を約束する甘い言葉も、私には必要ない。むしろ、それらがないことが、この結婚の正しさを証明しているようにさえ思えた。
式が終わると、簡単な挨拶を交わした後、私たちはすぐに別々の部屋へと案内された。
「今日から、君の部屋は西棟だ」
ディーンはそう告げると、事務的な口調で続けた。
「生活に必要なものは揃えてある。何か不足があれば、使用人に伝えればいい」
「ありがとうございます」
「……それと」
一瞬だけ、彼の言葉が途切れた。
「社交の場に出る必要が生じた場合は、事前に伝える。それ以外で、私に関わることはない」
それは確認というより、念押しだった。
「承知しておりますわ」
私は静かに頷いた。すると彼はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。
こうして、私たちの結婚生活は始まった。
――けれど、夫婦らしい時間は、最初から存在しなかった。
私に与えられた西棟の部屋は、思っていた以上に広く、静かだった。窓からは整えられた庭園が見え、家具も上質なものが揃えられている。生活に不便はない。だが同時に、ここは完全に「切り離された空間」でもあった。
屋敷の中心から離れ、主の気配がほとんど届かない場所。
(……なるほど)
これは配慮なのだろう。互いに干渉しないという約束を、空間的にも徹底するための。
私は部屋を一通り見回し、静かに腰を下ろした。
その日の夕食は、別々に取ることになっていた。形式上、初夜というものが存在するはずの日でさえ、私たちは顔を合わせることはなかった。
夜になり、屋敷は一層静まり返る。
私は窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を眺めていた。遠くで風が木々を揺らす音がするだけで、人の気配はほとんど感じられない。
(……不思議ですわね)
結婚したばかりだというのに、心は驚くほど穏やかだった。寂しさも、悲しみも、怒りもない。ただ、静かな安堵だけが胸に広がっている。
誰にも期待されず、誰にも縛られない。
私は、私の時間を生きていい。
それは、公爵夫人という立場から考えれば、異常なほど自由な状態だった。しかし、私にとっては理想に近い。
翌日から、私の日常は驚くほど変わらなかった。
朝は静かに目覚め、簡単な食事を取り、屋敷内を散策する。庭園の植物を眺め、書斎で本を読む。気が向けば菓子を焼き、使用人たちに振る舞う。
ディーンと顔を合わせることは、ほとんどなかった。
彼は多忙を理由に屋敷を空けることが多く、帰ってくるのは深夜か、あるいは数日後ということも珍しくない。その不在は、私にとってむしろありがたいものだった。
使用人たちは、私を気遣ってくれていた。
「奥様、何かご不便はございませんか?」
「何かお困りのことがありましたら、遠慮なくお申し付けください」
そう声をかけられるたび、私は微笑んで首を振る。
「大丈夫ですわ。皆さんのおかげで、とても快適です」
それは本心だった。
私はこの屋敷で、静かに、目立たず、私らしく過ごすつもりだった。
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結婚式当日の朝は、驚くほど静かだった。
公爵家の屋敷は広く、格式もあるはずなのに、祝祭の高揚感はほとんど感じられない。廊下を行き交う使用人たちの足音も控えめで、まるで通常の執務日と変わらない一日が始まろうとしているかのようだった。
それは、この結婚がどのような性質のものなのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
侍女に身支度を整えられながら、私は鏡の中の自分を静かに見つめていた。純白のドレスは上質で、細部まで丁寧に仕立てられている。宝石も、装飾も、必要最低限。華やかさを誇示するためのものではなく、あくまで「公爵夫人として不足がない」という体裁を整えるための衣装だった。
(十分すぎるほどですわ)
私はそう思い、そっと息を吐いた。
やがて、式の時間を告げる声がかかり、私は小さな礼拝堂へと向かった。参列者は、両家のごく限られた親族と、必要最低限の関係者のみ。社交界でよく見かけるような、興味本位の視線や囁き声は一切ない。
ディーンはすでに祭壇の前に立っていた。
今日の彼は、いつにも増して整った装いをしているはずなのに、その表情は相変わらず冷淡で、私に向けられる視線も淡々としたものだった。そこにあるのは「妻を迎える喜び」ではなく、「必要な儀式を終わらせる」という意識だけ。
私はその横に並び、形式通りに式を進めた。
誓いの言葉は簡潔で、感情を込める余地はない。指輪を交換する瞬間でさえ、互いの指に触れる時間はほんの一瞬だった。温もりを感じる間もなく、儀式は淡々と終わる。
拍手も控えめで、祝福の言葉も形式的なものばかり。
けれど、私はそのすべてを受け入れていた。
(これでいいのです)
華やかな愛の誓いも、永遠を約束する甘い言葉も、私には必要ない。むしろ、それらがないことが、この結婚の正しさを証明しているようにさえ思えた。
式が終わると、簡単な挨拶を交わした後、私たちはすぐに別々の部屋へと案内された。
「今日から、君の部屋は西棟だ」
ディーンはそう告げると、事務的な口調で続けた。
「生活に必要なものは揃えてある。何か不足があれば、使用人に伝えればいい」
「ありがとうございます」
「……それと」
一瞬だけ、彼の言葉が途切れた。
「社交の場に出る必要が生じた場合は、事前に伝える。それ以外で、私に関わることはない」
それは確認というより、念押しだった。
「承知しておりますわ」
私は静かに頷いた。すると彼はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。
こうして、私たちの結婚生活は始まった。
――けれど、夫婦らしい時間は、最初から存在しなかった。
私に与えられた西棟の部屋は、思っていた以上に広く、静かだった。窓からは整えられた庭園が見え、家具も上質なものが揃えられている。生活に不便はない。だが同時に、ここは完全に「切り離された空間」でもあった。
屋敷の中心から離れ、主の気配がほとんど届かない場所。
(……なるほど)
これは配慮なのだろう。互いに干渉しないという約束を、空間的にも徹底するための。
私は部屋を一通り見回し、静かに腰を下ろした。
その日の夕食は、別々に取ることになっていた。形式上、初夜というものが存在するはずの日でさえ、私たちは顔を合わせることはなかった。
夜になり、屋敷は一層静まり返る。
私は窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を眺めていた。遠くで風が木々を揺らす音がするだけで、人の気配はほとんど感じられない。
(……不思議ですわね)
結婚したばかりだというのに、心は驚くほど穏やかだった。寂しさも、悲しみも、怒りもない。ただ、静かな安堵だけが胸に広がっている。
誰にも期待されず、誰にも縛られない。
私は、私の時間を生きていい。
それは、公爵夫人という立場から考えれば、異常なほど自由な状態だった。しかし、私にとっては理想に近い。
翌日から、私の日常は驚くほど変わらなかった。
朝は静かに目覚め、簡単な食事を取り、屋敷内を散策する。庭園の植物を眺め、書斎で本を読む。気が向けば菓子を焼き、使用人たちに振る舞う。
ディーンと顔を合わせることは、ほとんどなかった。
彼は多忙を理由に屋敷を空けることが多く、帰ってくるのは深夜か、あるいは数日後ということも珍しくない。その不在は、私にとってむしろありがたいものだった。
使用人たちは、私を気遣ってくれていた。
「奥様、何かご不便はございませんか?」
「何かお困りのことがありましたら、遠慮なくお申し付けください」
そう声をかけられるたび、私は微笑んで首を振る。
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