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第五話 静かな日常と、夫の不在
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第五話 静かな日常と、夫の不在
公爵家での生活は、驚くほど静かに始まった。
結婚した翌日から、私の日常はほとんど変わらなかった。目覚める時間も、食事の内容も、過ごし方も、侯爵家にいた頃と大差はない。ただ一つ違うのは、屋敷の広さと、人の気配の薄さだった。
朝は侍女が静かにカーテンを開け、淡い光が部屋に差し込む。豪奢な寝室ではあるが、余計な装飾はなく、落ち着いた空間だ。身支度を整えた後、私は一人で朝食を取る。長い食卓の端に座る自分の姿を、最初は少し奇妙に感じたが、すぐに慣れてしまった。
(夫婦で食事をする必要はない、ですものね)
それは最初から決められていたことだ。ディーンは朝食の時間帯に屋敷にいることはほとんどなく、私が目にするのは、せいぜい夜遅くに使用人から「本日はお戻りになりません」という報告を受ける程度だった。
彼がどこで、誰と過ごしているのか――それを詮索するつもりはない。興味もなかった。
むしろ、その不在は、私にとって心地よいものだった。
午前中は、屋敷内をゆっくりと歩いて回る。公爵家の庭園はよく手入れされており、見事ではあるが、どこか整いすぎている印象を受けた。雑草一つなく、すべてが管理され、計算された美しさ。
(少し、窮屈ですわね……)
そんな感想を抱きつつも、私は植物の状態を観察するのが好きだった。葉の色、土の湿り具合、花の咲き方。人知れず、弱っている株を見つけると、使用人に頼んで水や肥料の調整をしてもらう。
不思議なことに、私が少し手を加えただけで、植物たちは目に見えて元気になることが多かった。
午後は書斎で過ごす時間が増えた。公爵家の蔵書は膨大で、植物学や薬草学に関する書物も豊富に揃っている。私は夢中でページをめくり、知識を吸収していった。
時折、気分転換に菓子を焼くこともあった。
最初は「公爵夫人が厨房に立つなど」と使用人たちが戸惑っていたが、私がどうしても譲らないものだから、今では必要な材料を揃えてくれるようになった。
「奥様、今日は何をお作りになるのですか?」
「今日は、ハーブ入りのクッキーを試してみようかと思いますの」
そう答えると、使用人たちは少し驚いた顔をしながらも、どこか嬉しそうに頷いた。
焼き上がった菓子を分けると、皆が遠慮がちに、しかし確かに喜んでくれる。その反応を見るのが、私は好きだった。
夜になっても、屋敷は静かなままだ。
ディーンが戻らない日が続くと、使用人たちは私を気遣い、声をかけてくる。
「奥様、お寂しくはありませんか?」
「いいえ。静かな方が落ち着きますわ」
それは嘘ではなかった。
私は、誰かに寄り添われることで安心する性格ではない。むしろ、誰にも干渉されず、自分の世界に浸れる時間こそが、私にとっての安らぎだった。
ただ一度だけ、使用人の会話が耳に入ったことがある。
「公爵様、最近はほとんどこちらに戻られませんね……」
「ええ。噂では、あの平民の女性のところに……」
そこで会話は途切れた。私の存在に気づいたのだろう。気まずそうに頭を下げられたが、私は気にしなかった。
(やはり、そうなのですね)
けれど、その事実に胸が痛むことはなかった。むしろ、納得しただけだ。
彼が愛情を向ける相手がいるのなら、なおさら私が踏み込む余地はない。私たちは、最初から交わらない線の上に立っている。
そうして数日、数週間が過ぎていくうちに、公爵家での生活は完全に「日常」になった。
私は公爵夫人という立場にありながら、社交界にほとんど姿を見せない。招待状が届いても、必要最低限の理由をつけて断るか、形式だけ顔を出して早々に引き上げる。
そのたびに、周囲は不思議そうな顔をした。
「公爵夫人なのに、随分と控えめなのね」
「まるで、存在感がないみたいだわ」
そんな囁きが聞こえてくることもあったが、私は気に留めなかった。
(存在感がない方が、都合がいいのですもの)
目立たず、注目されず、誰の期待も背負わない。それは、私にとって最高の立場だった。
この静かな日々が、いつまでも続くのだと――私は、その時は疑いもしなかった。
けれど、運命は、思っているよりもずっと気まぐれで、残酷だった。
私の知らないところで、公爵家の歯車は、少しずつ狂い始めていたのである。
公爵家での生活は、驚くほど静かに始まった。
結婚した翌日から、私の日常はほとんど変わらなかった。目覚める時間も、食事の内容も、過ごし方も、侯爵家にいた頃と大差はない。ただ一つ違うのは、屋敷の広さと、人の気配の薄さだった。
朝は侍女が静かにカーテンを開け、淡い光が部屋に差し込む。豪奢な寝室ではあるが、余計な装飾はなく、落ち着いた空間だ。身支度を整えた後、私は一人で朝食を取る。長い食卓の端に座る自分の姿を、最初は少し奇妙に感じたが、すぐに慣れてしまった。
(夫婦で食事をする必要はない、ですものね)
それは最初から決められていたことだ。ディーンは朝食の時間帯に屋敷にいることはほとんどなく、私が目にするのは、せいぜい夜遅くに使用人から「本日はお戻りになりません」という報告を受ける程度だった。
彼がどこで、誰と過ごしているのか――それを詮索するつもりはない。興味もなかった。
むしろ、その不在は、私にとって心地よいものだった。
午前中は、屋敷内をゆっくりと歩いて回る。公爵家の庭園はよく手入れされており、見事ではあるが、どこか整いすぎている印象を受けた。雑草一つなく、すべてが管理され、計算された美しさ。
(少し、窮屈ですわね……)
そんな感想を抱きつつも、私は植物の状態を観察するのが好きだった。葉の色、土の湿り具合、花の咲き方。人知れず、弱っている株を見つけると、使用人に頼んで水や肥料の調整をしてもらう。
不思議なことに、私が少し手を加えただけで、植物たちは目に見えて元気になることが多かった。
午後は書斎で過ごす時間が増えた。公爵家の蔵書は膨大で、植物学や薬草学に関する書物も豊富に揃っている。私は夢中でページをめくり、知識を吸収していった。
時折、気分転換に菓子を焼くこともあった。
最初は「公爵夫人が厨房に立つなど」と使用人たちが戸惑っていたが、私がどうしても譲らないものだから、今では必要な材料を揃えてくれるようになった。
「奥様、今日は何をお作りになるのですか?」
「今日は、ハーブ入りのクッキーを試してみようかと思いますの」
そう答えると、使用人たちは少し驚いた顔をしながらも、どこか嬉しそうに頷いた。
焼き上がった菓子を分けると、皆が遠慮がちに、しかし確かに喜んでくれる。その反応を見るのが、私は好きだった。
夜になっても、屋敷は静かなままだ。
ディーンが戻らない日が続くと、使用人たちは私を気遣い、声をかけてくる。
「奥様、お寂しくはありませんか?」
「いいえ。静かな方が落ち着きますわ」
それは嘘ではなかった。
私は、誰かに寄り添われることで安心する性格ではない。むしろ、誰にも干渉されず、自分の世界に浸れる時間こそが、私にとっての安らぎだった。
ただ一度だけ、使用人の会話が耳に入ったことがある。
「公爵様、最近はほとんどこちらに戻られませんね……」
「ええ。噂では、あの平民の女性のところに……」
そこで会話は途切れた。私の存在に気づいたのだろう。気まずそうに頭を下げられたが、私は気にしなかった。
(やはり、そうなのですね)
けれど、その事実に胸が痛むことはなかった。むしろ、納得しただけだ。
彼が愛情を向ける相手がいるのなら、なおさら私が踏み込む余地はない。私たちは、最初から交わらない線の上に立っている。
そうして数日、数週間が過ぎていくうちに、公爵家での生活は完全に「日常」になった。
私は公爵夫人という立場にありながら、社交界にほとんど姿を見せない。招待状が届いても、必要最低限の理由をつけて断るか、形式だけ顔を出して早々に引き上げる。
そのたびに、周囲は不思議そうな顔をした。
「公爵夫人なのに、随分と控えめなのね」
「まるで、存在感がないみたいだわ」
そんな囁きが聞こえてくることもあったが、私は気に留めなかった。
(存在感がない方が、都合がいいのですもの)
目立たず、注目されず、誰の期待も背負わない。それは、私にとって最高の立場だった。
この静かな日々が、いつまでも続くのだと――私は、その時は疑いもしなかった。
けれど、運命は、思っているよりもずっと気まぐれで、残酷だった。
私の知らないところで、公爵家の歯車は、少しずつ狂い始めていたのである。
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