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第六話 失敗作と呼ばれて
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第六話 失敗作と呼ばれて
それは、雨の降る午後だった。
公爵家の屋敷に、珍しく重たい空気が漂っていた。朝から空は低く垂れ込め、庭園の緑もどこか沈んだ色をしている。私は西棟の書斎で本を読んでいたが、窓を打つ雨音が、妙に大きく耳に残っていた。
その時、扉を叩く控えめな音がした。
「奥様、公爵様がお呼びです」
侍女の声は、いつもよりわずかに硬かった。
胸の奥で、何かが静かに鳴った気がした。
(ついに、ですか)
理由は分からない。けれど、私はその呼び出しが、これまでとは違う意味を持つものだと直感していた。
私は本を閉じ、静かに立ち上がった。
「分かりました。すぐに参ります」
応接間へ向かう廊下は、やけに長く感じられた。壁に飾られた肖像画たちが、無言でこちらを見下ろしている。かつてここに並んだ公爵夫人たちは、どんな思いでこの屋敷を歩いていたのだろうか。
応接間の扉を開けると、そこにはディーンがいた。
彼は窓際に立ち、外の雨を眺めていた。背を向けたその姿からは、いつもの余裕や冷静さは感じられない。私が入室した気配に気づくと、彼はゆっくりと振り返った。
その瞳は、苛立ちと不快感に濁っていた。
「エリシア」
「お呼びでしょうか、公爵様」
私はいつも通り、丁寧に一礼した。
だが、彼はその礼を受け止めることもなく、冷たい声で言った。
「君との結婚は……どうやら失敗だったようだ」
一瞬、意味を測りかねた。
「失敗、ですか?」
聞き返した私に、ディーンは苛立ったように眉を寄せる。
「ああ。君は、公爵夫人として何一つ役割を果たしていない」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
「役割、とは……」
「分からないのか?」
彼は吐き捨てるように続けた。
「社交界での振る舞いだ。君はほとんど姿を見せず、影のように屋敷に引きこもっている。そのせいで、公爵家は『活気のない家』と噂され始めている」
私は、思わず唇を噛み締めた。
それは、彼自身が望んだ形ではなかったのか。
「公爵様。私が社交に出る必要がないと仰ったのは……」
「言ったとも。だが、それは最低限の体裁が保たれることが前提だ」
彼は苛立ちを隠そうともせず、言葉を重ねる。
「君は、あまりにも存在感がなさすぎる。公爵夫人でありながら、誰の記憶にも残らない。そんな妻では、公爵家の格が下がる」
その瞬間、私の中で何かがはっきりと理解できた。
(ああ……この方は)
この人は、私を「都合の良い置物」として迎えたつもりだったのだろう。必要な時にだけ飾り、不要になれば片付ける。それができないと分かった途端、苛立ちを向けているだけ。
私は、感情を表に出さぬよう、静かに答えた。
「申し訳ございません。至らぬ点がございましたら、改善いたします」
「いや、改善する必要はない」
ディーンは、きっぱりと言い切った。
「もう君は用済みだ」
その言葉は、あまりにも明確だった。
「……それは、どういう意味でしょうか」
問いかけながらも、私はすでに答えを察していた。
「君とは離縁する」
応接間に、雨音だけが響いた。
「手続きはすでに済ませてある。君の署名は不要だ」
一方的な宣告だった。
胸が締め付けられる――はずだった。だが、私の心に湧き上がったのは、意外な感情だった。
(……ああ、やっと)
安堵。
解放。
それらが、静かに胸いっぱいに広がっていく。
私は必死で表情を取り繕い、伏し目がちに言った。
「……承知いたしました」
ディーンは、私の反応が予想よりも大人しいことに、わずかに拍子抜けしたようだった。
「屋敷を出てもらう。辺境にある別邸を用意した。君には、そこがお似合いだろう」
それは、追放に等しい処置だった。
けれど私は、深く頭を下げた。
「ご配慮、感謝いたします」
その言葉に、彼は一瞬だけ戸惑ったような顔をしたが、すぐに興味を失ったように背を向けた。
「準備が整い次第、出て行ってくれ」
それで、話は終わりだった。
部屋を出た瞬間、私は小さく息を吐いた。
胸の奥にあった重たい何かが、音もなく崩れ落ちていくのを感じる。
(これで……終わり)
公爵夫人としての役割。期待。立場。
すべてが、私の手から離れていった。
それなのに、心は驚くほど軽かった。
西棟の部屋へ戻ると、私は静かに荷物を見回した。持ち込んだ私物は、思った以上に少ない。数冊の本と、植物の種、そして自分で焼いた菓子の型。
(十分ですわ)
私は、小さく微笑んだ。
この離縁は、私にとって「断罪」ではない。
むしろ――。
(自由への、許可証ですもの)
雨音を聞きながら、私は静かに、新しい人生の始まりを受け入れていた。
それは、雨の降る午後だった。
公爵家の屋敷に、珍しく重たい空気が漂っていた。朝から空は低く垂れ込め、庭園の緑もどこか沈んだ色をしている。私は西棟の書斎で本を読んでいたが、窓を打つ雨音が、妙に大きく耳に残っていた。
その時、扉を叩く控えめな音がした。
「奥様、公爵様がお呼びです」
侍女の声は、いつもよりわずかに硬かった。
胸の奥で、何かが静かに鳴った気がした。
(ついに、ですか)
理由は分からない。けれど、私はその呼び出しが、これまでとは違う意味を持つものだと直感していた。
私は本を閉じ、静かに立ち上がった。
「分かりました。すぐに参ります」
応接間へ向かう廊下は、やけに長く感じられた。壁に飾られた肖像画たちが、無言でこちらを見下ろしている。かつてここに並んだ公爵夫人たちは、どんな思いでこの屋敷を歩いていたのだろうか。
応接間の扉を開けると、そこにはディーンがいた。
彼は窓際に立ち、外の雨を眺めていた。背を向けたその姿からは、いつもの余裕や冷静さは感じられない。私が入室した気配に気づくと、彼はゆっくりと振り返った。
その瞳は、苛立ちと不快感に濁っていた。
「エリシア」
「お呼びでしょうか、公爵様」
私はいつも通り、丁寧に一礼した。
だが、彼はその礼を受け止めることもなく、冷たい声で言った。
「君との結婚は……どうやら失敗だったようだ」
一瞬、意味を測りかねた。
「失敗、ですか?」
聞き返した私に、ディーンは苛立ったように眉を寄せる。
「ああ。君は、公爵夫人として何一つ役割を果たしていない」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
「役割、とは……」
「分からないのか?」
彼は吐き捨てるように続けた。
「社交界での振る舞いだ。君はほとんど姿を見せず、影のように屋敷に引きこもっている。そのせいで、公爵家は『活気のない家』と噂され始めている」
私は、思わず唇を噛み締めた。
それは、彼自身が望んだ形ではなかったのか。
「公爵様。私が社交に出る必要がないと仰ったのは……」
「言ったとも。だが、それは最低限の体裁が保たれることが前提だ」
彼は苛立ちを隠そうともせず、言葉を重ねる。
「君は、あまりにも存在感がなさすぎる。公爵夫人でありながら、誰の記憶にも残らない。そんな妻では、公爵家の格が下がる」
その瞬間、私の中で何かがはっきりと理解できた。
(ああ……この方は)
この人は、私を「都合の良い置物」として迎えたつもりだったのだろう。必要な時にだけ飾り、不要になれば片付ける。それができないと分かった途端、苛立ちを向けているだけ。
私は、感情を表に出さぬよう、静かに答えた。
「申し訳ございません。至らぬ点がございましたら、改善いたします」
「いや、改善する必要はない」
ディーンは、きっぱりと言い切った。
「もう君は用済みだ」
その言葉は、あまりにも明確だった。
「……それは、どういう意味でしょうか」
問いかけながらも、私はすでに答えを察していた。
「君とは離縁する」
応接間に、雨音だけが響いた。
「手続きはすでに済ませてある。君の署名は不要だ」
一方的な宣告だった。
胸が締め付けられる――はずだった。だが、私の心に湧き上がったのは、意外な感情だった。
(……ああ、やっと)
安堵。
解放。
それらが、静かに胸いっぱいに広がっていく。
私は必死で表情を取り繕い、伏し目がちに言った。
「……承知いたしました」
ディーンは、私の反応が予想よりも大人しいことに、わずかに拍子抜けしたようだった。
「屋敷を出てもらう。辺境にある別邸を用意した。君には、そこがお似合いだろう」
それは、追放に等しい処置だった。
けれど私は、深く頭を下げた。
「ご配慮、感謝いたします」
その言葉に、彼は一瞬だけ戸惑ったような顔をしたが、すぐに興味を失ったように背を向けた。
「準備が整い次第、出て行ってくれ」
それで、話は終わりだった。
部屋を出た瞬間、私は小さく息を吐いた。
胸の奥にあった重たい何かが、音もなく崩れ落ちていくのを感じる。
(これで……終わり)
公爵夫人としての役割。期待。立場。
すべてが、私の手から離れていった。
それなのに、心は驚くほど軽かった。
西棟の部屋へ戻ると、私は静かに荷物を見回した。持ち込んだ私物は、思った以上に少ない。数冊の本と、植物の種、そして自分で焼いた菓子の型。
(十分ですわ)
私は、小さく微笑んだ。
この離縁は、私にとって「断罪」ではない。
むしろ――。
(自由への、許可証ですもの)
雨音を聞きながら、私は静かに、新しい人生の始まりを受け入れていた。
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