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第七話 辺境行きの朝
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第七話 辺境行きの朝
公爵家を出る日が、これほど静かに訪れるとは思っていなかった。
朝の空気はひんやりとしていて、雨上がりの庭には薄く霧が残っている。西棟の私室で、私は最後の荷造りを終え、部屋を見渡した。広く、整えられ、そして終始「私の場所」にはなりきらなかった空間。
だが、不思議と名残惜しさはなかった。
持ち物は本当にわずかだ。書物が数冊、種子を詰めた小箱、筆記具、そして日常着。宝飾品や高価なドレスは、最初から公爵家の管理下にあったものばかりで、私の所有ではない。
(身軽で助かりますわ)
そう思いながら、私は最後に窓を閉めた。
屋敷の正面では、簡素な馬車が一台、すでに待機していた。公爵家の紋章は付いているが、装飾は控えめで、見送りの列もない。使用人が数名、形式的に並んでいるだけだ。
ディーンの姿はなかった。
それでいい、と私は思った。最後まで顔を合わせない方が、お互いにとって楽だろう。
馬車のそばに立つ老執事が、事務的な口調で告げる。
「辺境の別邸までは、二日ほどの道程となります。道中の手配は整っております」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りで、十分だった。
馬車に乗り込むと、扉が閉められ、ほどなくして車輪が動き出す。公爵家の屋敷が少しずつ遠ざかっていくのを、私はカーテン越しに眺めていた。
胸の奥で、何かがほどけていく感覚があった。
(終わったのですね……本当に)
公爵夫人としての日々は、振り返ってみれば、驚くほど薄いものだった。華やかな記憶も、強い感情も、ほとんど残っていない。ただ、静かで、冷たく、そして不干渉な時間。
それは決して不幸ではなかったが、居場所でもなかった。
馬車は王都を抜け、次第に景色が変わっていく。石畳は土の道へ、整えられた街路樹は野性味のある林へ。遠くには低い丘と、広がる畑が見え始めた。
私は、その風景を見て、自然と微笑んでいた。
(……空が、広い)
王都にいる間、空をこんなふうに眺めたことがあっただろうか。建物に遮られ、視線を上げる機会すら少なかった気がする。
昼休憩のために立ち寄った小さな宿場町では、人々の視線が素直だった。好奇心はあっても、計算や値踏みの色が薄い。
「ご婦人、遠くへ行かれるのですか?」
水を差し出しながら、宿の女主人がそう尋ねてきた。
「ええ。少し、静かな場所へ」
それ以上、説明する必要はなかった。女主人はにこりと笑い、「それはいいですね」とだけ言った。
その一言が、胸に心地よく染みた。
再び馬車に揺られながら、私はこれからの生活を思い描く。
辺境の別邸。王都から離れ、人の出入りも少ない場所。公爵家から見れば「追いやった先」なのだろうが、私にとっては――。
(ようやく、腰を落ち着けられる場所)
誰の目も気にせず、誰の期待も背負わず、静かに暮らすことができる。庭を整え、植物を育て、本を読み、菓子を焼く。必要なら、近隣の村と穏やかな関係を築けばいい。
公爵夫人である必要も、元公爵夫人であることを誇示する必要もない。
私は、ただのエリシア・ラヴェルとして生きればいい。
夕暮れが近づいた頃、馬車は丘の上で一度、速度を落とした。御者が振り返り、前方を指し示す。
「あれが、別邸でございます」
視線の先には、木々に囲まれた小さな屋敷が見えた。公爵家本邸に比べれば質素だが、手入れはされており、どこか温もりを感じさせる佇まいだった。
私は、その姿を見た瞬間、はっきりと思った。
(……ここが、私の場所になる)
馬車が再び走り出す。
新しい生活が、静かに、確かに、始まろうとしていた。
公爵家を出る日が、これほど静かに訪れるとは思っていなかった。
朝の空気はひんやりとしていて、雨上がりの庭には薄く霧が残っている。西棟の私室で、私は最後の荷造りを終え、部屋を見渡した。広く、整えられ、そして終始「私の場所」にはなりきらなかった空間。
だが、不思議と名残惜しさはなかった。
持ち物は本当にわずかだ。書物が数冊、種子を詰めた小箱、筆記具、そして日常着。宝飾品や高価なドレスは、最初から公爵家の管理下にあったものばかりで、私の所有ではない。
(身軽で助かりますわ)
そう思いながら、私は最後に窓を閉めた。
屋敷の正面では、簡素な馬車が一台、すでに待機していた。公爵家の紋章は付いているが、装飾は控えめで、見送りの列もない。使用人が数名、形式的に並んでいるだけだ。
ディーンの姿はなかった。
それでいい、と私は思った。最後まで顔を合わせない方が、お互いにとって楽だろう。
馬車のそばに立つ老執事が、事務的な口調で告げる。
「辺境の別邸までは、二日ほどの道程となります。道中の手配は整っております」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りで、十分だった。
馬車に乗り込むと、扉が閉められ、ほどなくして車輪が動き出す。公爵家の屋敷が少しずつ遠ざかっていくのを、私はカーテン越しに眺めていた。
胸の奥で、何かがほどけていく感覚があった。
(終わったのですね……本当に)
公爵夫人としての日々は、振り返ってみれば、驚くほど薄いものだった。華やかな記憶も、強い感情も、ほとんど残っていない。ただ、静かで、冷たく、そして不干渉な時間。
それは決して不幸ではなかったが、居場所でもなかった。
馬車は王都を抜け、次第に景色が変わっていく。石畳は土の道へ、整えられた街路樹は野性味のある林へ。遠くには低い丘と、広がる畑が見え始めた。
私は、その風景を見て、自然と微笑んでいた。
(……空が、広い)
王都にいる間、空をこんなふうに眺めたことがあっただろうか。建物に遮られ、視線を上げる機会すら少なかった気がする。
昼休憩のために立ち寄った小さな宿場町では、人々の視線が素直だった。好奇心はあっても、計算や値踏みの色が薄い。
「ご婦人、遠くへ行かれるのですか?」
水を差し出しながら、宿の女主人がそう尋ねてきた。
「ええ。少し、静かな場所へ」
それ以上、説明する必要はなかった。女主人はにこりと笑い、「それはいいですね」とだけ言った。
その一言が、胸に心地よく染みた。
再び馬車に揺られながら、私はこれからの生活を思い描く。
辺境の別邸。王都から離れ、人の出入りも少ない場所。公爵家から見れば「追いやった先」なのだろうが、私にとっては――。
(ようやく、腰を落ち着けられる場所)
誰の目も気にせず、誰の期待も背負わず、静かに暮らすことができる。庭を整え、植物を育て、本を読み、菓子を焼く。必要なら、近隣の村と穏やかな関係を築けばいい。
公爵夫人である必要も、元公爵夫人であることを誇示する必要もない。
私は、ただのエリシア・ラヴェルとして生きればいい。
夕暮れが近づいた頃、馬車は丘の上で一度、速度を落とした。御者が振り返り、前方を指し示す。
「あれが、別邸でございます」
視線の先には、木々に囲まれた小さな屋敷が見えた。公爵家本邸に比べれば質素だが、手入れはされており、どこか温もりを感じさせる佇まいだった。
私は、その姿を見た瞬間、はっきりと思った。
(……ここが、私の場所になる)
馬車が再び走り出す。
新しい生活が、静かに、確かに、始まろうとしていた。
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