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第八話 静かな別邸と最初の一日
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第八話 静かな別邸と最初の一日
別邸に到着したのは、夕暮れが完全に夜へ溶け込む直前だった。
馬車が止まり、扉が開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でる。王都よりも澄んだ空気に、思わず深く息を吸い込んだ。草と土の匂いが混じり合い、胸の奥まで染み込んでくる。
(……落ち着きますわ)
屋敷は二階建てで、決して大きくはないが、無駄のない造りだった。外壁には経年の痕跡があり、蔦が一部に絡んでいる。だが、それが荒廃を感じさせることはなく、むしろ「人の手が入れば、すぐに応えてくれそうな家」という印象を与えていた。
出迎えてくれたのは、年配の管理人夫妻と、若い使用人が一人だけだった。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
深く頭を下げる管理人の姿に、私は少し驚いた。形式的とはいえ、きちんとした礼を尽くそうという意思が感じられたからだ。
「今日から、こちらでお世話になります。エリシアと申します」
そう名乗ると、夫妻は顔を上げ、ほっとしたように微笑んだ。
「私どもは、この別邸を長く預かっております。何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」
その言葉には、王都の屋敷で感じていたような距離感や緊張がなかった。必要以上に畏まらず、しかし軽んじることもない。心地よい距離感だった。
案内された部屋は、一階の庭に面した寝室だった。窓を開けると、夜風が入り込み、遠くで虫の声が聞こえる。豪奢な調度品はないが、木の温もりが残る家具が整然と置かれている。
「……十分すぎますわ」
思わず、そう呟いていた。
荷物を置き、簡単な夕食を取った後、私は一人で庭に出た。月明かりに照らされた敷地は思っていたよりも広く、手入れが行き届いていない場所も多い。だが、それが嫌ではなかった。
(ここは、これから育てていく場所)
そう思うと、胸がわずかに高鳴った。
翌朝、私は自然と早く目を覚ました。
鳥のさえずりが耳に届き、窓の外にはやわらかな朝の光が差し込んでいる。王都での生活では、使用人に起こされるのが常だったが、ここではそんな必要もない。
自分の意思で目覚め、自分の意思で一日を始める。
その当たり前が、これほど心地よいとは思わなかった。
簡単な朝食を済ませると、私は庭を一通り歩いて回った。土の状態、日の当たり方、水はけ。荒れている場所も多いが、土そのものは悪くない。少し手を入れれば、十分に植物が育つだろう。
持ってきた小箱を開き、中の種を指先で確かめる。
(まずは、ここからですわね)
私はその日のうちに、管理人に頼んで道具を借り、小さな花壇を一つ整えた。鍬を入れ、石を取り除き、土をならす。作業は久しぶりだったが、不思議と体はよく動いた。
汗をかきながら、土に触れていると、頭の中が驚くほど静かになる。
余計な考えが消え、今ここにある感触だけが残る。
(……私は、こういう時間が欲しかったのですね)
昼過ぎには、簡単な菓子を焼いた。別邸の厨房は小さいが、必要なものは揃っている。焼き上がった香りに、使用人が目を丸くしていた。
「奥様が、焼かれたのですか?」
「ええ。よろしければ、皆さんでどうぞ」
遠慮がちに差し出すと、最初は戸惑っていた彼らも、次第に表情を和らげた。
「……とても、美味しいです」
その一言で、十分だった。
夕方、庭の縁に腰を下ろし、私は沈みゆく太陽を眺めていた。空がゆっくりと色を変え、風が頬を撫でる。
(ここでは、誰にも責められない)
失敗作と呼ばれることも、役立たずと断じられることもない。期待されない代わりに、否定もされない。
私は、ただ生きていていい。
その事実が、じんわりと胸に広がっていった。
こうして、別邸での最初の一日は終わった。
静かで、穏やかで、そして確かに――私の人生の新しい一日だった。
別邸に到着したのは、夕暮れが完全に夜へ溶け込む直前だった。
馬車が止まり、扉が開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でる。王都よりも澄んだ空気に、思わず深く息を吸い込んだ。草と土の匂いが混じり合い、胸の奥まで染み込んでくる。
(……落ち着きますわ)
屋敷は二階建てで、決して大きくはないが、無駄のない造りだった。外壁には経年の痕跡があり、蔦が一部に絡んでいる。だが、それが荒廃を感じさせることはなく、むしろ「人の手が入れば、すぐに応えてくれそうな家」という印象を与えていた。
出迎えてくれたのは、年配の管理人夫妻と、若い使用人が一人だけだった。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
深く頭を下げる管理人の姿に、私は少し驚いた。形式的とはいえ、きちんとした礼を尽くそうという意思が感じられたからだ。
「今日から、こちらでお世話になります。エリシアと申します」
そう名乗ると、夫妻は顔を上げ、ほっとしたように微笑んだ。
「私どもは、この別邸を長く預かっております。何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」
その言葉には、王都の屋敷で感じていたような距離感や緊張がなかった。必要以上に畏まらず、しかし軽んじることもない。心地よい距離感だった。
案内された部屋は、一階の庭に面した寝室だった。窓を開けると、夜風が入り込み、遠くで虫の声が聞こえる。豪奢な調度品はないが、木の温もりが残る家具が整然と置かれている。
「……十分すぎますわ」
思わず、そう呟いていた。
荷物を置き、簡単な夕食を取った後、私は一人で庭に出た。月明かりに照らされた敷地は思っていたよりも広く、手入れが行き届いていない場所も多い。だが、それが嫌ではなかった。
(ここは、これから育てていく場所)
そう思うと、胸がわずかに高鳴った。
翌朝、私は自然と早く目を覚ました。
鳥のさえずりが耳に届き、窓の外にはやわらかな朝の光が差し込んでいる。王都での生活では、使用人に起こされるのが常だったが、ここではそんな必要もない。
自分の意思で目覚め、自分の意思で一日を始める。
その当たり前が、これほど心地よいとは思わなかった。
簡単な朝食を済ませると、私は庭を一通り歩いて回った。土の状態、日の当たり方、水はけ。荒れている場所も多いが、土そのものは悪くない。少し手を入れれば、十分に植物が育つだろう。
持ってきた小箱を開き、中の種を指先で確かめる。
(まずは、ここからですわね)
私はその日のうちに、管理人に頼んで道具を借り、小さな花壇を一つ整えた。鍬を入れ、石を取り除き、土をならす。作業は久しぶりだったが、不思議と体はよく動いた。
汗をかきながら、土に触れていると、頭の中が驚くほど静かになる。
余計な考えが消え、今ここにある感触だけが残る。
(……私は、こういう時間が欲しかったのですね)
昼過ぎには、簡単な菓子を焼いた。別邸の厨房は小さいが、必要なものは揃っている。焼き上がった香りに、使用人が目を丸くしていた。
「奥様が、焼かれたのですか?」
「ええ。よろしければ、皆さんでどうぞ」
遠慮がちに差し出すと、最初は戸惑っていた彼らも、次第に表情を和らげた。
「……とても、美味しいです」
その一言で、十分だった。
夕方、庭の縁に腰を下ろし、私は沈みゆく太陽を眺めていた。空がゆっくりと色を変え、風が頬を撫でる。
(ここでは、誰にも責められない)
失敗作と呼ばれることも、役立たずと断じられることもない。期待されない代わりに、否定もされない。
私は、ただ生きていていい。
その事実が、じんわりと胸に広がっていった。
こうして、別邸での最初の一日は終わった。
静かで、穏やかで、そして確かに――私の人生の新しい一日だった。
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