選ばれ続ける場所で、私は決めない』

鍛高譚

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第九話 辺境の噂と、静かな違和感

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第九話 辺境の噂と、静かな違和感

 別邸での生活は、日を追うごとに私の呼吸に馴染んでいった。

 朝は鳥の声で目覚め、簡単な食事をとり、庭に出る。土に触れ、本を読み、時折菓子を焼く。夜は早く訪れ、星の数は王都とは比べものにならないほど多い。余計な音がなく、余計な視線もない。その静けさは、私にとって何よりの贅沢だった。

 だが、穏やかな日常の裏で、少しずつ違和感が芽生え始めていた。

 最初に気づいたのは、管理人夫妻の様子だった。

 彼らは誠実で、働き者で、私に対しても必要以上に気を遣わない。けれど、時折、言葉を飲み込むような仕草を見せることがあった。何かを話そうとして、やめる。そんな場面が、少しずつ増えていったのだ。

「……何か、ありましたか?」

 ある日の夕方、私は思い切って尋ねた。管理人は一瞬、視線を彷徨わせ、それから静かに首を振った。

「いえ、奥様。何も……」

 その否定は、どこか苦しげだった。

(何もない、という顔ではありませんわね)

 けれど私は、それ以上踏み込まなかった。無理に聞き出すのは、私の望む関係ではない。

 違和感は、屋敷の外でも感じられた。

 週に一度、必要な物資を調達するため、近隣の村へ行く。小さな市場で、野菜や穀物を選び、店主と短い会話を交わす。それだけの時間だが、村人たちの視線が、どこか探るようなものに変わっているのを感じた。

「……奥様、ですよね?」

 そう声をかけてきたのは、年若い商人だった。

「ええ。こちらの別邸に住んでいます」

 答えると、彼は一瞬、ほっとしたような顔をした。

「噂と、違いますね」

「噂?」

 思わず聞き返すと、彼はしまった、という表情を浮かべた。

「い、いえ……」

 そのやり取りは、そこで終わった。だが、その一言が、胸に引っかかる。

(噂……ですか)

 私は自分がどう噂されているのか、想像しようとしなかった。公爵家を追われた元夫人。役に立たず、辺境に捨てられた女。そんなところだろう。

 それでも、私は気にしないつもりでいた。

 けれど、噂は思っていた以上に、具体的な形を伴っていた。

 ある日の午後、庭仕事をしていると、別邸の門の外に人影が見えた。見知らぬ男が二人、辺りを伺うように立っている。身なりは粗末ではないが、村人とも違う。

 管理人が駆け寄り、低い声で何かを話している。その様子が、明らかに緊張していることを示していた。

 私は、そっと距離を詰めた。

「……奥様にお会いしたい、と」

 管理人が戻ってきて、困ったように言う。

「どのようなご用件でしょうか」

「それが……」

 彼は言葉を選びながら続けた。

「別邸が、空き家になったと聞いた、と。買い取りたい、あるいは……」

 そこで言葉が途切れた。

(なるほど)

 この場所は、公爵家の所有物だ。元夫人である私が住んでいるとはいえ、立場は曖昧。そう考えれば、付け込もうとする者が出ても不思議ではない。

「お断りください」

 私は即座に言った。

「ここは、私の住まいです」

 管理人は、驚いたように目を見開いたが、すぐに深く頷いた。

 男たちは、不満そうに去っていった。

 その背中を見送りながら、私は初めて、この別邸が完全に「安全な場所」ではないことを意識した。

(静かに暮らす、というのは……ただ黙っていることではないのですね)

 守る意思を示さなければ、奪われる。

 その当たり前の理屈が、ようやく現実味を帯びてきた。

 夜、書斎で本を読みながら、私は小さく息を吐いた。

 私は、争いたくない。目立ちたくもない。けれど、譲れないものがある。

 この静かな生活。誰にも干渉されず、自分の時間を生きる権利。

 それを守るためなら――。

(……少しだけ、声を出す必要があるのかもしれませんわね)

 外では、風が木々を揺らしていた。

 辺境の夜は静かだが、その静けさの奥には、確かに人の思惑と、欲と、噂が渦巻いている。

 私は、その中心に立っていることを、まだはっきりとは理解していなかった。

 けれど、この別邸での穏やかな日々が、ただの余生では終わらないことだけは――なぜか、確信していた。
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