10 / 39
第十話 静かな生活に差し込む、名を持つ影
しおりを挟む
第十話 静かな生活に差し込む、名を持つ影
別邸での生活に、目に見えない緊張が混じり始めてから、数日が経った。
私は相変わらず、庭に出て土を触り、本を読み、菓子を焼く。生活の形そのものは何一つ変えていない。変えなかった、というほうが正しいかもしれない。変えてしまえば、この場所が持つ「私の居場所」としての意味が薄れてしまう気がしたからだ。
けれど、空気は確実に変わっていた。
管理人夫妻は以前よりも周囲に注意を払うようになり、屋敷の門は日中でも閉められることが増えた。夜になると、灯りの位置も控えめになる。誰かに指示されたわけではない。ただ、それぞれが「何か」を感じ取っていたのだろう。
その「何か」が、形を持って現れたのは、ある曇った日の午後だった。
昼食を終え、私は書斎で薬草に関する古い書物を読んでいた。そこへ、控えめなノックの音が響いた。
「奥様、失礼いたします」
管理人の声だ。普段より、わずかに硬い。
「どうぞ」
扉が開き、管理人が一人、部屋に入ってきた。その後ろには、見知らぬ人物の姿があった。
年の頃は四十前後だろうか。質素だが手入れの行き届いた服装。背筋は伸び、無駄な動きがない。その立ち姿から、ただの村人ではないことがすぐに分かった。
「お時間をいただき、感謝いたします」
男は静かに頭を下げた。
「初めまして。私はセドリックと申します。身分を明かすことはできませんが、王都より参りました」
王都。
その言葉だけで、胸の奥がわずかに波立つ。
「王都から、わざわざこのような場所へ……?」
「はい。あなたに、お伝えすべきことがありまして」
管理人が気遣うように私を見る。私は小さく頷いた。
「ここで構いません。どうぞ」
セドリックは一瞬、部屋を見回した。書棚、机、窓辺の植物。豪奢とは程遠い、静かな空間だ。
「……噂に違わぬお方のようですね」
ぽつりと、そんな言葉を落とした。
「噂、ですか」
私が返すと、彼は小さく微笑んだ。
「ええ。公爵家を離れ、辺境で静かに暮らす元夫人。争いを嫌い、己の時間を大切にする女性」
随分と整った噂だ。
「それは、どなたが流しているのでしょう」
「さあ。噂というものは、勝手に育つものです」
彼はそう言ってから、声を落とした。
「ですが同時に、別の噂もあります」
「別の……?」
「あなたのいる場所では、作物がよく育ち、人が穏やかになり、争いが減る、と」
私は、言葉を失った。
「……そんな大げさな」
「私も最初は信じませんでした。しかし、調べるほどに一致点が増える」
セドリックの視線が、私を真っ直ぐに捉える。
「エリシア様。あなたは、ご自身がどう見られているか、ご存じですか?」
「いいえ。興味もありません」
正直な答えだった。
「それが、問題なのです」
彼は、ため息をつく。
「あなたは無自覚すぎる。善意も、無関心も、時に同じくらい危険です」
その言葉に、胸の奥がひりついた。
「……それで、王都からのご用件とは?」
「忠告です」
「忠告?」
「ええ。今後、あなたの存在を『利用しよう』とする者が現れます」
私は、思わず笑ってしまった。
「私に、利用価値などありません」
「あるのです。だからこそ、ここに来ました」
セドリックは淡々と言った。
「あなたは、すでに複数の勢力の目に留まっています。公爵家、商人、宗教関係者……そして王族」
最後の言葉が、重く落ちる。
「王族……?」
「第二王子殿下のお名前も、すでに上がっています」
私は、息を詰めた。
ジェラール殿下。まだ会ったこともない、遠い存在。けれど、物語の中の人物ではない。現実の名だ。
「私は、何もしていません」
「ええ。何もしていない。だからこそ、扱いやすいと考える者もいる」
彼の言葉は、冷静で、残酷だった。
「あなたが望む『静かな生活』は、あなたが黙っている限り守られるものではありません」
数日前、私自身が感じたことと、同じ結論だった。
「……では、どうすれば?」
セドリックは、少しだけ表情を和らげた。
「選択してください」
「選択?」
「完全に隠れるか。あるいは――立場を持つか」
立場。
それは、私が最も避けてきたものだった。
「立場を持てば、自由を失うのでは?」
「いいえ。立場を持たなければ、自由は奪われます」
静かな断言だった。
「立場とは、檻にもなりますが、盾にもなる。今のあなたには、盾がない」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
この別邸での暮らしは、確かに心地よい。けれど、それは誰かが守ってくれているからではない。ただ、まだ誰も本気で奪いに来ていないだけだ。
「……考える時間をください」
「もちろんです」
セドリックは深く頭を下げた。
「ただし、長くはありません。噂は、待ってくれませんから」
彼が去った後、部屋には静けさが戻った。
けれど、それは以前の静けさとは違っていた。
私は窓辺に立ち、庭を見下ろす。風に揺れる草花は、何も知らずにそこにある。
(私は……どうしたいの?)
ただ静かに生きたい。それは本心だ。
けれど、そのために、何も選ばないという選択は――すでに許されない段階に来ているのかもしれない。
私は、本を閉じた。
この生活を守るために、私は初めて、「何者であるか」を選ばなければならない。
辺境の別邸は、もう隠れ家ではない。
静かな生活の裏側で、確実に、運命が動き始めていた。
別邸での生活に、目に見えない緊張が混じり始めてから、数日が経った。
私は相変わらず、庭に出て土を触り、本を読み、菓子を焼く。生活の形そのものは何一つ変えていない。変えなかった、というほうが正しいかもしれない。変えてしまえば、この場所が持つ「私の居場所」としての意味が薄れてしまう気がしたからだ。
けれど、空気は確実に変わっていた。
管理人夫妻は以前よりも周囲に注意を払うようになり、屋敷の門は日中でも閉められることが増えた。夜になると、灯りの位置も控えめになる。誰かに指示されたわけではない。ただ、それぞれが「何か」を感じ取っていたのだろう。
その「何か」が、形を持って現れたのは、ある曇った日の午後だった。
昼食を終え、私は書斎で薬草に関する古い書物を読んでいた。そこへ、控えめなノックの音が響いた。
「奥様、失礼いたします」
管理人の声だ。普段より、わずかに硬い。
「どうぞ」
扉が開き、管理人が一人、部屋に入ってきた。その後ろには、見知らぬ人物の姿があった。
年の頃は四十前後だろうか。質素だが手入れの行き届いた服装。背筋は伸び、無駄な動きがない。その立ち姿から、ただの村人ではないことがすぐに分かった。
「お時間をいただき、感謝いたします」
男は静かに頭を下げた。
「初めまして。私はセドリックと申します。身分を明かすことはできませんが、王都より参りました」
王都。
その言葉だけで、胸の奥がわずかに波立つ。
「王都から、わざわざこのような場所へ……?」
「はい。あなたに、お伝えすべきことがありまして」
管理人が気遣うように私を見る。私は小さく頷いた。
「ここで構いません。どうぞ」
セドリックは一瞬、部屋を見回した。書棚、机、窓辺の植物。豪奢とは程遠い、静かな空間だ。
「……噂に違わぬお方のようですね」
ぽつりと、そんな言葉を落とした。
「噂、ですか」
私が返すと、彼は小さく微笑んだ。
「ええ。公爵家を離れ、辺境で静かに暮らす元夫人。争いを嫌い、己の時間を大切にする女性」
随分と整った噂だ。
「それは、どなたが流しているのでしょう」
「さあ。噂というものは、勝手に育つものです」
彼はそう言ってから、声を落とした。
「ですが同時に、別の噂もあります」
「別の……?」
「あなたのいる場所では、作物がよく育ち、人が穏やかになり、争いが減る、と」
私は、言葉を失った。
「……そんな大げさな」
「私も最初は信じませんでした。しかし、調べるほどに一致点が増える」
セドリックの視線が、私を真っ直ぐに捉える。
「エリシア様。あなたは、ご自身がどう見られているか、ご存じですか?」
「いいえ。興味もありません」
正直な答えだった。
「それが、問題なのです」
彼は、ため息をつく。
「あなたは無自覚すぎる。善意も、無関心も、時に同じくらい危険です」
その言葉に、胸の奥がひりついた。
「……それで、王都からのご用件とは?」
「忠告です」
「忠告?」
「ええ。今後、あなたの存在を『利用しよう』とする者が現れます」
私は、思わず笑ってしまった。
「私に、利用価値などありません」
「あるのです。だからこそ、ここに来ました」
セドリックは淡々と言った。
「あなたは、すでに複数の勢力の目に留まっています。公爵家、商人、宗教関係者……そして王族」
最後の言葉が、重く落ちる。
「王族……?」
「第二王子殿下のお名前も、すでに上がっています」
私は、息を詰めた。
ジェラール殿下。まだ会ったこともない、遠い存在。けれど、物語の中の人物ではない。現実の名だ。
「私は、何もしていません」
「ええ。何もしていない。だからこそ、扱いやすいと考える者もいる」
彼の言葉は、冷静で、残酷だった。
「あなたが望む『静かな生活』は、あなたが黙っている限り守られるものではありません」
数日前、私自身が感じたことと、同じ結論だった。
「……では、どうすれば?」
セドリックは、少しだけ表情を和らげた。
「選択してください」
「選択?」
「完全に隠れるか。あるいは――立場を持つか」
立場。
それは、私が最も避けてきたものだった。
「立場を持てば、自由を失うのでは?」
「いいえ。立場を持たなければ、自由は奪われます」
静かな断言だった。
「立場とは、檻にもなりますが、盾にもなる。今のあなたには、盾がない」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
この別邸での暮らしは、確かに心地よい。けれど、それは誰かが守ってくれているからではない。ただ、まだ誰も本気で奪いに来ていないだけだ。
「……考える時間をください」
「もちろんです」
セドリックは深く頭を下げた。
「ただし、長くはありません。噂は、待ってくれませんから」
彼が去った後、部屋には静けさが戻った。
けれど、それは以前の静けさとは違っていた。
私は窓辺に立ち、庭を見下ろす。風に揺れる草花は、何も知らずにそこにある。
(私は……どうしたいの?)
ただ静かに生きたい。それは本心だ。
けれど、そのために、何も選ばないという選択は――すでに許されない段階に来ているのかもしれない。
私は、本を閉じた。
この生活を守るために、私は初めて、「何者であるか」を選ばなければならない。
辺境の別邸は、もう隠れ家ではない。
静かな生活の裏側で、確実に、運命が動き始めていた。
2
あなたにおすすめの小説
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
【完結】義姉上が悪役令嬢だと!?ふざけるな!姉を貶めたお前達を絶対に許さない!!
つくも茄子
ファンタジー
義姉は王家とこの国に殺された。
冤罪に末に毒杯だ。公爵令嬢である義姉上に対してこの仕打ち。笑顔の王太子夫妻が憎い。嘘の供述をした連中を許さない。我が子可愛さに隠蔽した国王。実の娘を信じなかった義父。
全ての復讐を終えたミゲルは義姉の墓前で報告をした直後に世界が歪む。目を覚ますとそこには亡くなった義姉の姿があった。過去に巻き戻った事を知ったミゲルは今度こそ義姉を守るために行動する。
巻き戻った世界は同じようで違う。その違いは吉とでるか凶とでるか……。
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
どうぞお好きに
音無砂月
ファンタジー
公爵家に生まれたスカーレット・ミレイユ。
王命で第二王子であるセルフと婚約することになったけれど彼が商家の娘であるシャーベットを囲っているのはとても有名な話だった。そのせいか、なかなか婚約話が進まず、あまり野心のない公爵家にまで縁談話が来てしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる