選ばれ続ける場所で、私は決めない』

鍛高譚

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第十五話 返答は、静かに差し出される

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第十五話 返答は、静かに差し出される

 朝の空気は、驚くほど澄んでいた。

 夜のあいだに降った雨が、庭の土をしっとりと潤し、葉の上には小さな水滴が残っている。その一つひとつが光を反射し、まるで庭全体が息を整えているかのようだった。

 私はその光景を眺めながら、静かに深呼吸をした。

(……決めた、わね)

 迷いが消えたわけではない。ただ、迷いを含んだままでも進める、という感覚があった。完全な確信など、最初から必要ないのだと、今なら分かる。

 私は朝食を簡単に済ませると、管理人を呼んだ。

「セドリック様に、伝言をお願いできますか」

「はい、奥様」

「殿下に……お返事を差し上げたい、と」

 管理人は一瞬だけ目を見開き、それから深く頭を下げた。

「かしこまりました」

 その背中を見送りながら、私は胸の奥にわずかな緊張を感じていた。けれどそれは、不安というよりも、長く閉じていた扉を開ける前の、静かな高揚に近い。

 返答の場は、殿下の別邸ではなく、この場所が選ばれた。

 それは、私からの条件だった。

 ここは、私が私として立っている場所。誰かに迎えられるのではなく、迎える側でありたかった。

 昼前、門の外に馬車の音が響いた。

 昨日と同じく、控えめな護衛。派手さのない訪問。そこに、無理や誇示はなかった。

 ジェラール殿下は馬車を降りると、周囲を見回し、穏やかに微笑んだ。

「……今日は、庭が一段と美しいですね」

「雨の後ですから」

 私はそう答え、軽く一礼した。

 殿下は、私の向かいに腰を下ろす前に、はっきりと言った。

「今日は、あなたの答えを聞きに来ました。急がせるつもりはありません。もし、まだ――」

「いいえ」

 私は、殿下の言葉を遮った。

「答えは、出ています」

 一瞬、風が止まったように感じた。

 殿下は何も言わず、ただ私を見つめている。その視線には、期待も焦りもなかった。ただ、受け止める準備だけがあった。

「……お受けします」

 私は、はっきりと告げた。

「殿下のご提案――形式上の婚姻を」

 殿下は、すぐには反応しなかった。ほんの数秒、呼吸を整えるような間があってから、深く、丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます、エリシア殿」

 その声には、安堵と、抑えた誠実さが滲んでいた。

「ただし、条件があります」

「ええ。伺います」

 私は、事前に整理していた言葉を、順に差し出した。

「第一に。私は、ここでの生活を続けます。王都に常駐することはしません」

「承知しています」

「第二に。私の行動、交友、時間の使い方に、干渉しないこと」

「お約束します」

「第三に」

 私は、少しだけ言葉を選んだ。

「もし、私がこの関係を“重い”と感じた場合――理由を問わず、解消を申し出る自由を認めてください」

 それは、白い結婚という言葉に隠れがちな、最も重要な条件だった。

 殿下は、真剣な表情で頷いた。

「その条件を、私は尊重します。あなたの自由は、この関係の前提です」

 私は、ようやく息を吐いた。

「それなら……」

 私は、殿下をまっすぐに見た。

「私も、殿下の立場を尊重します。形式上であっても、妻として名を貸す以上、軽んじるような振る舞いはしません」

 それは、私なりの誠意だった。

 殿下は、少しだけ笑った。

「……それで十分です」

 庭に、穏やかな沈黙が落ちる。

 白い結婚。

 その言葉が、これまでとはまったく違う意味を持って、私たちの間に存在していた。

 これは逃げでも、妥協でもない。

 互いに境界線を引いたうえで結ぶ、静かな同盟。

 誰かの所有物にならず、誰かを縛らず、それでも並び立つ関係。

 殿下が立ち上がり、言った。

「では、形式的な手続きは、私が進めます。あなたの負担にならない形で」

「ありがとうございます」

「……ひとつだけ」

 殿下は、ほんの少し照れたように続けた。

「人前では、あなたを“妻”と呼ぶことになりますが……それ以外では、どう呼べば?」

 私は、少し考えてから答えた。

「エリシアで構いません」

 殿下は、柔らかく微笑んだ。

「では、エリシア」

 その呼び方は、不思議と重くなかった。

 こうして私は、再び婚姻という形を選んだ。

 けれど今回は、誰かに決められたものではない。

 白という名の距離を、自分の手で定めた結果だ。

 庭の花々が、風に揺れている。

 その光景を眺めながら、私は思った。

 この選択が、どんな未来を連れてくるのかは分からない。

 けれど少なくとも――。

 私は、私の人生を、私の言葉で動かし始めている。

 それだけで、この一歩には、十分な意味があった。
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