選ばれ続ける場所で、私は決めない』

鍛高譚

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第十六話 名が立つ日、影が動く

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第十六話 名が立つ日、影が動く

 形式上の婚姻が決まったからといって、翌朝の景色が一変するわけではない。

 庭はいつも通り静かで、朝露を含んだ草の匂いも変わらない。私は変わらず早起きをし、湯を沸かし、簡単な朝食を取った。

 けれど、確かに世界は一段階だけ、別の歯車へと進んでいた。

 それを最初に知らせてきたのは、王都から届いた一通の書簡だった。

 封蝋は控えめだが、正式な王家の紋章。管理人が両手で差し出すその様子からも、ただ事ではないと分かる。

「……もう、ですのね」

 私は静かに受け取り、封を切った。

 内容は簡潔だった。

 第二王子ジェラール・オルタシアと、エリシアとの婚姻を、王家として正式に認めること。  ただし、居住地・生活形態については、当事者間の合意を尊重する旨。  公表は、最低限に留めること。

 彼は、本当に約束を守った。

 私は思わず、紙の上に視線を落としたまま、わずかに息を緩めた。

「奥様……いえ」

 管理人は一瞬言い淀み、言い直した。

「エリシア様。王都では、すでに動きがあるようです」

「噂、ですか?」

「はい。ですが……祝福というよりも、探るような動きが多いかと」

 それも、予想の範囲内だった。

 王族の婚姻は、祝事であると同時に、政治だ。  しかも今回は、“王都に現れない王子妃”という、前例のない形。

 興味を引かれないはずがない。

(……来るわね)

 誰が、とは考えなくても分かる。  貴族社会とは、そういう場所だ。

 昼過ぎ、村のほうから数人の来訪者があった。  名目は挨拶。だが、その視線は私ではなく、屋敷そのものを測るように動いている。

「王子妃殿下が、なぜこのような場所に?」

「ご不便ではありませんか?」

「王都に戻られるご予定は?」

 柔らかい言葉の裏に、はっきりとした意図があった。

 ――ここに、価値があるのか。  ――操れる相手か。  ――利用できる余地はあるか。

 私は、すべてに同じ調子で答えた。

「不便ではありませんわ」 「戻る予定もありません」 「ここは、私が選んだ場所です」

 それ以上も、それ以下も与えない。

 相手が探りを入れるほど、私は距離を保った。

 やがて彼らは、思ったより早く引き上げていった。  欲しい反応が得られなかったのだろう。

 夕方、セドリックから短い報告が入った。

「王都では、三つほど派閥が動いています」

「予想通りですね」

「はい。ですが……殿下は、すでに釘を刺されています」

 その言葉に、私は少しだけ眉を上げた。

「どういう形で?」

「“彼女の生活に干渉する者は、私に干渉する者と同義”だと」

 私は、思わず小さく笑ってしまった。

「ずいぶん、分かりやすい盾ですこと」

「ええ。とても」

 その盾は、重すぎず、近すぎず。  それでいて、必要な場面では確実に機能する。

 夜、私は机に向かい、手帳を開いた。

 生活は変えないと決めた。  けれど、“王子妃”という名がついた以上、完全に無関係ではいられない。

 だからこそ、線を引く。

(私が動くのは、この場所から)

 村。  庭。  この別邸。

 ここを起点に、人を守り、距離を保ち、余計な争いに巻き込まれない。

 それが、私のやり方だ。

 窓の外では、夜風が木々を揺らしている。  遠くで、犬の鳴く声が聞こえた。

 世界は、確実に私を見始めている。

 けれど私は、まだ動かない。

 名が立った日だからこそ、足元を固める。

 静かな場所に立つ者ほど、無駄に騒がない。

 それを知っているからこそ――私は今夜も、灯りを落とし、変わらぬ眠りについた。

 嵐は、もう少し先だ。

 そのときに備えて、私はただ、静かに呼吸を整えていた。
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