16 / 39
第十六話 名が立つ日、影が動く
しおりを挟む
第十六話 名が立つ日、影が動く
形式上の婚姻が決まったからといって、翌朝の景色が一変するわけではない。
庭はいつも通り静かで、朝露を含んだ草の匂いも変わらない。私は変わらず早起きをし、湯を沸かし、簡単な朝食を取った。
けれど、確かに世界は一段階だけ、別の歯車へと進んでいた。
それを最初に知らせてきたのは、王都から届いた一通の書簡だった。
封蝋は控えめだが、正式な王家の紋章。管理人が両手で差し出すその様子からも、ただ事ではないと分かる。
「……もう、ですのね」
私は静かに受け取り、封を切った。
内容は簡潔だった。
第二王子ジェラール・オルタシアと、エリシアとの婚姻を、王家として正式に認めること。 ただし、居住地・生活形態については、当事者間の合意を尊重する旨。 公表は、最低限に留めること。
彼は、本当に約束を守った。
私は思わず、紙の上に視線を落としたまま、わずかに息を緩めた。
「奥様……いえ」
管理人は一瞬言い淀み、言い直した。
「エリシア様。王都では、すでに動きがあるようです」
「噂、ですか?」
「はい。ですが……祝福というよりも、探るような動きが多いかと」
それも、予想の範囲内だった。
王族の婚姻は、祝事であると同時に、政治だ。 しかも今回は、“王都に現れない王子妃”という、前例のない形。
興味を引かれないはずがない。
(……来るわね)
誰が、とは考えなくても分かる。 貴族社会とは、そういう場所だ。
昼過ぎ、村のほうから数人の来訪者があった。 名目は挨拶。だが、その視線は私ではなく、屋敷そのものを測るように動いている。
「王子妃殿下が、なぜこのような場所に?」
「ご不便ではありませんか?」
「王都に戻られるご予定は?」
柔らかい言葉の裏に、はっきりとした意図があった。
――ここに、価値があるのか。 ――操れる相手か。 ――利用できる余地はあるか。
私は、すべてに同じ調子で答えた。
「不便ではありませんわ」 「戻る予定もありません」 「ここは、私が選んだ場所です」
それ以上も、それ以下も与えない。
相手が探りを入れるほど、私は距離を保った。
やがて彼らは、思ったより早く引き上げていった。 欲しい反応が得られなかったのだろう。
夕方、セドリックから短い報告が入った。
「王都では、三つほど派閥が動いています」
「予想通りですね」
「はい。ですが……殿下は、すでに釘を刺されています」
その言葉に、私は少しだけ眉を上げた。
「どういう形で?」
「“彼女の生活に干渉する者は、私に干渉する者と同義”だと」
私は、思わず小さく笑ってしまった。
「ずいぶん、分かりやすい盾ですこと」
「ええ。とても」
その盾は、重すぎず、近すぎず。 それでいて、必要な場面では確実に機能する。
夜、私は机に向かい、手帳を開いた。
生活は変えないと決めた。 けれど、“王子妃”という名がついた以上、完全に無関係ではいられない。
だからこそ、線を引く。
(私が動くのは、この場所から)
村。 庭。 この別邸。
ここを起点に、人を守り、距離を保ち、余計な争いに巻き込まれない。
それが、私のやり方だ。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。 遠くで、犬の鳴く声が聞こえた。
世界は、確実に私を見始めている。
けれど私は、まだ動かない。
名が立った日だからこそ、足元を固める。
静かな場所に立つ者ほど、無駄に騒がない。
それを知っているからこそ――私は今夜も、灯りを落とし、変わらぬ眠りについた。
嵐は、もう少し先だ。
そのときに備えて、私はただ、静かに呼吸を整えていた。
形式上の婚姻が決まったからといって、翌朝の景色が一変するわけではない。
庭はいつも通り静かで、朝露を含んだ草の匂いも変わらない。私は変わらず早起きをし、湯を沸かし、簡単な朝食を取った。
けれど、確かに世界は一段階だけ、別の歯車へと進んでいた。
それを最初に知らせてきたのは、王都から届いた一通の書簡だった。
封蝋は控えめだが、正式な王家の紋章。管理人が両手で差し出すその様子からも、ただ事ではないと分かる。
「……もう、ですのね」
私は静かに受け取り、封を切った。
内容は簡潔だった。
第二王子ジェラール・オルタシアと、エリシアとの婚姻を、王家として正式に認めること。 ただし、居住地・生活形態については、当事者間の合意を尊重する旨。 公表は、最低限に留めること。
彼は、本当に約束を守った。
私は思わず、紙の上に視線を落としたまま、わずかに息を緩めた。
「奥様……いえ」
管理人は一瞬言い淀み、言い直した。
「エリシア様。王都では、すでに動きがあるようです」
「噂、ですか?」
「はい。ですが……祝福というよりも、探るような動きが多いかと」
それも、予想の範囲内だった。
王族の婚姻は、祝事であると同時に、政治だ。 しかも今回は、“王都に現れない王子妃”という、前例のない形。
興味を引かれないはずがない。
(……来るわね)
誰が、とは考えなくても分かる。 貴族社会とは、そういう場所だ。
昼過ぎ、村のほうから数人の来訪者があった。 名目は挨拶。だが、その視線は私ではなく、屋敷そのものを測るように動いている。
「王子妃殿下が、なぜこのような場所に?」
「ご不便ではありませんか?」
「王都に戻られるご予定は?」
柔らかい言葉の裏に、はっきりとした意図があった。
――ここに、価値があるのか。 ――操れる相手か。 ――利用できる余地はあるか。
私は、すべてに同じ調子で答えた。
「不便ではありませんわ」 「戻る予定もありません」 「ここは、私が選んだ場所です」
それ以上も、それ以下も与えない。
相手が探りを入れるほど、私は距離を保った。
やがて彼らは、思ったより早く引き上げていった。 欲しい反応が得られなかったのだろう。
夕方、セドリックから短い報告が入った。
「王都では、三つほど派閥が動いています」
「予想通りですね」
「はい。ですが……殿下は、すでに釘を刺されています」
その言葉に、私は少しだけ眉を上げた。
「どういう形で?」
「“彼女の生活に干渉する者は、私に干渉する者と同義”だと」
私は、思わず小さく笑ってしまった。
「ずいぶん、分かりやすい盾ですこと」
「ええ。とても」
その盾は、重すぎず、近すぎず。 それでいて、必要な場面では確実に機能する。
夜、私は机に向かい、手帳を開いた。
生活は変えないと決めた。 けれど、“王子妃”という名がついた以上、完全に無関係ではいられない。
だからこそ、線を引く。
(私が動くのは、この場所から)
村。 庭。 この別邸。
ここを起点に、人を守り、距離を保ち、余計な争いに巻き込まれない。
それが、私のやり方だ。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。 遠くで、犬の鳴く声が聞こえた。
世界は、確実に私を見始めている。
けれど私は、まだ動かない。
名が立った日だからこそ、足元を固める。
静かな場所に立つ者ほど、無駄に騒がない。
それを知っているからこそ――私は今夜も、灯りを落とし、変わらぬ眠りについた。
嵐は、もう少し先だ。
そのときに備えて、私はただ、静かに呼吸を整えていた。
4
あなたにおすすめの小説
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
【完結】義姉上が悪役令嬢だと!?ふざけるな!姉を貶めたお前達を絶対に許さない!!
つくも茄子
ファンタジー
義姉は王家とこの国に殺された。
冤罪に末に毒杯だ。公爵令嬢である義姉上に対してこの仕打ち。笑顔の王太子夫妻が憎い。嘘の供述をした連中を許さない。我が子可愛さに隠蔽した国王。実の娘を信じなかった義父。
全ての復讐を終えたミゲルは義姉の墓前で報告をした直後に世界が歪む。目を覚ますとそこには亡くなった義姉の姿があった。過去に巻き戻った事を知ったミゲルは今度こそ義姉を守るために行動する。
巻き戻った世界は同じようで違う。その違いは吉とでるか凶とでるか……。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
どうぞお好きに
音無砂月
ファンタジー
公爵家に生まれたスカーレット・ミレイユ。
王命で第二王子であるセルフと婚約することになったけれど彼が商家の娘であるシャーベットを囲っているのはとても有名な話だった。そのせいか、なかなか婚約話が進まず、あまり野心のない公爵家にまで縁談話が来てしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる