ただ今ヒツジ電話番

夏目はるの

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きそうということ

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その日から俺は1週間部活を休んだ。・・・本当は、部活だけじゃなく学校も休んでしまった。馬鹿なのは分かっている、でもどうしても何もする気が起きなかった。母は何も言わず俺のお昼ご飯を用意してから仕事に行ってくれていて、その優しさにありがとうも伝えられない自分が情けなかった。兄からも何度か電話やメールが来ていたけど、全て無視してしまった。どんな顔をして兄と話せばいいか、もう分からなかった。

「明日はどうするの?」
「・・・行く。」
「そ。お弁当用意しとくね。今日は早く寝なさいよ。」

母の言葉にうん、と小さく返事をする。丸々1週間休んでしまった日曜日の夜、さすがに明日からは学校行かないとな、と思って早い時間に布団に入った。が、中々眠りに付けなかった。スマホを見る気にもなれなくてボーッと天井を眺めていれば、ピロンと間抜けな音がして、珍しい、朝霞からだ。彼女からのメッセージはたった一文だけだった。

『運命の、お裾分け。』

その一文と、続けてURLが送られてくる。

なんだよそれ、運命のお裾分けなんて言葉、聞いたことないけど。
送られた来たURLを開くと真っ黒のホームページに飛ぶ。・・・ヒツジ電話番?なんだこれ。時計は深夜1時を指す頃で、何故か朝霞の曇りのない笑顔が頭に浮かんで、気づけば指が動いていた。

プルル、プルル

『ふぁーい、こちらヒツジ電話番です。』

明らかにあくびを噛み殺した間抜けな声に拍子抜けして緊張がほどける。子供のようにも聞こえる中性的な声は、なんだか不思議と落ち着いた。

『ふああ、今日はなんか珍しく眠いなあ。きみは眠くないの?あ、名前は?なんて呼べばいい?あだ名でも何でもいいよ。』
『・・・スモモ。』
『スモモね、ふふ、可愛いね。』

咄嗟に口から出たのは家で飼っている犬の名前で、言った後に恥ずかしさで顔が赤くなってしまったのが分かった。でもまあでもいいか、相手の顔も分からないし、これから会う事もないのだから。

『スモモは眠くないの?』
『・・・あんまり。』
『そっかあ。僕もいつもは全然眠くないんだけどね。今日はなんでだろう、久しぶりに運動したからかなあ。』
『運動、何したの?』
『縄跳び。』
『え、何で縄跳び?』

予想もしてなかったスポーツ(スポーツと呼ぶのだろうか)に思わず突っ込んでしまえば、電話の向こうで不貞腐れたような声を出す。

『人に言われたの、お前は運動しなすぎるから少しは動けって。縄跳びなら一人でもできるだろって、急に渡されて。』
『で、ちゃんとやったんだ。』
『やったよ。なんか懐かしくなっちゃって。でも思ったより出来なくて悔しかったなあ。』
『結構体力使うよな。』
『そう!めっちゃ疲れた~。』
『俺も毎日部活で毎日やってるから。』

あ、やってた、か。なんて思わず付け足せば『なんで過去形?』と尋ねられて、
ちょっと、と言葉を濁した。

『今、部活休んでで。陸上部なんだけど。』
『そうなんだ。部活は楽しい?』
『うーん。楽しくはないかな。走るの、苦しくてしんどいし。』
『そっか。でも、好きなんだ?』
『・・・好き、だね。』

案外聞かれることのない部活が好きかという質問に、思いのほかすぐに答えることが出来た自分に少し驚いた。そっか俺、ちゃんと陸上が好きなんだ。苦しくて孤独なことも多いスポーツだけど、そういう所もきっと、ちゃんと好きなんだ。なんだか少しホッとしてしまって、気付けば俺は今までの事をペラペラと話し始めていた。俺の話を最後まで聞いてくれてから、ねえ、と柔らかな声で尋ねる。

『スモモはさ、お兄さんが羨ましい?』
『・・・うん、正直。でも、少し違う気もして。』

兄に対するこの気持ちは、羨ましい、という単純な言葉とは少し違う気がした。兄は才能があるだけじゃなくて加えて努力家だ。だからこそ本当に尊敬していて、凄いと思っていて、その反面妬ましい。羨ましい、だとなんか、なんか違くて。

『そっか。僕には、スモモはお兄さんにとても憧れてるふうに聞こえるけどなあ。』
『・・・え、それって違うの?」
『全然違うよ。』

羨ましいから、憧れてしまうんじゃないのだろうか。自分にはないものを持っているから、ドロドロとした黒い感情を抱いてしまうんじゃないのだろうか。
電話口で、小さく笑う声がした。

「大切なのはね、憧れても羨まないこと。悲しみを苦しみに変えないこと。憧れも悲しみもどんどん口に出していいんだよ。伝えていいんだよ。そうしないと、自分でも気づけないうちにしんどい方へ形が変わってしまうから。」

憧れても、羨まない。
すっと、言葉が心に入り込んでくる。

ねえ、

「もう一回聞かせて。お兄ちゃんのことが羨ましくてたまらない?きみの努力は、本当に一度も報われなかった?」

答えは、僕には言わなくていいよ。では。

その言葉の後に聞こえた小さな『おやすみなさい。』の声で、俺の意識はスルリと夢の中へ溶け込んだ。




「じゃあ、行ってきます。」
「いってらっしゃい、気を付けて。」
「・・・ありがとう。」
「え?」
「お弁当、ありがとう。」

俺の言葉に、何よ急に、と母が少し照れたように笑う。俺もなんだか恥ずかしくなってしまって慌てて玄関を出た。家の前では父が車を止めて待っていてくれて、ドアを開けて乗り込む。
しばらくの間の通学は父が仕事に行くときに合わせて学校まで送ってもらう事になった。とても申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、どうやら仕事で忙しい父は俺と話せる時間が取れるようになった事をとても嬉しがっているようだ、と母がこっそり教えてくれた。部活は朝練はしばらく休んで、放課後はストレッチとマネージャー業務を主に行う事になった。コーチや他の選手と話し合って、きちんと決めた事だ。



プルル、プルル。

『もしもし。』
『・・・兄ちゃん、ごめん。』
『謝られることなんて、別に何もされてないけど。』

その日の夜、部屋でストレッチをしながら兄に電話を掛けた。
開口一番の俺の謝罪に兄ちゃんはそう笑ってくれて、胸がいっぱいになる。

母や父、コーチや仲間たちとしっかり話せたこと、部活はしばらくストレッチとマネージャー業務に専念する事にしたこと、俺の話を静かに聞いてくれた兄ちゃんはそっか、としばらく黙って、意を決したように口を開いた。

『俺さ、レギュラー入りした事ないんだ。』
『え?』
『入部してからまだ1回も公式戦出れてない。こんなこと情けなくて颯人には言えなくてさあ。ほんとカッコ悪いよなあ。』

呆れちゃうだろ、と兄ちゃんは笑う。・・・全然、知らなかった。俺は勝手に兄ちゃんが大学でも活躍していると思っていて、順風満帆な生活を送っていると思っていて、ああ、俺、何にも知らなかったんだ。
唇を噛んで黙ってしまった俺の名前を、兄ちゃんは優しく呼ぶ。

『でもさ、俺は諦めないよ。もう3年だけしチャンスはほんの少ししかないけど、絶対諦めない。』
『・・・うん。』
『この言葉が颯人を苦しめるかもしれない、呪いになっちゃうかもしれない。でも、あえて言わせてくれ。俺に、言わせてくれ。』

『颯人、絶対諦めんなよ。』

来年の夏、俺は笑えているだろうか。
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