上 下
15 / 37

15、心配という免罪符

しおりを挟む
冷司がベッドに横になったまま、パタンと本を閉じる。
文字が目で追えない。何故か、文字が文字に見えない。目も、頭も働かない。
枕元に転がったペットボトルを手に取り、震える手で口に運ぶ。
逆さまにしても水が出てこないことに気がつき、ため息を付いた。

ベッドのヘリにズルズル這っていき、手で探って水の入っているボトルを探す。
ガランガラン音を立て、重いボトルが手に触れない。
ベッドから乗り出して見回しても、視界がぼやけてどれに水が入っているのかわからない。

冷司の部屋の床、特にベッド周辺には水やスポーツドリンクの空きボトルが沢山転がっている。
冷司はこの数日を、水分だけで過ごしていた。
最初の2,3日は自分で立って、キッチンまで取りに行った。
それから四つん這いで、トイレに行くのも這っていくようになると、母親が部屋の外に置くドリンクで繋いだ。

トイレに行きたい。
何だかムカムカして気持ち悪いのが取れない。

下に降りれば、母らしいものがいる。
母親と会いたくない。
あの、光輝の部屋から帰ったあの日、


冷司がタクシーから降りると、いつもより遅い帰りに、母親は玄関先で何をしていたのか聞いてきた。
まだ日が暮れたばかりの時間で、深夜では無い。
もう二十歳を越えた自分に、過剰なほど心配と言う名目で干渉してくる。

「なんでもない、友達の家に行ってたんだ」

「冷司、……安っぽいシャンプーの臭いがしない?お風呂?
あら、なんか、首が赤くない?」

「違うよ、お店で香水付けてみたんだ」

ビクッとして、慌てて2階の部屋につまずきながら駆け上がった。
部屋にある鏡で首筋を見ると、首筋が、赤く跡が残っている。
それは、触れると愛おしくなるほどの光輝のキスの跡だった。

身体をギュッと抱きしめる。

「光輝……大丈夫、大丈夫だよ」

熱い吐息を思い出すように、唇を舐めた。
目を閉じると、光輝の顔が……

コンコンコン

ノックの音に、ハッとして顔を上げる。

「バッグを持って、下に来なさい」

「わ……わかったよ」

どくんと心臓が震えた。
ため息付いて椅子に座り、胸を押さえて何度もツバを飲み込む。そして部屋を出た。

「バッグよ!バッグを持ってきなさい!すぐに!」

一階から、母親が見張っている。
ドアを閉め、バッグを見る。
冷司は焦って、酷く慌てた。

とにかく、一万円出さなきゃ。これがあれば逃げられる。

キーホルダーのマスコットの中から取り出そうとするけど、1万円が出てこない。
ピンセットを探そうと筆立てに手を伸ばす。

ガシャンッ!バーンッ、バラバラバラ

「ああ……」

机の向こうへ倒して、落ちてしまった。
キーホルダー自体は簡単に外せない。


「何をしているの!ごまかしは許さないわよ!!早く!すぐに!持ってきなさい!」

バンバンバンバン!!

激しくバンバン階段を叩かれ急かされて、泣きそうな顔で唇を噛み、あきらめて持っていく。
母親は途中まで階段を上ってくると、冷司からカバンをひったくり階下の広い吹き抜けの居間へ向かう。

そこは父親自慢のゆったりしたリビングで、冷司が中学に入学した頃に建てたこの家で一番広い部屋だ。
高い天井にふかふかのソファーは、兄とよく遊んで怒られた。
父親は釣りの道具を手入れして、テーブルにはよく美しいルアーが並べられ、楽しく笑いの絶えない部屋だった。

バサッ!ドンッ!バンッバサバサッ!

リビングのテーブルに冷司のバッグの中身をぶちまけチェックする。
開いたノートから落ちた、水族館のチケットの切れ端を見つけて冷司を睨むと、小さく千切りゴミ箱に捨てた。

「ほら、こんな物がちゃんと残ってる。ウソばかり、毎日毎日どこに行ってたのかしら?
ウソで隠そうとしても無駄よ」

母親がダイニングへ行くと食卓に座り、向かいに座るように指さす。
説教は、必ずこの食卓だ。
家族みんなで楽しく食事をしてきた、この食卓。
今はまるで、犯罪者を尋問するための冷たいデスク。
だから、常に犯罪者である冷司は食欲も何も出ない。

立ち尽くす冷司に、ドンとテーブルを叩いて指を指す。

「早く!座りなさい!」

仕方なく座ると、自分の首を指さした。そして質問を滝のようにぶつけてくる。

「ここにあるの、キスの跡でしょ?今日は水族館に行ったのね?
何がスパゲティよ、ずっとお金を使い込んで騙してたのね?
誰と付き合ってるの?いつから?相手の方はお勤め?学生?
いくつくらいのお嬢さん?」

「余計なお世話だよ」

潰れそうな喉から、必死で声を絞り出す。
母親の顔に、真っ赤に火がつきゾッとした。

逃げよう、逃げよう!コウの所へ。この人は怖い。

立ち上がり、リビングのバッグの所に行こうとすると、テーブルをバンと叩いて追ってきて、痛いほど腕を捕まれた。

「私はね、単身赴任のお父さんの分もあなたを心配しなきゃならないの。
変な人に騙されてたら、止めなきゃならない。
図書館で会ったんでしょう?どんな人?ちゃんとしたところのお嬢さんなの?」

「変な人じゃ無いよ、ちゃんと勤めもしてる。
専門学校に行くから勉強してるんだ」

「いくつくらい?!」

「同年代、だと思う」

「大学に行けなかったから専門学校でしょ?
堕落してるのよ!勉強もまともにしてない!」

「ち、違うよ、夢があるからそれを追ってるんだ」

「夢!夢ですって?!ホホ!くだらないわ」

だんだん母親の語気が強くなる。
ヒステリックな声になっている。
怖くて早く逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
この家は、母親が君臨する城だ。
冷司は一匹のネズミのような気分で、踏み潰されないように彼女の機嫌を伺っていた。

「心配……いらないよ。そんな、変な人じゃ無いから」

「駄目よ、真っ昼間から、あなたにこんなことする人間だからビックリしてるの。
非常識だわ!なんてみだらで下品なのかしら。弄ばれているのよ!
このままじゃ、安心してあなたを図書館にやれないわ」

「い、飲食店に勤めで……夜の仕事なんだ、だから明るい時間にしか会わないから。
首のこれは、ちょっとした……遊びだよ」

「遊びってなに?ホステス?キャバクラ?
あなたは身体が弱いから心配してるの!」

「違う、居酒屋、遊びじゃない。真剣なんだ。」

「水商売じゃない!!別れなさい!」

「別れるかは自分で決める時が来たら決めるよ」

「そんな事言うけど、捨てられるのはあなたの方なのよ?!
そんな身体見せたら、相手はビックリするじゃない!
あなたは自覚無いんだろうけど、あなたが思った以上にその身体は醜いのよ?
普通の人から見れば、気持ちが悪いの!

お母さんはね、心配してるの。
あなたの心が傷つく前に、こちらからお断りしなさい!」

冷司はわなわなと震え、泣きながら叫んだ。

「光輝はそんな奴じゃ無い!」

「こうき??お、男??」

母親の顔が、みるみる驚きにゆがんで行く。
醜悪なまでのその顔に、冷司は全身に水をかぶったように冷や汗が流れた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

猫が繋ぐ縁

恋愛 / 完結 24h.ポイント:120pt お気に入り:189

復讐します。楽しみにして下さい。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:99pt お気に入り:223

魔拳のデイドリーマー

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:1,057pt お気に入り:8,522

主役達の物語の裏側で(+α)

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,498pt お気に入り:43

処理中です...