午後一時のカフェ

谷村にじゅうえん

文字の大きさ
上 下
1 / 1

午後一時のカフェ 1/1

しおりを挟む
 イメチェン……?

 観葉植物の向こうに見えた彼の姿に、俺は口へ運びかけていたミニトマトを落としてしまった。
 会社と同じビルの一階にあるカフェ。時刻は午後一時。
 水曜は毎週ここで彼を見かける。
 きっかけは俺がテーブルにIDカードを置き忘れたのを、彼が気づいて追いかけてきてくれたことだった。

 会社のIDカードはなくすととても大変だ。オートロックのドアが開けられなくなるし、再発行には面倒な手続きがいる。当然、上司にも怒られる。三〇過ぎた男がしかられるのは惨めだ。

 彼のお陰でその憂き目に遭わずに済み、あれから二か月。彼とはこの店で目が合ったら会釈するようになった。同じテーブルを囲う仲じゃない。
 けれども俺は彼に好感を持っていた。

 IDカードを拾ってもらったこともあるけれど、なんだろう、彼の柔らかな物腰や、ちょっとさえない好青年ぶりが好きだ。
 食事のあとテーブルで本を読んでいて、ついひとりで笑ってしまったり、のめり込むと本と顔の距離が近くなるところなんかもいい。
 そのくせ連れがいる時は、ぴんとした背筋とにこやかな顔を崩さなくて。
 きっと会社ではそれなりにできるヤツなんだろう。

 俺は離れた席にノートPCを広げ、彼をそんなふうに観察していた。

 その彼が今日はどういうわけか、イメチェンしてきている。
 無造作ヘアだった黒髪が、ワックスでまとめられている。着るものだっていかにも量販店のスーツだったのが、小洒落たチェックのジャケットと茶のパンツに変わっていた。

 一体どうしたんだろう?
 俺はサラダのミニトマトをフォークに刺し直し、口に運ぶ。

 今日は何か特別な日なんだろうか。大事なプレゼンとか?
 それにしてはやや服装がカジュアルだ。プレゼンというよりデート?
 デート……ってことは恋人がいたのか? それとも恋人ができた?
 あの服は彼女が見立てたものなのかもしれない。

 口の中でミニトマトが弾け、突き抜けるような酸味が広がった。

 もう一度彼を見る。目が合ってしまった。
 彼がテーブルの間をこちらへ歩いてくるところだった。座るのはいつもの席じゃないのか。
 それだけのことに俺は動揺する。
 絡み合ってしまった視線はほどけない。

 どうして? 俺が観察していたことに気づいてしまったんだろうか。

「あれ、今日はデートか何かですか?」

 そばまで来た彼に何か言おうとして、思ったことをそのまま口にしてしまった。

「えっ? デート?」

 彼が足を止めた。

「だってその……いつもと違うから」

 ああ。これじゃあ「いつも見てます」って言っているようなものだ。飲み込んだはずのミニトマトが歯茎に染みる。冷めたコーヒーで洗い流した。

 彼はなんとも言えない渋い顔をしている。やっぱり俺はしくじったみたいだ。
 彼が向かいの席を目で示した。

「あの、少しいいですか?」
「んっ? え、はい、誰も来ないので」

 俺は返事をしながらも、彼の予想外の言葉に混乱しながら身構えた。
 初めてテーブルを挟んで向き合う。

 困った。前から話したかったのに、心の準備ができてない。彼が向かいに座った理由もよく分からないし。
 気まずい沈黙。ウェイターを目で探そうとした時だった。

「実は、今日こそあなたに声をかけたいと思って」
「……?」
「……だからちょっとくらい、ちゃんとした格好を……」

 彼の視線が分かりやすく泳ぐ。

「……え? ええっ?」

 思わず変な声が出た。

 このイメチェンが俺のためだって? やめてくれ、そんなの……。
 一瞬で恋に落ちる。

 -了-
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

可愛いなんて嘘ですよね??

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:127

繋がりました。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:26

婚約破棄ですか....相手が悪かったですね?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:71

シャーデンフロイデの嫉妬

BL / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

寂しくて

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

Alice Zero

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:4

ある日、人気俳優の弟になりました。

BL / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:1,459

処理中です...