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第二章 初めてのデート

【4】

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 岳は、鳴り響いた携帯電話を見て、眉をひそめた。
 通話ボタンを押して、咥えていた煙草を左手に持ち換えた。

「よぉ、慎。朝はびびったぞ。一体何があったん――」
『今水族館に来ています。彼女と』
「……へ?」

 酷く慌てた様子の友人の声に、岳は目をぱちくりさせた。いつも冷静沈着で人を人とも思わない外道ぶりを垣間見せる男も、こんなふうに焦ることがあるなんて。
 いや、それよりも。

「彼女? お前、恋人できたのか」
『いいえ。……気になる女性をデートに誘って、水族館に来ました。告白する前に、可愛くてキスしてしまったのですが、どうしたらいいでしょう』

 一気に話した慎一郎は、電話の向こうで、そわそわしながら返事を待っているのだろう。だが、岳とて慎一郎の言葉を理解しなければ返事はできない。

(キス? あの堅物が? 誰と? 女と? 水族館でキス……キス?)

  異国語を聞いているかのように、慎一郎の言葉の意味を理解できずにいると。

『知らなかったんです』

 慎一郎が、話を続けた。

「なにが」
『彼女が、旅行へ行っていなかったなんて。行きたかったはずです。なのに、私が行けないようにさせていた……のだと、思います』
「はぁ?」

 なんの話だ。
 旅行というのは、社員旅行だろうか。部下の小さな失敗をねちっこく虐めた結果、残業やら勉強に追い込み、社員旅行へ行かせなかった……とか。
  想像して、その女性が哀れになった。慎一郎の普段の怜悧な態度からして、容易に想像がつく。

「つまり。……お前、好きな女が出来たんだな?」

 そこだけは確認しておこう、と思っての言葉だったが。

『そう言っているではありませんか』

 怒気を孕んだ返事が返ってくる。
 相談に乗ってやってるのになんで怒られんの俺、と納得のいかない気持ちを抱えながらも、大人な岳は、ふんと鼻で笑ってやる。
 いつだって、岳が相談する側だった。
 慎一郎が岳を頼ってくるなど、滅多にないのだから、こういうときこそ懐の深さを見せつけてやろう。
 何より、古い付き合いのある友人が、恐らく、初めて知ったであろう恋心だ。
 大切にしてやりたいではないか。
 もし上手くうけば、今度こそ、心から愛する相手と添い遂げることができるかもしれないのだから。

「キスくらい別にいいじゃん。デートについてきたってことは、向こうも脈ありなんだろ。だったら、そのまま押せよ」
『……押す?』
「お前は感情表現が苦手だからな。これでもかってくらい、好きだってことをアピールしてみたらいいんじゃね? キスして嫌がられたわけでもねぇんだろ?」

 どんな女か知らないが、慎一郎に好意を寄せられて不快になるやつはいないだろう。
 なにしろ、慎一郎は腹が立つくらいの美丈夫だ。若いころは女みたいなやつだと思ったが、歳を重ねるにつれ、色っぽさが増していくのだから、男としては妬ましい。
 それでも友人でいられたのは、慎一郎が恋愛に興味がなくて、女嫌いだからだ。
 妻とも、妻が慎一郎に告白して振られたところを慰めたのがきっかけで、知り合った。

「そんくらいでやっと、相手に伝わる程度だと思うぜ。お前は本当に、感情表現が下手くそだから」

 付き合いが長い岳には、慎一郎の微々たる表情や声音の変化がわかるが、会社で知り合ったばかり、もしくは知り合って数年の相手が、慎一郎の感情を早々読めるとは思えなかった。
 過剰なほどのアピールをして、やっと相手に伝わるだろう。

「わかったか?」
『いえ、あまりよくわかりません。つまり、私はどうしたらよいのでしょう?』
「……だからさ」
『具体的にお願いします』
「だからさぁ! 好きだって伝えればいいんだって!」

 慎一郎は、やや黙したあと、わかりました、と言った。
 岳はほっと息をつく。どんな相手か知らないが、慎一郎が惚れる相手だ。とんでもない化け物に違いない。

「今度、どんなひとか聞かせろよ。その女について」

 女嫌いの慎一郎が見初めた相手だ、気になって当然だろう。
 酒でも飲みながら語らせよう、そう思った。
 だが。

『お断りします。彼女は私のものなので』

 ぷつ、と通話がきれた。
 つー、つー、と通話口の向こうからは、虚しい機械音が聞こえてくる。
 岳は携帯電話を切って、煙草を咥えた。

「……今朝もだけど、ひどくね? お前って、それなりに俺に気遣いあったよなぁ」

 どうやらその彼女が関わると、慎一郎は大変失礼になるらしい。
 これは是が非でも、相手を確認しなくては。
 万が一振られたときには、やはり酒でも飲みながら慰めてやろう。
  俺ってほんと、いいやつだなぁ。

 ◇

 通話を切った慎一郎は、トイレのミラーの前で大きく深呼吸をした。
 有希の可愛らしさに、身体が勝手に動いてしまったのは、つい先ほど。咄嗟に手洗いだと言って席を立ち、岳へ電話をしたのだ。
 こうして岳に相談するのは、稀なことで、こと恋愛においては当然ながら初めての相談だった。

(あいつが言うのだから、間違いはないでしょう)

 こんな堅物の自分と何十年も仲良くしてくれる相手だ。きっと、適切なアドバイスをくれたのだろう、と慎一郎は頷く。
 慎一郎は、落ち着くように自分に言い聞かせてから、トイレをでた。
 窓側のカウンター席に、有希の姿を見止める。今日の有希はいつにも増して愛らしい。あの余所行きの服も、化粧も、自分と出掛けるためにしたのだと思うと、また頬が緩んでしまう。

「おまたせしました」

 席へ戻った慎一郎は、突然すみませんでした、と謝罪する。
 先ほど、岳は「キスを嫌がってなかっただろう」と言ったが、有希の反応を見る前に席を立ってしまったのでわからない。
 いくら恋愛や女性関係に疎い慎一郎でも、義理の娘の唇を突然奪うことが普通ではないことくらい、わかっているつもりだ。

(いきなりは、失礼です。順番を、踏まないと)

 僅かでも不愉快な表情がないか見過ごしてしまわないように、有希を凝視した。
 じぃっと揺るぎない圧のかかった視線を向けられた有希は、「大丈夫です」と笑った。穏やかな笑みを浮かべている彼女からは、少しも怒りは感じられない。

「お手洗いは、いつでもどうぞ。生理現象ですから」
「……ああ。いえ、手洗いに立ったことではなくて、先ほどのキスです。突然でしたが、嫌でしたか?」

 ピタ、と。
 有希の動きが止まった。
 表情は笑みを浮かべたままなので、突然動きを止めた彼女の胸中を推し量ることは難しい。

「有希?」
「……あの、私また、聞き間違いをしちゃった、みたいで」
「ではもう一度。キスは、嫌でしたか?」

 丁寧に質問を繰り返すと、有希が動いた。
 両手で顔面を隠して、俯いてしまう。泣かせたのか、と焦ったのはほんの一瞬だった。耳まで真っ赤になった有希から察するに、どうやら照れているらしい。

「有希、大丈夫ですか?」
「……った」
「はい?」
「聞き間違いじゃ、なかったっ」
「え? そうですか。それはなによりです」

 なぜそんなふうに俯いてしまうのだろうか。怒っているわけではなさそうでほっとするものの、せっかく照れるのならば、顔を見せてほしい。
 そっと肩に手をおくと、有希の身体が跳ねる。
 おずおずと顔をあげた有希は、やはりというか、顔を真っ赤にしていた。それだけではない。瞳をうるませて、扇情的な目で慎一郎を見つめてきた。きゅっと結ばれた唇からは、意志の強さが伺える。

(もしかして、照れているのではなく、具合が悪いのでは)

 ふとそんな考えが過って、慌てて有希の額に触れる。昨夜とは違って、今回はこうして体温を測るのはおかしいことではないだろう。
 有希は身体を強張らせたが、熱はないようだった。

「片瀬さんは」
「はい?」

 有希らしくない小さな声に、首をかしげて問い返す。
 有希は、何かを決心したようにぐっと顔をあげた。

「片瀬さんは、ずるいと思います」

 思いもよらないことを、驚くほどにはっきりと言われて、さすがの慎一郎もひるんでしまう。

「ずるい、とは」
「いきなりデートをしたり、その、キスしたり」
「……嫌でしたか」
「だからっ、そういう聞き方をしないでくださいっ。嫌なわけないでしょうっ、片瀬さんになら何をされたって構いません!」

 有希は頬を赤くしたまま椅子から立ち上がると、鞄を持って歩いていく。
 怒らせてしまったのだろうか。キスに関して、嫌ではなかったと有希は言った。では一体、何を彼女は怒っているのだろう。
  慌ててあとを追いかけた。

「有希っ」
「帰ります」
「待ってください。何を怒っているんです」

 ぴた、と有希は足を止めた。
 有希のすぐ後ろには、水族館の出口専用ゲートがある。館内は一巡したことだし、ちょうど帰る頃合いだろう。
 慎一郎は、俯いてしまった有希の肩を抱いて、ゲートを出た。

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