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おすすめスープ 二皿目

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 ミネストローネ自体は珍しいものではない。他のお店でもよく見るメニューだし、トマト缶があれば家庭でも作りやすいと聞いている。いわば定番のスープだ。

「私、このスープ知ってる……。だってこれは彼の、雄太のミネストローネ……」
 
 ミネストローネはイタリアの家庭料理と言われ、材料や作り方も家庭によって違うのだと、雄太が教えてくれた。
 目の前に置かれたミネストローネには、たっぷりの大豆、ざく切りのキャベツと刻んだ赤ウィンナーが入っていた。仕事に熱中するあまり、食事を疎かにしがちな私のために、このスープだけで満足できるようにと彼がよく作ってくれたのだ。
 雄太は町の洋食屋の若きコックだったから──。

 照れくさそうに笑う、雄太の顔を思い出す。言葉は少ないけれど、とても優しい人だった。仕事のことで愚痴を言う私の長話を、文句ひとつ言わず黙って聞いてくれた。
 そして最後に、私のためにとたっぷりの野菜と大豆が入ったミネストローネを作ってくれるのだ。

「琴羽は大豆が好きだもんな。カフェに行くと、豆乳ラテばかり飲んでるし」

 カフェオレが好きなのに、牛乳を飲むとお腹が痛くなることがあったから、豆乳を使った豆乳ラテをよく飲んでいた。そこから雄太は、「琴羽は大豆が大好き」と思ったらしい。大豆大好きというわけではなかったけれど、あえて私は何も言わなかった。彼の不器用な優しさがなにより嬉しかったから。

「私、今でも彼のことを……雄太が好き。大好き……」

 思いがあふれ出し、言葉になった瞬間。ぽとりと、ひとつぶの涙がスープ皿の前に落ちた。いつしか私の目から、涙があふれていた。

「私、泣いてる? 泣いたらダメって思っていたのに。泣くよりもすべきことが私にはあるって、自分自身に言い聞かせていたのに」

 彼氏と別れるぐらいで泣いていたら、明日も元気に働けない。だから泣くなって思っていた。
 けれど本当は。
 泣きたくてたまらなかったのだ。雄太と別れたくない、お別れは嫌だって叫びたかった。

「泣くことはね、感情の解放となり心が癒やされるそうです。だから思い切って泣いてしまったほうが、きっといいんですよ」

 ハンカチを差し出しながら、切也さんが優しく話してくれた。

「ちょっとしたことでめそめそ泣く人間は嫌いだが、理由がある涙なら文句は言わない」

 ミネストローネに涙がこぼれ落ちないように、そっと奥にやりながら、刀流さんも声をかけてくれる。

「切也も刀流も、気が利かないなぁ。泣いてる女性は可愛いから思わず抱きしめたくなるよ、って伝えてあげなよ」

 紗切さんがにこっと笑いながら言うと、切也さんと刀流さんは不愉快そうに顔をしかめた。

「そんなことを言うのは紗切ぐらいなものですよ」
「紗切の真似なんかできるか」

 兄弟二人からじろりと睨まれた紗切さんは、困ったように両の頬に左右の手を当てた。

「ひょっとして僕って、空気が読めないタイプ……?」

 切也さんと刀流さんが、うんうんと無言でうなずいた。

「ふふっ」

 三人の会話が面白くて、思わず笑ってしまった。涙は完全に止まったわけではないけれど、おかげで気持ちも落ち着いてきた気がする。

「あっ! 琴羽さん、僕のこと笑ったな」
「ごめんなさい。三人とも仲が良いんだなって思ったら、つい」
「いいんですよぅ。女性は泣くより笑ったほうがいいから。それよりさ、琴羽さん。聞いてもいい?」
「はい、何でしょう?」

 涙をハンカチで拭き取りながら、紗切さんのほうへ顔を向ける。

「食べることに興味を失い、何を食べても美味しいと思えなくなったのは……あなたが別れた恋人のことを忘れられなかったから。だから食べることが辛くなってしまった……違う?」

 言われてようやく気づいた。
 私が食事を「美味しい」と思えなくなった理由を。
 食事のたびに、恋人だった彼のことを思い出す。
 笑顔でキッチンに立つ雄太の姿を見るのが大好きだった。デートの日は雄太と一緒に外食を楽しみながら、料理の内容を熱心にメモする彼の姿を見守った。いつか店長になり、町の洋食屋を続けていきたい。将来への夢を語る彼が眩しかった。私も雄太に負けないように頑張ろう。彼の存在に、どれだけ励まされたのかわからない。
 私の食事はいつだって、雄太へと繋がっていたのだ。

「私、ずっと仕事の疲れとストレスから、『美味しい』を感じられなくなったんだと思ってました。でも本当は、自分の気持ちから逃げていたんですね……」

 雄太のことを今も好きだと認めてしまったら、現実はあまりに辛すぎるから。だから強がって、私は平気だと言い聞かせてきたのだ。

「泣き顔を見られちゃったついでに、もう少し雄太とのことを話してもいいですか?」

 切也さん、刀流さん、紗切さんは微笑みながらうなずいた。

「雄太とは六年つきあって、仲も良かったと思います。ケンカもしなかったですし。でも最近はお互い会うことが難しくなっていて……」

 照れくさそうに笑う雄太の姿を思い浮かべながら、ゆっくりと話していく。

「私、看護師として病院に勤務しています。看護師として病気の患者さんを支えたい。子供の頃からの夢でした。仕事にはやりがいを感じていますし、これからもずっと働きたい。けれど世の中はあまりに変わってしまって……」

 マスクが手放せない生活が始まり、総合病院の看護師として働く私は人と会うことも制限されることとなってしまった。外食も難しくなり、気軽に遊びにいくこともできない毎日。
 町の洋食屋で働く雄太とは、お互いの仕事環境を考えて、会うのを控えるしかなかった。

「こんな状況だから仕方ないよね、会えなくてもSNSやメール、オンライン通話で繋がれるから大丈夫。お互いに励まし合いながら仕事を続けました。けれど雄太からの連絡がだんだんと少なくなってきて……。もう終わりかもしれないと予感はしていたんです。会うことも難しい私と、これからもずっと共にいてほしい。そんな都合の良いこと言えませんでしたから」

 雄太のことは今も好き。それはもう隠しようがない思いだった。
 けれど雄太のことを思えば、彼に追いすがるべきではないのだ。

「きっと雄太は、私に愛想が尽きてしまったんでしょうね。看護師としての仕事を優先する彼女なんて、彼には負担だったでしょうし」

 雄太からきっぱりと別れを告げられたのは、きっと彼なりの思いやりだと思う。

「本当にそうでしょうか……?」
「え?」

 話しかけてきたのは、鎌切亭の店長で三つ子兄弟の長男、切也さんだった。

「お話を聞くかぎりでは、琴羽さんの元カレさんは言葉は少なめだけれど、とても優しい方ですよね。そんな方が理由もなく、一方的に別れを告げるでしょうか?」
「でも『ごめん、別れてほしい』ってメールが送られてきたのは事実ですし」
「だからこそですよ。事情があるから、あえて最低限なことだけを伝えてこられたように思います」

 雄太に事情がある? そんなこと考えてもいなかった。

「ここであれこれ憶測していても始まらん。その元恋人に一度連絡をとってみたらどうですか、お客様」

 三つ子の次男、刀流さんが腕を組み、私を見下ろすようにして言った。

「雄太とはすでに終わったことですし、今更連絡だなんて。迷惑になるだけかと」

 元カレに迷惑をかけたくない。何より久しぶりに電話して、雄太に冷たい態度をとられるかもしれないと思うと、怖くて連絡できない気がした。

「はーい、そんな臆病で可愛い琴羽さんに、僕から最後のお勧めスープですっ!」

 
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