112 / 204
第二章
38.熊ちゃんと子猫と危険なお薬1
しおりを挟む口を塞がれて呼吸を制限されたせいか、もしくはフロア全体に広がるように焚かれたダウナー系の香の鎮静効果のおかげか、アリシティアの過呼吸の発作は徐々に収まりつつあった。
落ち着くにつれて、アリシティアは前世で読んだ主治医のエッセイを思い出していた。
確かそこには、過呼吸の応急処置は不安を取り払い二酸化炭素濃度を調節する事が必要であり、呼吸をリードしてくれる有能な恋人とのキスが有効だと思われると書かれていた。だが、最後には『まずは有能な恋人を手に入れる必要があるので、残念ながら現実的ではない』とも書かれていて、クスリと笑ったことを思い出した。
そんなめちゃくちゃどうでもよい記憶は残っているのに、大事な記憶は覚えていられない。そんな自分にアリシティアは落胆していた。何よりも有能な恋人ではないが、天才の親友が垣間見せた殺意に、別の不安が沸き上がっていた。
「落ち着いてきた?」
耳元で響くベアトリーチェの声と、背中を撫でる手は優しい。アリシティアにゆったりとした心地よさを与えてくれる。
「うん。ありがとう、ベアトリーチェ。おかげで発作の時間が短くて済んだわ。……でも、この事は王弟殿下には内緒にしてね。精神鍛錬が足りないって、何させられるか、わかったもんじゃないから」
ベアトリーチェはその秀麗な顔に、苦笑を含む呆れたような表情を浮かべた。
アリシティアはいつもと変わらないベアトリーチェの姿をぼんやりと眺める。先程彼の目に見た、刹那的な殺意も憎しみも、全ては苦しさゆえの勘違いだったのではと思いたくなった。
「それはいいけど……。あんたさぁ。私がいま何したかわかってて、そんな事言ってるの?」
「何って、…キスだよね?」
質問の意図が分からないとでも言うかのように、アリシティアは気の抜けた返事をする。
「あら、一応わかってはいるのね。それでその、うっすーい反応な訳?もっと恥ずかしがったり、驚いたりしないわけ?」
「なにそれ。そんなの救命処置に対する冒涜じゃない。わたしが人工呼吸を恥ずかしがったり、心臓マッサージや、AEDでセクハラだとか、人前で服を脱がされるなんてとか、言い出すような女だとでも?」
「……こう言うの、馬鹿な子程可愛いって言うのかしらね?」
ベアトリーチェは思わずといった風に、鼻で笑った。その小馬鹿にした表情に、アリシティアはむっと眉根を寄せる。
「……ねぇ、なんで私は今、お礼を言ってバカにされたの?」
本当はベアトリーチェの言いたいことはなんとなくわかってはいる。けれどアリシティアは、そのことを深くは考えたくはなかった。
「気のせいよ。とにかく、落ち着いたのなら、さっさと私の膝の上から降りてちょうだい。重いわよ」
照明が絞られたフロアの隅のソファーの上で、ベアトリーチェは気遣い等ほんの少しもみせることなく、膝の上のアリシティアの身体を乱雑に押しのけた。
「はぁ?私は重くないわよ。女神様に失礼じゃない」
アリシティアがベアトリーチェを不快そうに睨みつけた。
「ねえ、なんでここに女神様が出てくるのよ?」
ベアトリーチェは眉根を寄せる。
「それは私が悪女に相応しいブラなしでも垂れない巨乳と、ダイエットの必要無い体を、女神様に与えられてるから」
アリシティアは本人以外には意味不明すぎる言葉を口にする。だが、いつものように、自慢げに余裕のある微笑みを浮かべようとして失敗し、へにゃりと力が抜けたように笑った。
そんなアリシティアを、ベアトリーチェは紫の瞳でじっと意味ありげに見つめる。しばらくしてベアトリーチェはふっと息を吐いた。
「確かにあんたって、見た目より遥かに軽いわね。体幹がしっかりしてる人を抱き上げると軽く感じるって言うけど、どんなカラクリなの?」
アリシティアはゆったりとした幅のあるソファーに乗り上げ、ベアトリーチェの隣に横向きになり、座り直した。気だるげにベアトリーチェの肩に頭をもたせかける。
呼吸を落ちつけたアリシティアの視線の先には、数十分前と変わらず、葉巻を持ち話し込んでいる男達がいた。
「ん――― 。……体重計に乗る時って、そーっと、足の指先から、出来るだけゆっくり乗ると、軽く表示されるでしょ? あんな感じ?」
「いや、意味わかんないわ。どんな乗り方をしても、体重計が壊れるか重力が変わらない限り、あんたの体重は変わんないからね?」
「だから、重力が変わるようにね、乗るのよ」
「さすがの私も、あんたがここまでお馬鹿だとは思わなかったわ」
「ちょっと、いくらあなたが天才でも、私に失礼過ぎない?」
薄暗いフロアの奥の客を眺めながら、アリシティア達が意味の無い会話をはじめた時。 タイミングを見計らったように、ランドルフと名乗ったフロアの支配人が近づいてきた。
アリシティアの接客にあえてフロアの支配人がつくということは、アリシティア達は裏カジノなどでよく聞く初回の特別扱いを受けているのかもしれない。
それは今後大金を落としてもらう為に、カジノが見込みのある客に使う方法だ。チューダー伯爵から直接招待されたとはいえ、伯爵はアリシティアを高級娼婦だと思っている。そのため彼女自身が上客になるとは思われていない筈だった。
この扱いをみるに、彼女が上客となりうる客を連れてきたと期待はされているのかもしれない。だが、申し訳ないが連れてきたのは稀代の天才と呼ばれるベアトリーチェだ。
裏カジノが破産しないレベルで遊ぶように言っておかなければならない。まあ、こういったところで勝ちすぎると殺される可能性があるから、ベアトリーチェもさすがに法外な勝ち方はしないだろう。
多分...。 ベアトリーチェなら、返り討ちにしてしまう可能性もある気はするが。
10
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。