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漆黒の記憶
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「焔老板、お仕事中に失礼致します。少々お時間よろしいでしょうか」
日暮れ前、そろそろ一日の仕事を切り上げるかというその時間に周の社長室を訪ねて来たのは鄧という男だった。
彼は周の主治医として邸に常駐している医師である。周が幼い頃から香港のファミリー付きの医師として勤めていてくれたのだが、日本で起業することになった際には共に付いて来てくれて、以来ずっと周や李、それに真田ら家令の者たちも含めて体調を管理してくれている腕のいい男だった。
「どうした。もしかして冰の意識が戻ったのか?」
「はい。先程申し上げた通り、お怪我自体は軽く、かすり傷程度で心配することはございませんでした。ですが……それより少し重要なことが起こりまして」
鄧の言葉に、周はクイと眉間の皺を深くした。
事の起こりは今日の昼間のことだ。
打ち合わせで日本橋にあるクライアントを訪れた後、周と冰はいつものようにランチを共にした。午後からは周の抱えている事務処理が少しあるだけで冰の時間が空いたので、彼の希望でそのまま銀座界隈で買い物をしたいということになった。
周は社に戻らなければならなかったので、代わりに真田を呼んで二人で買い物に行かせることにしたのだ。どうやらバレンタインのギフトの下見をしたかったらしく、冰にとっても周と一緒ではない方が都合が良かったらしい。
李や劉は社の仕事があるので、それならばと真田が車で迎えがてら運転手を伴って銀座まで出向き、冰と合流したという経緯である。
事件は一通り店を見て回った後、ギフトの目星もついたようで、そろそろ帰ろうかという時に起こった。
車が待っている裏通りまで真田と冰が肩を並べて歩いている時だった。この日は朝から結構な風が吹いていて、まだ春一番の時期には早いですよねなどとうららかな話をしていたちょうどその時だった。強風に煽られて、どこからか金属製の傘立てのような物が頭上から落ちてきたのである。ビルの外階段の踊り場あたりに置かれていたもののようだが、かなり古く、ビスなどがゆるんでいて飛ばされたと思われる。真田を直撃しそうになり、それに気付いた冰が咄嗟に庇って怪我を負ったというものだった。
幸い運転手からも目視できる距離だったので、すぐさま車に担ぎ込んで汐留へ戻り、主治医の鄧が手当てに当たった。怪我自体はかすり傷程度で、骨折もなく、頭を打ったなどの重傷には至らなかったものの、冰は現場で気を失ったまま目を覚さなかった為、医務室のベッドで鄧がつききりで様子を見ていたわけだ。
「――冰の容態が良くねえのか?」
周はすぐに仕事の手をとめると、焦り顔でそう訊いた。初見では怪我自体は軽いものだと聞いていたので、実のところそんなに心配はしていなかったというのもある。
「お身体的にはご容態は極めて良好といえるのですが……」
難しい鄧の表情に眉間の皺が更に深くなる。
日暮れ前、そろそろ一日の仕事を切り上げるかというその時間に周の社長室を訪ねて来たのは鄧という男だった。
彼は周の主治医として邸に常駐している医師である。周が幼い頃から香港のファミリー付きの医師として勤めていてくれたのだが、日本で起業することになった際には共に付いて来てくれて、以来ずっと周や李、それに真田ら家令の者たちも含めて体調を管理してくれている腕のいい男だった。
「どうした。もしかして冰の意識が戻ったのか?」
「はい。先程申し上げた通り、お怪我自体は軽く、かすり傷程度で心配することはございませんでした。ですが……それより少し重要なことが起こりまして」
鄧の言葉に、周はクイと眉間の皺を深くした。
事の起こりは今日の昼間のことだ。
打ち合わせで日本橋にあるクライアントを訪れた後、周と冰はいつものようにランチを共にした。午後からは周の抱えている事務処理が少しあるだけで冰の時間が空いたので、彼の希望でそのまま銀座界隈で買い物をしたいということになった。
周は社に戻らなければならなかったので、代わりに真田を呼んで二人で買い物に行かせることにしたのだ。どうやらバレンタインのギフトの下見をしたかったらしく、冰にとっても周と一緒ではない方が都合が良かったらしい。
李や劉は社の仕事があるので、それならばと真田が車で迎えがてら運転手を伴って銀座まで出向き、冰と合流したという経緯である。
事件は一通り店を見て回った後、ギフトの目星もついたようで、そろそろ帰ろうかという時に起こった。
車が待っている裏通りまで真田と冰が肩を並べて歩いている時だった。この日は朝から結構な風が吹いていて、まだ春一番の時期には早いですよねなどとうららかな話をしていたちょうどその時だった。強風に煽られて、どこからか金属製の傘立てのような物が頭上から落ちてきたのである。ビルの外階段の踊り場あたりに置かれていたもののようだが、かなり古く、ビスなどがゆるんでいて飛ばされたと思われる。真田を直撃しそうになり、それに気付いた冰が咄嗟に庇って怪我を負ったというものだった。
幸い運転手からも目視できる距離だったので、すぐさま車に担ぎ込んで汐留へ戻り、主治医の鄧が手当てに当たった。怪我自体はかすり傷程度で、骨折もなく、頭を打ったなどの重傷には至らなかったものの、冰は現場で気を失ったまま目を覚さなかった為、医務室のベッドで鄧がつききりで様子を見ていたわけだ。
「――冰の容態が良くねえのか?」
周はすぐに仕事の手をとめると、焦り顔でそう訊いた。初見では怪我自体は軽いものだと聞いていたので、実のところそんなに心配はしていなかったというのもある。
「お身体的にはご容態は極めて良好といえるのですが……」
難しい鄧の表情に眉間の皺が更に深くなる。
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