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紅椿白椿
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「礼儀か――。ああ……そうだな。思えば俺は……これまでもずっと逃げてきただけだった。三崎財閥の娘の時も、クラブ・フォレストの里恵子の一件でもそうだ。ついこの間のメビィの件でも同様だ。結局俺はてめえじゃ何もせず、全部紫月が間に入ってまとめてくれた。結果、女たちは納得してくれて誰一人傷つくという終わり方はしないで済んだと言えるだろう。だがそれは全部紫月が心を砕いてくれたお陰だ。俺自身は何もしてねえ」
すべて紫月に頼りきりで逃げていただけだと鐘崎は言った。
「情けねえことだ。てめえじゃ何ひとつ手を汚さずに、誰かが、紫月が……上手く収めてくれるのを安全な位置で待ってただけだ。それこそ女たちに対しても礼儀に欠けていたと言える――。それ自体にも気付かねえでいたことも情けねえ」
今更ながらだが悪かったと、鐘崎は紫月の手を取って頭を下げた。
「汚ねえ役は全部お前に押しつけて、愛してるだ何だと甘い台詞だけは一丁前に並べ立ててきた……。亭主としても一人の男としてもすまねえ気持ちだ。紫月、この通りだ」
紫月に謝ると同時に鐘崎は周と冰にも頭を下げた。
「それに気付かせてくれた氷川と、それから親身になって考えてくれた冰にも感謝でいっぱいだ」
ありがとうと瞳を震わせる様子に、誰もがわずか切なげに互いを見つめ合う。周も冰も、そしてむろんのこと紫月も――誰も鐘崎が悪いだなどとは思っていないからだ。
「まあそこがカネのいいところでもあるんだ。そんなふうにやさしいてめえだから一之宮も心奪われた」
そうだろう? というように周はおどけてみせた。
「ま、氷川の言う通りだな! 俺ァさぁ、おめえのそーゆートコに惚れてんだから! それによ、おめえを支えるっつーオイシイ役目をもらえて有り難えのは俺ン方だ。ああ、俺たちゃフーフなんだ。こんな俺でもおめえの姐としてちっとは役に立ってんだって実感させてもらえてるんだからさ」
えへへと舌を出しながら照れてみせる紫月を前に、鐘崎は感激で打ち震える心を抑えることができなかった。
「紫月……おめえってヤツは……本当に」
思わず滲み出しそうになる涙をグイと擦って肩を震わせる。普段、とかく仕事の上では押しも押されもしない立派な若頭であり、家庭という面でも紫月を一途に想い大切にしている完璧な男だというのは皆が知っている。そんな鐘崎が涙を浮かべてまで思い悩むところを見ると、彼の中ではこうして他所の女から恋情を抱かれたりすることは周囲が思う以上に負担を感じているのかも知れない。できることなら誰も傷つけずに穏便に済ませたいと思うが故に悩む彼の気持ちが気の毒なのは確かだ。
だが、紫月はそんな悩みも引っくるめてよく理解しているのか、常に大きな心で受け止めてやっている。そんな二人を見守る周と冰もまた、切なげに瞳を細めるのだった。
部屋の外では源次郎がたんまりと菓子の乗った盆を手に、こちらもまた感嘆の眼差しでいた。ちょうど茶を出しに来たところで皆が真剣に話しているのが聞こえてしまい、出ていく機会を逃したまま聞き入ってしまっていたのだ。
(若、姐さん、本当にお二人は素晴らしい絆で結ばれたご夫婦ですな。若のやさしさも姐さんの大いなるお心も、我々にとって何よりも誇れる最高の宝です。この源次郎は嬉しくて堪りませんですぞ。それに周さん、冰さんという心強いご友人がお二人の側にいてくださる。誠、いいご縁の中で我々は生かされているのだとしみじみ思います。幸せなことですな)
まだ赤子だった鐘崎をこの腕であやした頃や、幼い紫月が『おいちゃん、おいちゃん』と懐いてくれた頃、そんな二人が成長して共に人生を歩むと決めた時のことまでが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。共に重ねてきた日々を懐かしみながら、源次郎もまた感慨深い思いを噛み締めたのだった。
すべて紫月に頼りきりで逃げていただけだと鐘崎は言った。
「情けねえことだ。てめえじゃ何ひとつ手を汚さずに、誰かが、紫月が……上手く収めてくれるのを安全な位置で待ってただけだ。それこそ女たちに対しても礼儀に欠けていたと言える――。それ自体にも気付かねえでいたことも情けねえ」
今更ながらだが悪かったと、鐘崎は紫月の手を取って頭を下げた。
「汚ねえ役は全部お前に押しつけて、愛してるだ何だと甘い台詞だけは一丁前に並べ立ててきた……。亭主としても一人の男としてもすまねえ気持ちだ。紫月、この通りだ」
紫月に謝ると同時に鐘崎は周と冰にも頭を下げた。
「それに気付かせてくれた氷川と、それから親身になって考えてくれた冰にも感謝でいっぱいだ」
ありがとうと瞳を震わせる様子に、誰もがわずか切なげに互いを見つめ合う。周も冰も、そしてむろんのこと紫月も――誰も鐘崎が悪いだなどとは思っていないからだ。
「まあそこがカネのいいところでもあるんだ。そんなふうにやさしいてめえだから一之宮も心奪われた」
そうだろう? というように周はおどけてみせた。
「ま、氷川の言う通りだな! 俺ァさぁ、おめえのそーゆートコに惚れてんだから! それによ、おめえを支えるっつーオイシイ役目をもらえて有り難えのは俺ン方だ。ああ、俺たちゃフーフなんだ。こんな俺でもおめえの姐としてちっとは役に立ってんだって実感させてもらえてるんだからさ」
えへへと舌を出しながら照れてみせる紫月を前に、鐘崎は感激で打ち震える心を抑えることができなかった。
「紫月……おめえってヤツは……本当に」
思わず滲み出しそうになる涙をグイと擦って肩を震わせる。普段、とかく仕事の上では押しも押されもしない立派な若頭であり、家庭という面でも紫月を一途に想い大切にしている完璧な男だというのは皆が知っている。そんな鐘崎が涙を浮かべてまで思い悩むところを見ると、彼の中ではこうして他所の女から恋情を抱かれたりすることは周囲が思う以上に負担を感じているのかも知れない。できることなら誰も傷つけずに穏便に済ませたいと思うが故に悩む彼の気持ちが気の毒なのは確かだ。
だが、紫月はそんな悩みも引っくるめてよく理解しているのか、常に大きな心で受け止めてやっている。そんな二人を見守る周と冰もまた、切なげに瞳を細めるのだった。
部屋の外では源次郎がたんまりと菓子の乗った盆を手に、こちらもまた感嘆の眼差しでいた。ちょうど茶を出しに来たところで皆が真剣に話しているのが聞こえてしまい、出ていく機会を逃したまま聞き入ってしまっていたのだ。
(若、姐さん、本当にお二人は素晴らしい絆で結ばれたご夫婦ですな。若のやさしさも姐さんの大いなるお心も、我々にとって何よりも誇れる最高の宝です。この源次郎は嬉しくて堪りませんですぞ。それに周さん、冰さんという心強いご友人がお二人の側にいてくださる。誠、いいご縁の中で我々は生かされているのだとしみじみ思います。幸せなことですな)
まだ赤子だった鐘崎をこの腕であやした頃や、幼い紫月が『おいちゃん、おいちゃん』と懐いてくれた頃、そんな二人が成長して共に人生を歩むと決めた時のことまでが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。共に重ねてきた日々を懐かしみながら、源次郎もまた感慨深い思いを噛み締めたのだった。
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