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03 名乗る
しおりを挟むいつもよりも客の入りが早くて、店内の騒々しさに落ち着かない気持ちを抱く。
それは、いつもの貸切状態と違って客がいるからだけではない。
入って来た客に声をかけられる前に、おっさんが「予約済みだ」とか「勝負すんのか?」と口にするのだ。
おっさんに何事か言われた客は、苦い顔をして去っていく。
「今日みたいな日に一人でいるのは、寂しい体を人肌で慰めたい奴って決まってんだろうが。
しかもミスルトーの下にいたら、誘いを待ってるようにしか見えねぇ」
……気がつかないふりをしてるんだから、言うなよ。
そう思いながらおっさんに目を向けると、いつの間にかショットグラスを片手にカウンターに右肘をつき、おれを見つめていた。
男同士で慰めるって、何するんだ。
自分の部屋すら持ってない、オナニーも日常的にできないおれは、いつでも欲求不満だ。
坊主なのに生臭すぎるとは思うけれど。
やけに潔癖な弟が、エロ本やAVを部屋に置いておくのを嫌がるから、おれは性的な知識をあまり知らないままで歳だけ重ねてしまった。
学生の頃、同級生が語っていた猥談のどこまでが本当かも知らないままだ。
おっさんの思わせぶりな言葉や、からかうような態度に気がつかないふりをしながら、グラスを傾ける。
もう帰らないといけないのか、帰りたくない、と気持ちが落ち着かない。
精神的な疲れを癒したくてここに来ているのだから、とマスターにウィスキーのお代わりを頼んで、乾きもののつまみを適当に減らして、気持ち良い酩酊感を感じていると、ポンと肩に分厚い手が乗せられた。
「なあ、帰らなくていいのか?」
まだ横に座っていたおっさんの声を聞くと、酩酊感が船酔いのような気持ち悪さを伴って襲ってきた。
渋々とカウンター奥の時計を覗いて時間を確認すれば、帰らないと妹まで説教に加わりかねない時間だった。
でも、帰ったところで、延々と母親と妹に説教されながら、年末の自転車操業地獄に突入するだけだ。
「……帰りたくない」
酔っ払ったままの衰えた判断力で「でも帰る」と言う前に、背中に腕を回されてきつく抱きしめられていた。
おっさんなのに力が強いなーと思っていると、スツールから引き摺り下ろされて、再び半歩ほどずれた木の枝の下に連れていかれた。
「うちに来いよ、な?」
「……」
返事ができずにいると、抱きしめられて、さっきとは比べ物にならない勢いで口を重ねられた。
「っ!」
酔っ払って緩んでいた唇を割り開いて、歯列をぬるりぬるりと確かめるように舐めていく舌は、異様に長い気がする。
ピリピリと辛いような蒸留酒の味と匂いがして、やけに冷たくぬめる舌が、口の中をどこもかしこも味わう様に、ゆっくりと甘やかすように触れていくと、空気が足りないのか頭がふわふわと軽くなっていった。
「ほら、気持ちいいって顔してんぞ」
「……ふぁ」
こんな性的な予感がする行為は、もう何年もしてない。
自慰をする場所も機会も少ないから、いつもトイレでそそくさと済ませるばかり。
他人と粘膜を触れ合わせるって、こんなに気持ちよかったんだと、忘れていた。
「加川 丈太、ジョーって呼んでくれ」
「……わかった」
このまま流されるのはまずいと思うのに、硬い指先で撫でさすられている顎が気持ちよくて、帰りたくなくて、もっと気持ちよくなれる期待があって、動きたくなくなった。
不意に耳に入った「見せつけんなよ」と言う声に顔を上げると、ここがバーの中で、ヤドリギとかいう木の枝の下だと思い出す。
恥ずかしさに再び顔を下に向けたけれど、逃げ出そうとする体はおっさん、いや、ジョーに捕まったままだ。
「そんじゃあウラさま、ちょっと早いけど、よいお年をー」
「ええ、よいお年を、持ち帰るなら逃さないように」
「もちろんですとも」
おっさ、ジョーがマスターと挨拶しているのを、ふわふわしながら聞いていたら、知らない内におれの呑んだ分まで支払いをしてくれたようだ。
財布を出そうとして、支えられないと立てなくなっていることに気がついた。
思った以上に酔いが回っていると気がついても、気持ちよくてふわふわした状態は変わらなくて、脇の下を支えられるようにして店を出る。
おれよりも背が低いのにジョーの腕は力強い、分厚いジャケットの下の体が岩のように硬い気がする。
「金、払うから」
「おう、後でな」
今日は電車で来ているから、終電がある時間までは大丈夫だ。
それまでには酔いも抜けているだろう。
どうせ説教されるなら、みんな寝ているかもしれない時間にこっそり帰って、明日まで逃避したい。
先延ばしにすぎないことは理解していても、今夜は家に帰りたくない。
毎年、メリークリスマスのついでに誕生日おめでとう、って言われるのはうんざりだ。
そんな気持ちを腹の中に押し込めて、ジョーに抱えられるように支えられ、やけに街灯がキラキラしている中で、ふわふわ揺れている地面を支えられながら歩く。
まるで、夢を見ているようだ。
イルミネーションで光り輝く綺麗な道を歩いているような、ゆらゆら揺れる世界だ。
どれだけ歩いたのか、気がついたら、すりガラスのはまった古臭い木造の引き戸の前にいた。
ガタピシと音をさせて開いた戸の内側には、公共の建物のような大きなげた箱があって、頭上には裸電球、足元にはたくさんの靴が転がっている。
ほとんど抱えられた状態で子供のように靴を脱がされ、歩くとへこんできゅうきゅう鳴る暗い廊下を進み、狭くて急な階段を上って、ふらふらしながら二階の一番奥の部屋に入った。
かちん、と音がして真っ暗な部屋の中がパッと明るくなったけれど、電気がついているわりには薄暗い。
ぶら下がる紐を引っ張って明かりをつけたおっさんは、おれの顔を覗き込んで「ん、起きてるな」とうなずき、茶色く変色した畳の上に降ろされた。
毛羽立った畳に触れた手のひらがチクチクするのを感じながら、あまり明るくない室内を見回してみた。
格子になっている低い天井には、蛍光灯らしい中身が丸見えの照明器具がへばりついている。
なぜか子供の頃に行った、祖父母の家を思い出した。
「すぐに暖かくするから、ちょっと待ってろよ」
今でもこんな、和室一部屋の賃貸なんてあるんだなと、ほとんど家具のない殺風景な部屋の中を見ていると、目の前に影ができた。
「ん?……っぁ」
顔を上げると同時に、顎を指で支えられて唇がふさがれる。
冷たくてぬめる長い舌が口の中を動いて、気持ちいい。
ほんのりと甘い味がして、その後わずかな清涼感を感じて、ジョーがミントでも舐めたんだろうかと考える。
さっきも思ったけれど、ジョーの舌はとても長い。
「っ、ん、あ」
「なあ名前を教えてくれよ」
「茂一、薬研寺 茂一だ」
「そっか、シゲな」
見た目が十歳以上も年上の男についてきてしまった上に、キスされまくってるけれど、おれはこのままどうなるんだろう?と思いながら、ぬるぬると冷やされて甘やかされる口の感覚に酔いしれていく。
男同士で、それも恋人でもない相手とキスをするのは初めてなのに、不思議と嫌悪感を感じなかった。
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