神龍の愛し子と呼ばれた少年の最後の神聖魔法

榛玻璃

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第三部 白龍の神殿が落ちる日

思い出

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 神殿の中は静まり返っていた。いつもならば神聖魔法による浄化の光に満ちて、清浄な空気で満たされているのに、今はそれが感じられない。代わりに漂うのは、鼻につくような死臭だった。それはまるで何かが失われていくかのような――いや、事実そうなのだろう。

「アル……」

 誰かに抱きしめられて、再び我に返った時にアルバートが目にしたのは真っ赤な、あまりに凄惨な現実だった。

 目の前には頭から血を流して倒れているロゼッタと、そのロゼッタを庇うように倒れ伏すカイルの姿がそこにあった。部屋にいた神官たちは皆、床に倒れ伏し、ぴくりとも動かない。アレスタはどこにいるのかわからない。マリカは怪我なく無事のようだ。そしてハデスは――

「あ……ああ……」

 何が起きたのか。頭の中が真っ白になる。どうしてこんなことに。あんなに平和だった神殿は、たった一瞬で血の海へと変わってしまった。まるで夢の中の出来事みたいに現実感がない。しかし鼻を突くような匂いと血の匂いにこれが現実であることを思い知る。

 意識のある人間が皆アルバートに恐怖を向けている中、ただ一人ハデスだけがアルバートを抱きしめていた。ハデスは全身に酷い裂傷を負い、血まみれの状態だったが、まだ辛うじて息をしていた。

「アル……力に溺れてはいけません」

 ハデスはアルバートを抱き寄せると、耳元で囁いた。彼の優しい声音に、何故か涙が出そうになった。だが身体は固まったまま動かない。思考もまとまらない中、ただ呆然と瞬きをすることしかできなかった。

 思わず治癒の魔法を使った。
 手のひらから光の粒子が現れ、ハデスを包み込む。

 その光はハデスの傷を癒すかに思われたが、そうはならなかった。治癒はアルバートの苦手な魔法ではあったが、ソルニアの指導を受けてそれは改善しているはずなのに。

「どう……して……?」

 しかし、いくら治癒をかけてもハデスの傷は癒えない。出血量はどんどん増え、次第にハデスの顔から血の気が失せていく。

 アルバートは必死にハデスに治癒魔法をかけるが、それが実ることはなかった。

 光の粒子がハデスの身体を包むのに、それがどういうわけか治癒の形にならないのだ。アルバートは唇を噛み、手を固く握った。皮膚に爪が食い込み、血が滲むと、じんじんとした痛みが手のひらに広がった。

 ハデスを包んでいた光の粒子を自らの手のひらの傷口に集める。
 しかしやはり、アルバートの手のひらの傷も癒えなかった。

「アル……神は穢れを嫌い、血は穢れを呼ぶのです」

 ハデスは悲し気に微笑んだ。そしてゆっくりと手を伸ばし、アルバートの頬を優しく撫でる。アルバートは自らを見下ろし、血で真っ赤に染まった身体に絶句する。

「あなたに出会ってから、モノクロでしかなかった私の世界に初めて色がつきました……甘いお菓子を幸せそうに頬張るあなたが好きでした。マナを纏うあなたの姿が好きでした。その成長をずっと見たいと初めて思ったのです」

「ハデス様……今手当てするから、だから……っ」

 焦るアルバートを落ち着かせるかのように、ハデスは優しく微笑んだ。
 ハデスはアルバートの頬に手を伸ばす。その手は酷く冷たくて、まるで死人のようだった。

「いいえ……私は助からないでしょう」

「そんなこと言わないで……」

「あなたは優しい子です。優しい、ただの子供なのです。だからどうか、その力に飲み込まれないで……」

 ハデスの目から涙が一筋流れた。それは彼の血と混ざり合って床に落ちたが、その雫は赤黒く濁っていてとても美しいものには見えなかった。しかしそれでも彼は美しかった。まるで一枚の絵画のように美しく儚く見えたのだ。

「あ……あぁ……」

 アルバートはハデスの体を抱え、揺すった。しかし彼からの反応はない。

「いやだ……死なないで……」

 彼の胸に顔を埋める。血の匂いが鼻孔を刺激して吐き気がしたが、それでも離したくなかった。彼を失うことが何より怖かった。涙が止まらない。視界が滲んで彼の顔がよく見えなくなるのが嫌だった。もっとその顔を見ていたかったのに。

 アルバートはハデスの胸に縋りついたまま、泣きじゃくっていた。




 アルバートの幼子のような泣き声を遠くで聞きながら、ハデスの意識は深い闇の中に沈んでいく。
 走馬灯が駆け巡り、彼が最期に見たのは、神官になったばかりの、まだ幼いアルバートと過ごしたある出来事だった。

 ◆

 ハデスは祈りの間で深いため息をついていた。その原因は彼の膝の上で丸くなっている小さな生き物だ。彼はその生き物の頭を優しく撫でながら言った。

「アル、何があったのですか?」

「んん……はです……」

 アルと呼ばれたその小さな生き物は、幸せそうな顔をして舌足らずに答えるが、何を言っているのかは理解できなかった。

「アル……そろそろお勤めの時間ですよ」

「……や!」

 諭すように言ってみるが、アルは駄々っ子のように首を振って、ぎゅっと抱きつく力を強める。ハデスはその可愛らしい様子に苦笑いを浮かべた。

(こんな状態ではマナの奉納などできるはずがない)

 しかし神官としての仕事を放棄するわけにもいかず、どうしたものかと考えあぐねた。そうこうしている間に彼は膝の上で眠ってしまったのだ。

 彼は本来こんな子供ではなかったはずだ。しかし今の彼は幼く脆い心を持った幼子のようにしか見えない。膝の上で眠るその姿はまるで猫のようで可愛らしいが、今はそれどころではないのだ。

「さあ、起きてください、アル」

 アルの肩を揺すると、彼はゆっくりと目を開けた。寝ぼけているのかボーッとしている彼に微笑みかける。

「おはようございます、アル」

「……おはよう……ございます」

 まだ眠たそうな声で返事をすると、アルはハデスの膝から降りようとして、身体をもつれさせてしまう。膝から転げ落ちそうになったため、それを引き止めるようにハデスは彼を抱き上げた。そして再び自分の膝の上に座らせると、優しく頭を撫でる。するとアルバートは気持ち良さそうに目を細めた。その姿はやはり猫のようだと思うと同時に、庇護欲を掻き立てられるような感覚に陥る。

「可愛いですね……」

 思わず呟くと、アルが不思議そうに首を傾げた。

「?」

「いえ……なんでもありません」

 ハデスは誤魔化すように微笑むと、アルを抱き抱えたまま立ち上がった。

「今日の奉納はお休みしましょう。たまにはそういう日があってもいいでしょう」

「いいの?」

 アルは驚いたように言う。普段であれば、マナの奉納を休むなど許されることではなかった。しかし今日のハデスにそれを咎める様子はなく、むしろ優しく微笑んでいるように見える。

「ええ、構いませんよ」

 ハデスがそう言うと、アルは少し安心したように微笑んだ。その微笑みにはどこか幼さを感じさせるものがあり、普段の彼からは考えられないものだった。

「では……お部屋に行きましょうか。アルも疲れたでしょう?」

「だっこして」

 アルの小さな手を握り歩き出すと、ハデスの後について行くようにアルも動き出した。しかしすぐに立ち止まって駄々をこね始める。苦笑して抱き上げてやると、彼はハデスの首に抱きつき甘えてみせた。その姿はとても可愛らしく、まるで子猫のようだと思った。

 部屋に入るとハデスはベッドに腰を下ろした。そしてその膝の上にアルを乗せる。すると彼は嬉しそうに笑って抱きついてきた。まるで親猫に甘える仔猫のようで可愛らしいと思う反面、どこか危うい雰囲気を感じさせるものがあった。

「アル、今日はゆっくり休みましょうね」

 ハデスがそう言うとアルは素直に頷いた。そしてそのままハデスの膝の上に頭を乗せると、静かに目を閉じる。

 彼の寝顔を見ながら、ハデスはふと考える。

(そういえば、アルは昔からあまり感情を表に出さなかったですね)

 アルは神殿に来た頃から大人びていて、子供らしいわがままを言ったり駄々を捏ねたりするようなことはなかった。いつもどこか一歩引いたところで周りを見ているようなところがあったように思う。

 しかしそれは彼の生い立ちを考えれば仕方のないことだったかもしれない。彼は物心つく前に両親を亡くし、孤児になったと聞いている。そんな環境の中で育てば、子供らしくいられるはずがないだろう。

(幼少期に甘えられなかった反動が今きているのかもしれませんね)

 ハデスはそう考えると、アルの頭を優しく撫でた。そしてそのまま彼の髪を指ですくように触れる。すると彼はくすぐったそうに身を捩りながらも、気持ち良さそうな表情を浮かべた。

 多少の我が儘は言えるくらいには、打ち解けてくれたということなのだろうか。もしそうだとしたら、とても愛おしいことだと思った。

(私はこの子の親代わりになれているのでしょうか)

 幼い頃に神龍の愛し子として神殿に入ったハデスにとって、親がどのようなものなのか想像もできなかった。
 神龍の愛し子として生を受けたがために幼い頃に生き別れた両親の顔なんて、もう思い出すことさえ叶わない。

 ハデスはアルの寝顔を見ながら考える。

(私はこの子に愛情を注いできたつもりですが……)

 しかしそれは本当に正しい愛し方だったのだろうか? 神龍の愛し子である彼を、ただ自分の目的を満たすために利用しているだけなのではないだろうか? そんな考えが頭を過る。そしてそれと同時に不安になった。自分はちゃんと父親代わりを務められているのか、と。

 ハデスはそっとアルの手を取ると優しく握った。その手は小さく、まだ幼い子供であることを実感させるものだった。その小さな手を包み込むように握り込むと、愛おしさが募るのを感じる。

 この小さな手が、いつか自分を必要としなくなる日が来るのかもしれない。そう考えると胸が締め付けられるような痛みを感じた。

(その時私は耐えられるのでしょうか)

 ハデスはアルの手を握る手に力を込めると、祈るように目を閉じた。
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