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それぞれの苦悩

この手に残るは夢か虚か ②

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「いらっしゃいませ。ベークマン様、今日は……?」

 ジョニーと入れ違いで入ってきたのだろう彼は件のフェリクスであった。

 彼はエリスの反応に眉を下げると大袈裟に肩を落とす。

 明るい茶の髪に同じように色素の薄い瞳、薄い唇。身長はエリスよりも頭一つ半高い。入念にセットされた髪型と流行を取り入れた服装。色男と村で噂されるのも頷ける。

「やだなぁ。妻になる人に会いに来ては駄目なのかい?」
「いえ……でもまだ契約日になってないはずですけど……?」
「愛しい君に会いたくて会いに来たんだ、と言ったら?」
 エリスの手を取り微笑むフェリクスにエリスは複雑な表情を隠せない。

 彼には歌姫の恋人がいる。エリスが彼と籍を入れるのも、二人の関係を隠す為。早く結婚しろと口うるさい親兄弟を言いくるめたいフェリクスと、治療院を開くための資金が欲しかったエリスの利害が一致した結果だ。

 そこには愛情や恋情などはないし、この先も必要ない。一切お互いの生活には口出ししない、問題が起きない限り関わらない。戸籍上だけの結婚。

 周りを騙したとしても、結果的に愛する二人の仲を保てるのなら。治療院が出来たことで村の皆が喜ぶならば。そんな風に目を逸らそうとしていたエリスにとって、フェリクスの冗談とも判断のつかない行動は困ってしまう。

(出会ってから半年たつけれど、この人の考えている事がイマイチわからないわ。ここは私たち以外誰も居ないし、必要ないと思うのだけど)

 やはりまだ、フェリクスについては把握や理解がしきれない部分が多い。

「あの……? 他に何か用事があるというわけでは?」

 訝し気な顔でエリスが言葉を続けると、彼は肩をすくめた。真意の読めなかった笑みは呆れたような嘲笑混じりのものに変わり、やれやれとばかりに深く溜息までつかれてしまう。

「なびかないね君は。あまり眉間にしわを寄せていると折角の可愛い顔が台無しだよ。……まあいい、これを渡しに来たんだ」

 フェリクスは胸ポケットから三枚の用紙と黄色の布が貼られた小箱を取り出した。

 その形には見覚えがある。周りに貼られた布の材質も、その中身の金銭的価値も、意味さえも違うけれど。あの時彼から――ノアから――贈られたものと同じ形状ものだ。
 真っ赤に染まる頬と澄んだ泉のような青の瞳は今も鮮やかに記憶に残る。柔らかな声も、蕩けるような熱い眼差しも、包み込む温かさも。三年も経つというのに色褪せることは無い。

「指輪と土地と建物の権利書。あと私との誓約書だよ。読んでサインして欲しい」

 その言葉にエリスは我に返った。こんなことを思い出したところで、空しくなるだけだ。
 エリスは慌てて笑顔を作り、差し出されたものを受け取った。

「わかりました。家に帰って読ませていただきます。サインしたものは郵送でお送りすれば良いですか?」
「いや、今この場で欲しい。悪いがすぐに目を通してくれ」
「……わかりました」

 契約を開始するのは一週間後だと言うのに、フェリクスは意外とせっかちなのかもしれない。
 エリスは受付にあったペンを取り誓約書にサインをした。エリス・オルブライト――あと何回この名前をサインする機会があるだろう。

「指輪は必要ないとも思ったが、新妻がしてないのもおかしいだろう? だから用意させてもらった。良いアピールにもなるからしておいて欲しい」
「そうですね。わざわざすみません。人前ではなるべく付けるようにします」
「ありがとう。良かったら今してくれないか?」
 その言葉にエリスは首を傾げる。要はサイズがあっているか確かめたいと言う事だろうか。
「はい……? わかりました」

 エリスは目の前に置かれた小箱に手を伸ばした。しかしそれはフェリクスによって阻まれてしまう。伸ばした腕を掴まれたのだ。

「私がしよう。その方が良い」

 そう言い口角を上げたフェリクスはエリスの両手を取り指を撫でる。ぞわりと背中に悪寒が走ったことは口が裂けても言えなかった。彼の言葉の真意はわからないが、良かれと思ってしているのだろうから。

「は、はあ……」
「女性はこういうの好きだろう? 良かった。ぴったりなようだよ、ほら」

 その言葉にエリスは何も答えられない。ただ不意に甦った記憶に胸が鈍く痛む。
 彼がくれた指輪もまたエリスの指にピッタリであった。
 朱に染った頬も、贈ったピアスと同じ色の耳も、エリスを望んでやまない深い青の瞳も、満たされるような幸せな気持ちも。昨日の事のように思い出せる。何一つ色褪せることなくエリスの記憶に残っている。

(馬鹿ね……馬鹿だわ。大馬鹿者よ)

 フェリクスの腕がエリスの腰に回り、顎を掴まれた。されるがままにフェリクスを見上げれば、抜け目のない薄茶の瞳に射抜かれる。

「どうだい? 今夜」
「冗談は人を楽しい気分にさせるために言うものですよ。ベークマン様」

 胸を強く押し、エリスは拒絶の意を示した。
 ほんの一瞬だけ、彼の腕をとり投げ飛ばそうと思ってしまった事は許してほしい。流石に薬局で騒ぎになっては良くないし、彼とは長く付き合っていかなければいけない。良好な関係を自らの手で壊すようなことはエリスもしたくない。

 張り倒したい気持ちをぐっと我慢しエリスは俯いた。

「冷たい嫁さんだ」
「熱いのは恋人の方とだけで良いはずです」
「それもそうだな」

 それ以上、彼がエリスに迫ることはなかった。ただ冷たい視線とぼそりと聞こえた「やはりつまらない女だ」という言葉は、エリスの心にとげのように残る。
 そんなことは嫌という程知っている。自分が面白味のない人間だということも、可愛げのあることが言えないような女だということも。

「じゃあ、また連絡するよ」
 フェリクスは僅かに口角を上げると、薬局の戸を押し出て行った。
 エリスはその背が見えなくなると、止めていた息をすべて吐き出すかの如く、大きなため息を吐く。崩れ落ちるように冷たい木の椅子に座った。

「……疲れたわ」
 誰に言うでもなく独りごちる。胸の不快感は未だぬぐえない。
 長年の夢がかなうと言うのに、エリスの心は晴れない。順調に進んでいるはずなのに、どこかで全て壊れてしまえば良いのにと願う自分がいる。

(私、昔はもっと純粋な気持ちで治療院を作りたかったはずなのに)

 膝の上であかぎれた手を握った。その手の中にあるのは空虚か取り残された見栄か。

 結局のところ、己の罪悪感と無力感を払拭するためにエリスは治療院を作りたいのかもしれない。彼に恥じないように、少しでも自分も前を進んでいるのだと、ただそれだけを証明したくて。
 窓から見える空には雲一つない。それでも、その空が何色なのかエリスが考えることも感じることも今はない。

(今日は久しぶりにあそこに行こう。雪もだいぶ解けてきたし。そうしないと……)

 遠くで午後三時の時を告げる鐘の音が聞こえた。エリスは本日の営業が終わったことを報せる旨の木札に手を伸ばした。
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