おもらしの想い出

吉野のりこ

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夏原志澄実のおもらし 受験会場で中学3年生のとき

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 夏原志澄実(なつはらしすみ)は受験会場で身震いしていた。 
「……あと30分…」 
 大切な高校受験の最中なのに、おしっこをおもらししそうになっている。 
「…ふーっ…ぅぅ…」 
 今は2月で外は寒いけれど、冷暖房完備な私立高校の教室は温かくて心地いい。なのに志澄実は緊張で冷や汗をかいている。中学生らしい水色のセーラー服を着た志澄実は両膝をギュッと合わせた。ご近所のお姉さんから、おさがりしてもらったセーラー服はスカート丈が短く改造されていて、冬服なのに膝上20センチで中学の入学式でとても恥ずかしかったし、先生に注意されないか心配だった。そして、案の定、女性教師に注意されたけれど、おさがりで買い直す余裕はないと説明すると許してもらえた。実際にご近所のお姉さんはこの長さで通学していたし、注意した教師も卒業生を覚えていたので不問となった。 
「……ここで、おもらしなんかしたら……すべてが終わり…」 
 志澄実は口の中だけでつぶやいて、おしっこを一生懸命に我慢しながらテストも頑張る。今朝、受験会場に入ったとき圧倒的なアウェー感を覚えた。疎外感かもしれない。ここは県内で一番レベルの高い高校なので各中学のトップ層ばかりが挑戦する。 
「…ふーっ…」 
 そんな高校の受験に膝上20センチという改造スカートで参加した志澄実は生まれつき肌が小麦色で髪も黒より栗色に近い。スカートの短い女子イコール頭の悪い女子という等式が、ほぼ成立する中、どこの日焼けサロンに通ってるの? とかなり真剣に同級生に訊かれたこともあるほど日本人なのに生まれつき肌の色が濃い志澄実が優良校の受験会場にいると他の受験生から、なんでこんな頭が悪そうな子が紛れ込んでるの? 頭悪いし受験会場を間違えた? 底辺校はあっちだよ、という顔をされている。 
「…ふーっ…」 
 そういう印象を与えないために志澄実の靴下は規定通りの純白でワンポイントも無し、上靴も中学校指定の簡素な物で小学生も履くような白い布と赤いゴムで構成されたスクール内履き、髪は目立たないようにアップにまとめて髪飾りは無しで髪ゴムのみ、メイクもネイルも当然していない、そんな格好で参加したのに、やっぱりスカート丈と肌の色のせいで周囲から誤解されている。 
「…ふーっ…」 
 とくに女子の受験生からの視線が痛かった。一目見て、バカが何しに来たの邪魔だけはしないでよ、という顔で過ぎ去られたり、フンと鼻を鳴らされたり、汚いものを見る目でスカートから伸びている脚を見られたりした。 
「……可愛いって言ってくれた人もいるもん…」 
 同性の他人から冷たい目で見られることもあるけれど、女友達は志澄実のことを可愛いと言ってくれるし、ヤンチャな男子からは、お前の頬ってホットケーキみたいなキレイな茶色で喰いたくなる、脚もハチミツかけて舐めたい、と言われて気持ち悪さ半分、嬉しさ四分の一、成分不明の感情四分の一だったこともある。女友達は、志澄実ちゃんが可愛いから冷たくする子もいるよ、そういうの気にしない方がいい、と言ってくれた。 
「…ふーっ…ぅぅ……やっぱり漏れそう…」 
 おトイレに行かせてもらおうかな、でも10点が……、と志澄実は迷う。受験科目は数学、英語、国語、理科、社会、自由の順に6つで自由以外は100点満点で合計500点、自由は面接に相当すると言われていて白紙のA3用紙に何を書いて提出してもよいらしい。ただ途中退席は、どの科目でもしない方がいい。志澄実が受験している私立星丘高校は昔、受験生の途中退席を原則失格にしていたけれど、それでは人権にかかわるということで10年前に途中退席すると10点減点とされた。それでもインターネットのニュースで取り上げられ、受験生に配慮が足りないと叩かれたので途中退席しなかった受験生には10点が加点されるという方針に変えている。これは皆勤賞のようなもの、と理事長が説明し押し通していた。 
「……どっちも、いっしょよ…」 
 減点だろうと加点だろうと、おしっこに行くと他の受験生と10点も差がついてしまう。なのでトイレに立つ受験生はほぼいなかった。午前中、お腹を壊している感じだった女子が2科目の英語でトイレに立ち、さらに4科目の理科でもトイレに立ったせいで、お昼休みに弁当を食べず、泣きながら帰っていった。合計20点も他の受験生と差がついて絶望したんだと思う。 
「…体調管理も自覚のうちっていうのは、わかるけど……ぅぅ……あの子、おもらしする前にトイレへ行って後悔したのかな……けど、漏らしたら……」 
 中学も卒業寸前という3年生になって、おもらしするのは恥ずかしすぎる。しかも合格すれば4月から通学する高校の教室で受験中に漏らしたりしたら、とても入学式に参加できない。 
「…あと25分……無理かなぁ…」 
 うっかり朝からトイレに行っていない。一分一秒でも休み時間を参考書を見ることや英単語帳をめくることに使ったし、お昼休みもオニギリ一つと水筒のお茶で2分で済ませ、社会科の総復習をした。それは周囲の受験生たちも、だいたい同じだった。ごく一部にやたらと余裕のある人もいて、のんびり食べたり、教室を訪ねてきた友達と会話したり、志澄実の隣席だった男子も参考書ではなく鉄道写真の雑誌を見ていて驚いた。もちろん志澄実は参考書をめくり続け、いよいよ昼休みが終わる頃になってトイレのことを思い出して席を立った。 
「…うーっ…あのとき、もっと早く行ってれば…」 
 志澄実と同じパターンの行動をした受験生もいたようで女子トイレは混んでいた。仕方なく別の女子トイレを探したけれど改装工事中で、仕方なく仕方なく混んでいる女子トイレに戻った。なかなか順番は進まず、予鈴が鳴ると焦ってきた。遅刻は当然に失格。それを意識している受験生は行列を待たずに途中で抜けタメ息をついて教室へ戻っていった。そのおかげで志澄実の番は繰り上がり、どんどん順番が早まったけれど、どんどん時間も差し迫ってくる。 
「……ぐすっ……せめて1分……ううん、40秒あれば…」 
 やっと志澄実の番というところでタイムアップだった。教室に戻る時間を考えると志澄実の直前に個室へ入った子がぎりぎりセーフで志澄実はアウト。個室の扉を開けて数秒ほど迷った志澄実は身震いして足踏みしながら、私立の高校が学校のトイレなのにウォッシュレットまで装備されたキレイな便器であることに感動しつつも、そのせいで順番が遅くなったのかもしれないと恨めしく思い、なにより便器を見て膀胱は激しく疼いたけれど失格になりたくないので諦めた。あと一時間くらい我慢できるかな、と。 
「……無理……もう…無理……」 
 一度はトイレの個室まで辿り着いたのに戻ってきたせいで、おしっこが膀胱の中で暴れて鎮まってくれない。間に合った社会の試験開始から志澄実は下半身を1ミリも動かさず両膝を閉じ、足首は肩幅に開いて踵を床からあげ、爪先で床を押して両膝を合わせる力を増し、身震いしながら鉛筆を握っていた。 
「…ふーっ……ふーっ……」 
 今すぐ挙手してトイレに行かせてもらい、おもらしを避けると同時に10点加点を諦めるか、おしっこを我慢しながらテストを最後まで乗り切るか、それとも限界が来て、おしっこおもらしをしてしまい泣くか、三つに一つ、今が人生の正念場だと志澄実は涙目になりつつも試験問題へ集中する。手のひらと腋が冷や汗で濡れている。腋の汗が冬服の中で腕から肘へ滴になって落ちているけれど、おしっこの我慢と試験問題へ集中し続ける。 
「……絶対……負けない……私には夢があるの……」 
 星丘高校は上位10番までに入って合格すると学費全額免除プラス制服代その他教材費すべて無料、さらに部活へ参加する生徒には部費免除と用品購入に10万円までの支給金がある。つまり完全に無料で3年間を過ごせる。ただし、この補助を使うと学校推薦枠で私立大学へ受験することはできなくなる、という実力重視な制度があって志澄実は母子家庭育ちなので母に負担をかけられず、星丘一本、この10番以内に入ることのみにかけていた。 
「…ふーっ…我慢……我慢よ、志澄実…」 
 だから10点の加点を逃せば合格はできても10番までには入れない。おしっこに行くわけにはいかなかった。もう、すべてを手に入れて笑うか、おもらししてすべてを失って泣くか、二つに一つだった。 
「……ふーっ……漏らさない……ミスらない…」 
 鉛筆をカリカリと動かして鎌倉時代の武家政権についての論述問題を解く志澄実の制服が濡れてくる。強い緊張と冷静さを保つ均衡の中で、冷や汗が大量に腋から湧いて腕とわき腹を流れているし一部はセーラー服の腋まわりに汗染みをつくっている。ぐっしょりと冬服の厚い布地を濡らして水色から青色へ変色させるほどだった。 
「……もう迷わない……あとは前に進むだけ……」 
 おもらしかトップテン合格か、二つに一つと賭けて志澄実は集中力をあげ、上半身は試験に下半身は失禁にそれぞれ集中させ、着実に試験問題を解いていく。ここまで他の教科もふくめて手応えはあった。いける、獲れる、志澄実のおさがり制服のスカート丈と小麦色の肌を笑った子たちを見返してやる、そう思って鉛筆を走らせた。 
 カリカリ… プルプル… 
 私は機械、上半身はテストを解く機械、下半身はおしっこを我慢する機械、別々に機能するの、と志澄実は満点を目指して問題を解きながら、おしっこを我慢する下半身は震わせていた。両膝をずっと合わせていると内腿も冷や汗で湿って、おもらしの擬似的な感覚がする。爪先立ちの足首が疲れてきたけれど力を抜かない。隣席の男子が小声で言う。 
「よーし、終わった」 
「…」 
 チラリと見ると男子は筆記用具を片付け、うつ伏せになって寝る体勢に入っている。 
「…あと18分…」 
 残る問題数と時間で志澄実にもペース配分として少し余裕はあった。けれど、下半身が赤信号を伝えてくる。 
「っ…ぅ…」 
 呻きそうになるほど、おしっこがしたくなった。 
「…」 
 ぁあぁ…、と志澄実の脳内が非論理的な情報でいっぱいになる。声に出して呻きそうだったので左手で口を押さえて我慢した。 
「…ハァ…ふーっ…」 
 なんとか、おしっこが出そうな波を乗り切り、左手を試験用紙を押さえるのに戻した。ベッタリと手のひらに汗をかいていて試験用紙が湿ってきている。鉛筆を持つ右手も汗まみれで滑りそうになる。志澄実は左手を右袖で、右手を左袖で拭いて鉛筆を持ち直した。なのに直後に、おしっこがしたい波が来る。 
「…ぅっ…」 
 今度は両手で口を押さえ、全神経をおしっこの我慢に集中する。 
「……」 
 ダメ……出ないで……我慢して……我慢するの……我慢……我慢……私、ずっと、我慢してきたじゃない、私の人生……お父さんがいなくて……欲しい物みんな我慢して……だから今も我慢……我慢できる……できる……漏らさない……おもらししたら、ここで私の人生終わり……なんとしても、なんとしても我慢なの……と志澄実は両目から一粒ずつ涙を零して耐えきった。 
「…ハァ…ハァ…ふーっ…」 
 耐えきった。 
「っ?!」 
 そう思った瞬間、また、おしっこの波が来る。より強烈な波だった。 
「……」 
 ぁぁぁああああぁ……漏らす……漏らす……うあああぁぁ……我慢してぇえぇ! と、志澄実は悲鳴をあげそうな口を押さえ、思わず背筋を仰け反らせた。 
「……ハァ……ハァ……ふーー…」 
 ダメ、ぜんぜん問題が進まない……両立しないと、あと3問なのに……、と志澄実は汗に濡れた手で鉛筆を持ち、左手で口を押さえたまま左肘で試験用紙を押さえる。 
「……」 
 来る…来る……この感じ、また、おしっこの波が……と志澄実は膀胱がおしっこを出そうとする波の予感に恐怖し、そして今までにない強度の波に襲われた。 
「………」 
 くっうぅぅうううぅぅぅうぅぅ…おしっこが……おしっこが…で…で……で……出ちゃうぅぅぅうぅぅ…嫌ぁぁぁぁ! と志澄実が目を見開き、鉛筆を机から落として両手で口を押さえ、両膝を痣ができそうなくらい擦り合わせてブルブルと震わせ、爪先を空中に浮かせた。 
 プシュョー… 
 おしっこを漏らしている感覚が股間にした。もともとずっと膝を閉じていた股間は蒸れていたけれど、蒸れとは違う、完全な濡れ、生温かい液体が拡がるその感覚がお尻で拡大している。 
「っ?!」 
 嘘……ヤダ、出た……お願い、止まって! 
 ショョー…ショ! ジョジョジョ! 
 で……出てる……出てる……おしっこ出てる……止まって! お願い止めさせて! と志澄実は必死の思いで、おしっこおもらしを止めようと下腹部に力を入れたけれど、かえって勢いが強くなる。 
 ジョォォォォ… 
「……」 
 ううぅぅ……止まらない……止まらないよぉ……おしっこ、おもらし……しちゃってるよぉぅぅ…と志澄実はどんどん拡がる生温かい感触に身震いする。お尻の中央だけで止まってくれない。お尻の周りまで拡がっている。見なくても、スカートから溢れているのが皮膚の感覚でわかる。前方にも拡がってきて内腿の間を流れて椅子の座面から零れようとしている。志澄実はふくらはぎをクロスさせて床に、おしっこが落ちてピチャピチャ音を立てるのを防ごうとした。そうすると、ふくらはぎをスーっと勢いよく温かい流れが這ってきて、おしっこをチビったくらいで済まず、完全なおしっこおもらしを自分がしていることを志澄実は自覚していく。 
「……」 
 おもらし……しちゃってるんだ……わたしぃ……おしっこを……おもらし……うっ…ううっ…どぉしよぉ……どぉしたら、いいのぉ……ううっ…うっ…と志澄実は嗚咽しそうになる。声をあげて泣かないよう口を押さえている両手には涙も流れてきた。おしっこも流れ続けている。今も止めようと力を入れてみるけれど、まったく止まってくれない。 
 ショォォ…ショォォォ… 
 少し勢いが弱くなってきたけれど、おもらしは続いている。ふくらはぎから靴下も濡れて上履きの中に貯まってきた。 
「………」 
 お願い……せめて……床に水たまりみたいにならないで……と志澄実は願ったけれど、おもらしは止まらず上履きから溢れていくのがわかる。布製の上履きなのである程度は吸収してくれるけれど、やっぱり溢れてしまい、床に水たまりをつくっていく。 
「………」 
 ……………………………、志澄実は頭が真っ白になった。 
「………」 
 …………………、目の前は真っ暗に感じる。やっと、おしっこを止められたけれど、膀胱がムズムズする。まだ出し足りない、どうせなら全部出してよ、と膀胱が求めてくるし、また力が入らなくなって、おもらしを再開する。 
 ショォォォ…シュゥゥゥ… 
 もう、おしっこが流れるルートが決まったようで、志澄実の股間から内腿の間が温かくなり、右ふくらはぎを濡らし、左足首に落ちて、左の上履きから床へ拡がる。また、水たまりが大きくなっていると思われる。 
「………」 
 ………あ………泣きそう……… 
「………」 
 ……………私……大きな声で……泣くのかな…… 
「………」 
 ……みんな……びっくりして…… 
「………」 
 ………あのスカート短いバカ女か……おしっこおもらしって、どこまでバカなの、って思われるんだ…… 
「………」 
 しょせん……無理だったんだ……母子家庭の私なんかが……いい高校に入って……勉強を頑張って……部活も楽しんで……自分の努力で自分の未来を切り開こう、なんて……ただ、人並みの生き方がしたくて…… 
「………」 
 ……フフ……可笑しい……泣きそうなのに……笑いそう……おしっこ、おもらししちゃった……滑稽……バカみたい………10点のために……中3にもなって、おもらしだって、笑っちゃうよね……終わった……私の人生……終わった……もぉ、死んじゃおうかな……どうせ、お父さんは私が2歳のとき、別の女と結婚するために、私とお母さんを捨てて……私なんて要らない存在だったんだ……おしっこおもらしするのがお似合いの……うん、決めた……死のう……今日……これから……どうやって……電車に飛び込めばいいや……はい、終了……あ……泣く……もう、泣く……泣くしか、ないよね、と志澄実は回転の速い頭で思考し、嗚咽に負けて泣き声をあげかけたけれど、誰かが志澄実の肩を軽く叩いた。 
「大丈夫、まだ誰も気づいてないよ。そのまま口を押さえてなさい」 
「……」 
 声の方を見上げると、試験官の女性教師がいた。首から名札をさげていて荒宮希美子(あれみやきみこ)と読める。希美子は小声で続ける。 
「あと3問、頑張って。途中退席しなければ、水筒の水を零しても、鉛筆を落としても10点はもらえる。諦めたら、そこで試験終了だよ」 
 そう言って希美子は志澄実が落とした鉛筆を拾うついでに椅子の下を見た。志澄実がおしっこおもらしでつくった水たまりは直径20センチほど、あとはスカートや靴下と上履きが吸収している。何より、受験生たちは自分自身の受験に集中していて、志澄実の方を見ることがない。 
「落ち着いて。あと9分、頑張るの」 
「……」 
 はい、と志澄実は頷いた。希美子はさりげなく机の右隅に置かれている志澄実の顔写真と氏名と受験番号が表示されている受験票を裏返しにして、そこにボールペンで水藤静香(すいとうしずか)という仮名を書き、仮の受験票として効力をもつようにボールペンの頭についているシャチハタで荒宮の印を押して、何事もなかったように教壇に戻る。 
「…………」 
 かわいそうに、おもらしするまで頑張るなんて、と希美子は表情には出さずに志澄実へ同情する。ずいぶん前から志澄実がトイレを我慢していることには気づいていた。試験官として教壇から見ると、あやしい動きをする生徒は手に取るように把握できる。本人はバレていない隠しているつもりでも、まじめに黙々と解答する人間と動きの差は明らかで、そして志澄実のトイレ我慢もわかりやすかった。 
「………」 
 おもらしする前に挙手したら、すぐに連れて行けるよう注目もしていた。けれど、志澄実は挙手せず希美子は5分ほど前から、確実に志澄実が失禁すると見込んでいた。両手で口を押さえてブルブルと震え、背筋を仰け反らせている時点で、もうアウトだと見ていて痛々しかった。そして、あえなく漏らし始めたけれど、それでも志澄実は頑張って口を押さえて泣かず、希美子は受験生が失禁してしまった場合のフォローを数パターン考えていて、そのうちで最も点数を稼げるものを選んでやることにした。 
「………」 
 このまま受験させよう、つらいけど頑張って、と希美子は心の中で応援した。 
「……ぐすっ…」 
 小さく鼻を啜った志澄実は試験問題を見つめ、数秒後には解き始めた。今は下半身のことは忘れる。ただ試験を解く機械になる。再び志澄実は受験生になる。 
「…………」 
 おもらしした尿が冷えてきているけれど、志澄実は問題文を目で追う。希美子は静かに教壇から廊下に続く扉を5センチだけ開き、さらに教室の反対側にある窓へ行くと風の流れを考えて、志澄実のおしっこの匂いが籠もらないように中央部の窓を10センチほど開放した。続けて暖房を強めておく。 
 カリカリ…ピチャ……ピチャ… 
 ときどき志澄実の椅子から、おしっこが床へ滴って音を立てているけれど、本人さえ気づかないほど小さな音だった。 
 キンコンカンコーン♪ 
 チャイムが鳴った。 
「……。はい、終了!」 
 希美子は志澄実が最後の問題を解き終わるまで数秒だけ待ってやり試験を終わらせる。受験生たちがタメ息を漏らし鉛筆を机に置いている。志澄実もすべての解答を終えていて、汗と涙に濡れた手が強く鉛筆を握っていて、離せなかったので左手で鉛筆を指から抜いた。 
「……ぐすっ………」 
「答案を集めます。着席しているよう!」 
 希美子は教室の端から試験用紙を回収していく。回収された受験生はグッタリと机に崩れたり、大きく伸びをしたりしている。誰も私語はしない。もともと同じ中学から受験に来ている生徒は可能な限り教室を分散されているので志澄実のクラスメートもいない。わずかに一人だけ、この教室にも志澄実と同じ中学から来ている受験生がいるけれど、席は離されているし男子だった。 
「………」 
 志澄実は俯いて震える。そのうち誰かに、おもらしを発見され、大声で指摘され、みんなで笑われるかもしれない、と恐怖している。 
「………」 
 他にも悩みはある。次の試験科目をどうするべきか、棄権はしたくない、でも、おしっこおもらしした志澄実は、どうしていいか、わからない。そっと希美子が試験用紙を集めに来た。そのついでに小声で言ってくる。 
「大丈夫、そのまま静かにしてればバレないから」 
「………」 
「次の自由も教室で受ければ10点あるよ。私が続けて試験官だから、なんとか頑張れ」 
「………」 
 また志澄実は静かに頷いた。希美子は試験用紙を集めきると職員室に届けた後は、なるべく早めに教室へ戻ってあげようと思いつつ教室を出て行った。残された志澄実は孤立無援になる。 
「…………」 
 …………、志澄実は放心状態になってきた。脳が疲れ切っている。五教科を一日で課されるだけでも疲れるのに、おしっこを我慢しながらの試験は大変だった。さらに、おもらしでパニックになった上、おもらしした状態で試験を続けた。なんとか乗り切ったという達成感と私はどうなるの、という感情も薄く、ただボーっとしている。 
「……………」 
 ……これって現実なのかな………夢っぽい……… 
「……………」 
 ………ホントに、みんな気づかない……おしっこおもらしした私がいるのに……… 
「……………」 
 志澄実は不思議な心地だった。お尻の周りは冷たい。股間はぐっしょりと生温かいまま。靴下は冷たい。上履きの中は生温かい。足元には水たまりがある。こんな姿で教室にいたら、すぐにも誰かに笑われそうなのに、誰も笑いに来ない。 
「……………」 
 そっか……みんなも疲れてるんだ………というか、私のことなんて、どうでもいい? ……わざわざクラスメートでもない人をからかいにくるメリットない………むしろ自由の科目は面接要素あるから……おしっこおもらしした子をバカにしたりしたら、どこかで先生たちが見ていて減点かも……あーっ……でも、私も減点かな……自己管理できない子の代表だよ……おしっこ漏らすとか、どれだけバカな子……ぅっ……泣きたくなってきちゃった……と、志澄実が泣きそうになったタイミングで背後の席にいた女子から声をかけられる。 
「あなた…おしっこを漏らしてしまったの?」 
「っ!」 
 ビクリと志澄実は顔を伏せたまま肩を震わせた。いくら周囲が他人に無関心といっても後席の人だけは別で、カンニング防止のため前後の距離も空いているので、背後からは前席の足元まで見える。試験の途中で、おしっこをおもらしすれば終わるまでには気づかれて当然だった。志澄実は顔をあげずに泣き声にならないよう押さえた小声で答える。 
「ち…違うから……水筒の…お茶……零しただけ…」 
「水筒って………」 
 どう見ても志澄実はおもらし後の状態で、座ったまま漏らしたためにスカートはお尻周りが濡れているし、ぐるりと円周になって水たまりが囲っている。そして足元にも水たまり、近づくと匂いもした。声をかけた女子は志澄実の受験票を見る。 
「…すいとう…しずか…って…」 
 裏返しになっている受験票についつい手を伸ばすと、志澄実が慌てて押さえる。 
 バン! 
 左手で受験票を叩くように押さえ、そのまま机の中に隠した。 
「あ…そうだよね。名前は知られたくないよね。あ、私は鹿狩純子(しかがりじゅんこ)。スイトウさん、何か力になれる? 保健室いく? 雑巾で床を拭こうか?」 
 純子は天然パーマ気味の頭をツインテールにしていて、ごく優しい声で志澄実に話している。おかげで志澄実の恐怖もやわらいだ。 
「…ぐすっ……大丈夫……なにも目立つことしないで……このまま次の時間も受験するから……これ、お茶だから」 
「そう。……でも、匂うよ?」 
「っ……お茶なの……お茶なの…」 
「そっか。お茶だね、頑張って」 
 純子は優しく志澄実の肩を叩いて後席に戻り静かにしていてくれる。あと5分で休憩は終わる。どうか何事もなく終わってくれますように、と志澄実は祈った。けれど、隣席の男子がニヤニヤと笑いながら話しかけてきた。 
「よぉ、試験のでき、どうだった?」 
「っ…」 
 また志澄実はビクリと震えた。とうとう、からかいに来た。いくら、みんなが周りを気にしないといっても隣席も後席と同じくチラリと見れば、おもらしがわかる。 
「っ…」 
 お茶なの、おしっこだろ、お茶なの! 臭いんだよ、保健室いけ! そんな会話を想定して震え、志澄実は顔を伏せたまま何も答えないけれど、男子は勝手に話を続ける。 
「数学の問い4のまる2さ。あれって解は二つあると思わないか? 出題ミスっぽく」 
「ぇ…………うん…」 
 泣きそうな鼻声だったけど、思わず志澄実は返事をしていた。志澄実も悩んだ問題だった。何度か検算したけれど解が二つ出てしまうのに、答えは一つという出題だった。 
「あとさ、国語の問い6の選択肢、あれはイもエも正解だけど、究極に選ぶとしたらエじゃないか? でも、イを選んだとしても間違いじゃない」 
「うん! 私もそれ迷った!」 
「やっぱりか。よし、あとはクリアだな」 
 男子がニヤニヤと笑っている。志澄実は怯える。いつ足元の水たまりのことを言われるのか、いつスカートが濡れていることを指摘してくるのか、とても怖かった。男子がニンマリと笑い、言ってくる。 
「オレさ、上位10番までに入れば、きりしまの切符を親に買ってもらう約束したんだ。君はさ、なにか親と約束したりした? ま、言いたくないならいいけどさ。きりしまだぜ、きりしま」 
「……きりしまって何?」 
「おいおい、知らないのか。いいぜ、教えてやる。豪華寝台特急で九州から東北まで走る列車だ」 
「…列車なんだ…」 
 無視したときの相手の反応が怖いので志澄実は小さな声で相槌を打つ。あまり大きな声で会話して目立ちたくない。なのに男子は志澄実の反応が薄いので満足せず、語り始める。 
「九州から東北まで四泊五日の旅で、なんと139万円だぞ。一人。しかも、これ一番安いプランで。最上級のプレミアムスイートマテリアルなんて一人339万円。一泊あたり84万7500円だ。走行距離で割ると1キロあたり935円だぜ? 935円!」 
「そ…そうなんだ……すごいね……すごい高い…」 
 この人……何の話をしてるのかな……何が言いたいのかな……と志澄実は混乱しつつも、チラリと男子の机を見る。そこには受験票があって石見大輝(いしみだいき)と氏名がわかった。 
「高いと思うだろ。けど、これが安いと感じさせるほどの旅なんだ。まず九州は霧島神宮から発つだろ、このとき御祓いしてくれるんだぜ。参加者全員に。もちろん、宗教的理由のある人は拒否れるけど、そもそも拒否るなら乗るなって話だよな。で、まずは別府温泉を目指す。熊本城がさ、地震で崩れてるだろ、じゃなきゃ熊本も寄りたいところなんだけど、博多に北上してさ」 
「…へ…へぇ…」 
 私にそんな話して、どうするの、男子ってやっぱり空気読めない人が多い、と志澄実は受験会場という場にそぐわない話題に引きつつも、おもらしがバレないように恥ずかしいのを我慢して顔をあげたまま石見の話を聴く。頬を赤くして恥ずかしそうな顔を晒している志澄実へ、熱っぽく石見は語る。 
「山口県では瓦焼きのソバが出てくる。山口県そのものは通過するだけなのに、事前に食材を積んで置いて料理してくれるんだぜ。まったく山口県には停車しないのに、そこの名物料理を出すっていう趣向、すごいだろ?」 
「…うん…すごいね…」 
 志澄実は足元に気づいてほしくないので石見の視線をあげたままにしておくため赤くなった顔を向け続けて適度な相槌を打っておく。石見は熱心に語っていて、まったく気づかずトークも止まらない。 
「京都ではさ…」 
「…へぇ…」 
 聴いていて志澄実の心は二つに分かれてきた。一つは、もしかして志澄実のおもらしには当然に気づいていて、それを周囲からフォローするためにあえて無関係な話題をベラベラと話して気をそらしてくれているのかもしれない、という感謝の気持ち。もう一つは少し腹が立ってきた。ようするに石見は10番以内に入れば139万円もする切符を親に買ってもらえて楽しむ気でいるし、すでに獲得した気でもいる。会話の途中で純子がフォローのために入ってくれたけれど、彼女も10番に入れる自信がありそうだった。そして純子もヨーロッパ旅行を親と約束していて、たしかに学費が完全無料になれば3年間で300万円以上も親の負担を軽くできるので子供への動機付けとして100万円くらい出しても採算が合うのかもしれない。けれど、かたや志澄実は母子家庭で貯金もない、公立高校へ行っても制服代さえ困るので、星丘高校の受験にすべてをかけてきた。ただ合格するだけでなく10番以内に入ることに。志澄実も合格するだけなら自信はある。ただ、10番以内に入れているかは微妙で、とくに石見がさきほど話題にした出題ミスっぽい問題の答えが両方正解にされたりするのか、そういうところでも運命が分かれそうだった。志澄実は11番以下だったら学費を払えないので入学辞退するしかないし、公立高校に行ってアルバイトで生計を支えて、きっと大学進学はできずに高卒で働くことになる。 
「…」 
 だからこそ、だからこそ、おしっこおもらしという不名誉にまみれてまで、ここに座っている。おもらししたままの姿でいるのが、どんなに恥ずかしいか。貧しい自分と豊かな二人、だんだん悔しくなってきた。貧困の再生産という言葉と、富の固定化という言葉がリアルに感じられる。それで、つい言ってしまう。 
「羨ましいなぁ。うちは貧乏だから合格しても何もないよ」 
「青春18切符があるさ!」 
「……」 
 微妙な顔になる志澄実に石見は青春18切符のお得さを語り始めた。その途中で試験官として希美子が早めに戻ってきて、紙束で石見の後頭部を叩いた。 
「まだ受験は終わってないよ。ナンパしてないで席に座れ」 
「荒宮先生、叩かなくてもいいだろ」 
 文句を言いながら石見が座る。教師が来たので全員が座り、残り数分だった休憩は静かに終わった。 
「よーし、最後の科目を始めます」 
 希美子が白紙のA3用紙を配っていく。まったくの白紙で氏名記入欄さえ無い。 
「では、各自、好きなことを書いてください。氏名と受験番号は、どこかに読めるよう、はっきりと。それ以外は自由です。点数化もされません。途中退席さえしなければ10点は入りますが、書いた内容はその人の人物を見るために参考とされ、順位や点数には影響しません。けれど、合否には影響します。とくに同じ点数の人が合格ラインに多数いるときなどは、これで決まります」 
「「「「「……………」」」」」 
 また受験生たちに緊張が走る。けれど、石見と純子は氏名と受験番号を書くと、絵を描き始めた。志澄実が書くことは事前に決めていた星丘高校を志望した動機だった。他の受験生たちも、だいたいが志望動機か、将来の夢を書いている。 
 カリカリ… 
 私が貴校を志望した最大の理由は特待制度です。女手一つで育ててくれた母… 
「……」 
 志澄実は率直に金銭面と校風が好ましいから、と書いたけれど、校風については標準的な内容に留まり、時間も余った。 
「……」 
 カリカリ… 
 素晴らしい貴校の制度ですが、一つだけ難点があるとすれば、受験中の途中退席に対する扱いです。自己管理が必要なのは理解できますが、どうにも防ぎようのなかった生理現象で苦しむ人もいるかと思います。 
「……」 
 私もその一人で危ういところでした。もし失禁していたら、たとえ合格しても入学は… 
 ゴシゴシ… 
 志澄実は書きかけの文章を消しゴムで消した。やはり学校批判を書くのは受験生として怖いし、おしっこを漏らしました、とは書きたくないので嘘をついてみたけれど虚偽を記して希美子が選考段階で他の教師に話してしまうかもしれないので、ボツにした。予定通りの志望動機だけにして誤字脱字をチェックして鉛筆を置いた。 
「……はぁ……」 
 終わった、という解放感でタメ息が漏れた。 
「…………」 
 私………おもらしのまま試験しちゃった……と志澄実は実感しつつ、さりげなく手でスカートを撫でた。やっぱり濡れている。膝上20センチのスカートは、びっちょりと志澄実のおしっこを吸って存在している。足元の水たまりの大きさを爪先で探ってみる。上履き越しでは、よくわからないので静かに覗いた。 
「……」 
 ううっ……完全に、おもらしだよ……よくこれでバレなかった……と志澄実は水たまりの大きさに戦慄しつつ、試験を終えた。希美子が順番に回収していく。石見の用紙を回収した希美子は周囲の受験生に見えるように掲げた。 
「このくらい自由なヤツもいる」 
 あまり絵心はないけれど、特急列車と路線図が熱意をもって書かれていた。周囲の受験生から緊張が解けた笑い声があがる。希美子は志澄実の用紙を回収するとき軽く頭を撫でたけれど、純子の用紙を回収したときはゴツッと拳で頭を叩いた。 
「痛っぅぅ…」 
「まったく、いくら内部生は不合格にならないからって、これはない」 
「ささやかな意見ですよ」 
 純子は巧緻なデッサンを描き、おしっこおもらしをしている志澄実を絵にしていた。後ろからしか見ていなかったはずなのに、志澄実そっくりの顔を描き、両手で口を押さえ、おしっこを椅子から床に垂らしてしまい、涙を流す表情を描き出している。そしてタイトルも入れ、受験生の悲劇、そろそろ制度を見直せば? 理事長の孫娘とかが漏らして自殺すればやめる? いつまで他人事なのかな、と挑戦的な学校批判の意見を書いていた。希美子は用紙を集め終えると教壇に戻って全体に告げる。 
「これをもって試験を終わりますが、帰るまでが試験です。静かに整然と退場してください。あ、水藤静香さんは伝言があるので残ってください。他はすぐに教室を出るよう。お疲れ様でした」 
 受験生たちが帰っていく。志澄実は気力が尽きて机に突っ伏した。どうして水藤静香という仮名をつけたのか、最後の告知のためだとわかった。もし、純子以外の受験生も志澄実のおもらしに気づいていて見て見ぬフリをしたのだとしても夏原志澄実という名で残るよう言われたら記憶されてしまうかもしれない。そういう配慮だとわかって安心したのと同時に、とっさにつけた仮名とはいえ、もう少しマシな名前にしてほしかった。純子は帰らず教室後方のロッカーを開けるとバケツと雑巾を出している。教室には志澄実と純子、希美子の3人だけになった。 
「私が拭いておくし、先生とスイトウさんは保健室へ、どうぞ」 
「あなたは、いい子なのか悪い子なのか、よくわからないわね」 
「人は多面的なんですよ」 
「はいはい。水藤さん、立てる?」 
「…はい………ご迷惑をおかけしました」 
 志澄実はよろよろと椅子から立ち上がる。へばりついたスカートがお尻から離れ、濡れているのでスースーする。純子が屈んで上履きを雑巾で拭いてくれた。 
「…ぐすっ…ありがとう…」 
「どういたしまして」 
 純子が水たまりの方も拭き始めたとき、誰かが教室に入ってきた。 
「やべぇ! 忘れるところだった!」 
 石見だった。走って志澄実たちのところに来ると、自分が座っていた机から鉄道雑誌を取り出し、そして何事もなかったように去っていった。おもらしの処理をしてもらっている最中だった志澄実がショックを受けている。 
「……ぅぅ……見られた………」 
「「大丈夫、あいつは…」」 
 純子と希美子が異口同音する。 
「「鉄道以外に興味をもってないから」」 
「………あの男の子と友達なの? 高校の先生も?」 
「別に私とあいつは友達じゃないけど、幼稚園からいっしょだから面識はあるよ。生粋の内部生。あと、荒宮先生は美術の先生で中高どっちでも教えてくれてるから」 
 純子と希美子が受験生と試験官にしては気安すぎることのなぞが解け、志澄実はわかりきった質問をする。 
「……ぐすっ……内部生って……星丘中学からのエスカレーター組のことですか?」 
「そうそう」 
「…私たちと、いっしょに受験してるんだ…」 
 星丘高校は大きな学園の一部で幼稚園から大学まであった。そして、ありがちなことに自校出身者は受験で優先される。純子は平然と言う。 
「大学受験で外部を受けるときの演習みたいなものかな。でも不合格にはならない」 
「……」 
 そんなのなんかズルい、と志澄実が思ったことは顔に出ていた。どおりで石見は昼休みに雑誌を読んだりして、まるで普段の実力テスト程度の雰囲気だったのだと悔しくなる。石見以外にも、まるで緊張していない生徒は何人もいた。純子からも余裕を感じる。 
「まあ、このテストが私たちの中3の3学期末試験になるから、ぜんぜんテキトーでいいわけじゃないし、あと10番以内に入るのを狙うなら、がっつり頑張るよ」 
「……エスカレーターの内部生もカウントされるの………そんなの…」 
 詐欺だ、と志澄実は感じたけれど、希美子が言ってくる。 
「採点は厳正かつ平等にされるから安心して。自由の答案以外で560点満点で」 
「………内部生って、どのくらいが10番以内に入るんですか?」 
「だいたい毎年5人から7人かな」 
「っ…」 
 それじゃあ私が入れる可能性は……たった5枚か、3枚しかない切符……と志澄実は暗澹とした気持ちになる。星丘中学の定員は約100人で星丘高校は約300人、そして高校を受験するのは倍率3.5倍なので1050人となるけれど、これは数字のマジックで実際には外部からの受験で合格できるのは200人、そこに950人が挑むので4.75倍が例年の相場で今年も同じ傾向だった。しかも志澄実が狙う切符は10枚しかないのに過半数を内部生がもっていく。志澄実は各公立中学のトップ層950人と競争して最悪3枚しか無い切符を手にする必要があった。そんな志澄実の事情を知らず、希美子が純子に問う。 
「鹿狩さんは、どうだった? 10番に入れそう?」 
「たぶんね」 
「ヨーロッパのどこに行くの?」 
「もちろん芸術の都パリ♪」 
「お父さんは美大志望を認めてくれそう?」 
「ううん、絶対に医学部に入れって」 
「そっか」 
「けど、今回の試験で10番以内だったら医学部を出た後、美大に入るのを認めさせる」 
「取引ってわけね。それもいいかも」 
「……」 
 よくない……ぜんぜん、よくない……お医者さんになりたくて一生懸命それだけに賭ける人もいるのに……本当は美大に行きたいのに、ただのステップとして医学部に入るなんて……いったい、いくら教育費が……頭良くて、家がお金持ちで……この人おまけに美人……何もかも恵まれた人生……なんてズルい……と志澄実は暗い思考に落ちていく。そして、大きな心配もある。今日の受験で、おしっこおもらしを志澄実がしたことを知っているのは二人、一人は教師なので言いふらしたりしないはず、でも純子はわからない。そんな不安を純子が察して言ってくる。 
「私も石見も内部生だから、入学式には絶対いるよ。スイトウさんも合格してるといいね?」 
「……………」 
 合格確実な純子におもらしを知られている志澄実の不安は大きくなる。希美子が言ってやる。 
「大丈夫、鹿狩さんはイジメをやるほど悪い子じゃないし」 
「さて、どうかな?」 
「そういう不安を与える言い方、やめなさい。すごく傷ついてるに決まってるのに」 
「はい、はい、ごめんね。言わない、言わない。ぜーったい、言わない」 
 志澄実が心から頼む。 
「絶対、絶対、お願いね!」 
「うん、うん、この口が裂けても言わない」 
「お願いします」 
「でも、言わないけど描くかもね」 
「っ…カクって、どういうこと?」 
「絵に描くの」 
 かなりの画力がある純子が得意げに言うと希美子は注意する。 
「それもやめなさい。あんな風に描かれたら、水藤さんが傷つきます。イジメとみなしますよ」 
「っ…あんな風って?! どこかに描いたの?!」 
 ほぼ悲鳴に近い志澄実の問いに希美子は口を滑らせたことを悔やみつつ、隠すと逆に不安が高まるので言っておく。 
「鹿狩さんが、ふざけて答案に水藤さんの絵を描いたの」 
「っ…」 
「だって自由だもん」 
「ひどい!!」 
「かなり印象的な光景だったしさ。創作意欲をくすぐられて」 
「ひどい!! ひどい!! ひどい!! 私がっ…私が、どんな気持ちで!」 
 訴える志澄実の両目が涙に濡れる。嗚咽が込み上げてきて泣ける。希美子が純子を叱る。 
「コラ、せっかく泣かせずにいたのに」 
「ごめんね、スイトウさん」 
「っ!」 
 謝り方が軽くて、からかう感じだったので志澄実の中で感情が爆発した。 
  
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